神様のひかり | 光の記憶 魂の記憶 まさよのブログ

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不思議なこと、光のこと、愛のこと 神さま綴り 

GWも中日ですね、みなさんはどこかにお出掛けなのでしょうか

初夏の陽気の仙台でしたが 今日は少し落ち着きました。


ご相談を受けていて、「わたし子どもを産めますか?」とか

「わたし子ども産みますか?」 と聞かれる事があります。

もうじき生まれてくる子がいる時は、近くに大きく見えますので

そういう時は「遠くない時期に赤ちゃんがきますよ」って言えます。

遠くにまだ小さく見えている時は、今すぐにではないけれど

あー生まれてくるその時を伺って 待機しているのだなぁと

わかる時「大丈夫 少し時間が空きますが必ず生まれてきますよ」

って伝えます。

この遠くにとか 近くにっていう言い方は上手く言葉で表現できない

のですが、生まれるのに距離感みたいなものを感じるのです。

お腹に既に入っているとか もうじき着床するのが近い時は

赤ちゃんの姿がとても大きく視えます。

生まれてくるのにまだ時間がある時は、小さく視えるのですが

光るようなエネルギーに包まれた、小さな赤ちゃんの姿で視えます。

仮に流産されてしまわれたとしても、仕切り直してすぐにまた生まれて

くる時も近くに視えます。


昨年の夏 実家が近所のまるちびちゃんと会ったときも

「まさよさんわたし二人目って産む?」って聞かれたとき

とても近くに見えていたので「大丈夫すぐ来るよ」って言ったあと、

すぐタイミングよくお二人目を妊娠されました。 

それは 本当にまるちびちゃんの近くに大きく視えていたから。


わたしが困るとき、それは何度視ても 遠い先を視てみても

子どもの姿が視えないとき、とても答えに困ってしまいます。

子どもを切に望んでいる人にとって、又苦しい不妊治療をされている

人を目の前にして 「残念ですがお子さんは生まれません」と

言わなければならない事ほど 辛いことはありません。

同じ女性として、胸が苦しくなります。

皆さん同じ様に 旦那さんにお子さんを抱かせてあげたい 

両親に孫の姿をみせてあげたいって思っていて、その思いは

とても切実で、その気持ちも痛いほどよくわかります。

きっと皆さんわたしから「大丈夫ですよ 必ず生まれますよ」 

その一言が聞きたくて いらして下さっている事も重々承知して

おります。

出来れば嘘でもそういって喜ばせて差し上げたい、その思いで

心が揺れる時があります。

でもね、嘘はつけないのです。

不思議な皆さんが どうしてその人をわたしのところに連れて

いらしたかを思うと やっぱり嘘は言えなくてね。

今世 母親や父親を選ばなかったという事は、それ以外の喜びや

楽しみ そして苦しみを選んできただけで 誰のせいでもなくてね

誰かが悪い訳でもないのです。 

「わたしと結婚しなければ 主人は子どもを持てたのに」 とご自分を

責めて ご主人に対して申し訳ない気持ちになることも見ていて

切なくてね。 でもね本当に誰も悪くないし子どもがいない事は

悪いことではないのです。

旦那さんだって まだ生まれていない子どもよりも 奥さんの方が

ずっとずっと大切な かけがえのないパートナーなのです。

あなたの代わりはいなくてね、あなたでなければダメなんです。

その事だけは、どうぞ気付いてくださいね。



過去に一度だけ「お子さんは諦めた方がいいです」と言えずに 

嘘をついた事があります。

それは今でも後悔していて とても申し訳なく思っています。

その人は今でも 子どもが生まれることを期待しているかと思うと

罪悪感で胸が押し潰されそうになります。 

安易に「生まれますよ」と嘘をつくことは、その時きっと目の前の人を

喜ばせてあげられるでしょう、安心させてあげられるでしょう。

けれど長い目でみたとき、本当はその人をとても傷つける事になるし

苦しめる事になるのだと思うのです。

だから嘘は言わない 言えないって思います。

わたしにお子さんを諦めて下さいと言われた方は とってもショック

でしょう。

そのショックは いづれわたしに対して怒りや憎しみに変わることも

わかっております。

でもね、子どもを持つこと以外に その方が他の喜びをいつか

見つけて下さるのなら、その方が後々まで幸せであるのならば

わたしは喜んで憎まれましょうって思うのです。

罪悪感に苦しむより 憎まれるほうがわたしはラクです。



子どもは産んだとしても、いろんな事情で子どもと一緒に住む事が

出来なくてなっている人もとても多いです。

どんなにかお辛いことでしょうって思います。

子どもを旦那さんやお姑さんに取られた女性が 前にいらして

下さった時 「子どもに母親は必要ですよ?」

「必要だと思いませんか?いつから一緒に暮らせますか?」と

聞かれた時も辛かったです。

それは一緒に暮らしている姿が 視えて来なかったから。

一緒に暮らしてはいないけれど、子どもが大きくなっている時に

良い親子関係を築けていること、その時がとても幸せな良い親子関係

だなぁと思いました。

それは離れていたからこそ 築けた親子関係である事を

お伝えするのが精一杯でした。





わたしはこういう仕事をしていて とても辛くなるときがあります。

それは相手が望む答えを お渡しできない時が一番辛いです。

