質問「イエス様が3回もペテロに『私を愛しているか』と聞いたのは何故?」 | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

2014年 1月

【質問】海南島ヨハネ様へ。

ヨハネによる福音書で、イエス様がぺテロに3回、

「私を愛しているか」

と聞かれていますが、あれはどうして3回も聞かれたのでしょうか?

私は何だかコントのようで面白く感じてしまいます。

ぺテロが3回イエス様を否定したことを、打ち消すためのご質問だったのでしょうか?

色々な解釈があるかと思いますが、ヨハネ様はどのようにお感じになられましたでしょうか?


【回答】海南島のヨハネです。

質問を感謝します。

ペテロに対してのイエス様の命令は3回とも意味合いが違うとか、色々な説がありますが、私は重要なことに対する確認とか念押しとの意味が強いと思っています。

「神は愛である」

と言いますが、神の本質は愛であって、凄まじい程の愛情です。

そして神は自分が愛される事をも求めておられます。

愛は何かの手段では無いのです。

ある時、神様は言われました。

「礼拝とは神を拝することである。拝するとは愛することである。愛とは犠牲の伴う愛である」

と。

現在でも神様は多くの人に問いかけているようです。

あなたは自分の信念や仕事以上に私を愛するか?

組織とか家族以上に私を愛するか?

自分の命以上に私を愛するか?

と。

私を含め、大抵の人は返答が出来ないでしょう。

でも、現在でも自分の命以上に神を愛した人たちが中国には大勢います。

何千人以上でしょうか…。

文化大革命の時、信仰を捨てなかった為に田舎に送られ重労働をさせられた人々です。

その子供は非国民として扱われ、食料も制限され、親に対して助けを求める手紙や録音をさせられて、信仰から離れさせられようとした…。

その録音を聞いた親は多分、号泣したでしょう。

でも、

「神にはわが子を助ける事ができる」

という信仰と祈りは凄まじかったと思われます。

その人たちが現在の中国の教会の指導者的な人になっています。

人口比でも日本の10倍以上のクリスチャンがいるというのは納得できます。

若い人には考えられない事でしょうが、老齢となり自分の余命が感じられた信仰の勇者たちは、この世のものをかなぐり捨てて、まず神を愛することをしたらどうでしょうか。

神の喜びですよ。

質問から離れてごめんね…。


【ルカの福音書9:57〜62】

さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。

「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」

すると、イエスは彼に言われた。

「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

イエスは別の人に、こう言われた。

「わたしについて来なさい。」

しかしその人は言った。

「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

すると彼に言われた。

「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

別の人はこう言った。

「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」

するとイエスは彼に言われた。

「だれでも、手に鋤をつけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

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今日聞いた神様の言葉の記事をご紹介頂きました。いつもありがとうございます!(管理