本当の事を言うだけが、良いとも限らない事はよくわかっておりますが

嘘を言って喜ばせる事はとても簡単だけど、それで本当に良いの

でしょうか。

いつもそのことで苦しくなるのです。

でもわたしの苦しさなんてね、たかが知れていてね、

本当に苦しいのはその人だから。

わたしは何をするべきだろうかと問うと 不思議な皆さんが教えて

下さった事を ただ真摯にお伝えする事なのだと思うのです。 

そこにわたしの思いや辛さなどは、関係ないのかもしれません

でもね わたしも普通の人間なのでね、同じ様に苦しむのです。



いらして下さった方は、ご存知かも知れませんが、わたしは神棚を

お祀りしていないのです。

誰か特定の神様や 仏様をお祀りして伺う事も良いのかも

知れませんが、でもそれでは いらして下さった方と 

お伺いを立てる神さまが遠くてね、とても遠くに感じるのです。

上手く説明出来ないのですが、距離があるように感じて

電波の悪いテレビの衛星中継のような感じというか 

国際電話のような感じで問うてみても 答えがとんちんかんだったり 

あさっての方向だったりと的を射ないのです。

だからその人の神さまが教えて下さる事が やはり一番的確だったり

致しますので わたしは神さまをお祀りしていないのです。

いつも、今日はどなたが教えて下さるのだろうかと思います。

人が違えば 教えて下さる方も毎回違うのです。

人によって 神さまだったり 仏様だったり ご先祖さまだったりと

さまざまですが、皆さん面白いように的確に教えて下さるのですが、

時々可笑しくて噴出しそうになるのです。

それは教えて下さる方が 生前知らない情報だったりすると

「あれ?それどこで知ったのかなぁ」 と疑問に思ったりするのです。

「脳梗塞で亡くなっている人が多い家計だから 気をつけなさい」

と教えて下さった後で らっきょうを出して視せられると、「それ本当に

知っていましたか?」って可笑しくなるのです。

「この子は嗅覚が優れていて この部分で仕分けている」 と

目のすぐ上のおでこの辺りと撫でて説明されると

「えっそれ本当ですか?」って思わず 突っ込みを入れたくなるのです。


でも不思議な皆さま方は至ってまじめに そして真剣に教えて

下さるので、尚更噴出しそうになるのです。

こんな事を書いたら みなさんどう思われるかわかりませんが

不思議な皆さんも 神さまもとてもお優しく、そして皆さん大らかで

いらっしゃるので、それくらいで怒ったりされないのです。

祟りが当たり前のように それを説く人に会った事はありますが

わたしは今まで一度も 祟るぞとか 祟っているぞっていう

神さまや仏様にお会いした事がないのです。 一度もです。

神様の祟りを恐れるのではなく、神様にも気遣いをして差し上げること 

その事を大切にして下さったらいいなぁと思います。


わたしは自分の受け取り方とか 訳し方が100%だとは

思っていないです。

100%はその方ご自身が 自ら気付くこと知る事が100%だと

思うから。

神さまとお話しするとき、先入観でもって聴いていなくて、

この神さまは 何をお伝えしたいのだろうか?

この人に 何を気付いて欲しいのだろうか? 

と ただそれだけに集中いたします。

神さまも 仏様も 何をどう思われているかを上手にお伝え出来た時、

とてもお喜びになられて スーと大きな光の玉で 神さまの光でもって

ご挨拶にいらして下さるのです。

それはまるで 神さまに誉められているような気持ちになるのです。

「ようでかした よう解釈した」 そう称えて下さっているようで

100%の解釈ではないかもしれないけれど、それでも神様も

ご満足だったのだと とても有難くなるのです。


この神さまの光の玉を わたしは肉眼で見ているとずっと思って

いました。

神さまの光も キラキラも肉眼で見るものだと思っていたのですが

肉眼ではなかったという事を 最近になってしりました。

同業者の方が個人相談にいらして下さった時 こんなにも

神さまの光が 光の玉が近くに来ているのに、その方には視えて

いない事にとても驚いたことがありました。

あちらの目と こちらの目 講座でもお話しする 「あちらの目」。

小さなキラキラも 神さまの光の玉も 大きな羽も あちらの目で

視ていて、物質でないものは全てがあちらの目なのでしょうね。





※5月9日 30日 レイキ交流会にご参加される方は、曲げてもよい

スプーンを各自持ってきて下さいね。

100円ショップで売っているものなら 人差し指だけで曲げられます。
(※あまり頑丈な高価なスプーンだと 指で曲げる事は難しいです。)



※ちょこっとだけスピリチュアル 大半はどうでも良い事をつらつらと

綴っているブログ愛しているよ大好きだよ 

時間があれば覗いてくださいね。 






今日も良い日に致します

空がきれいです


みかんと遊びたいうりは みかんの顔をべろべろ舐めます。


でも遊びたくないし 迷惑なみかんは やめろにゃって

怒ります。



それでも 遊ぼうよと しつこいうりに


猫ぱんちするぞって



パンチするのですが、爪を出さないみかんのパンチは



全然効かなくて、ちっとも懲りない うりです。

この後 本当にみかんに怒られて「キャン」って鳴いたうりです。

残りのGW どうぞよいお休みにされて下さいませ。

読んで下さりありがとうございました。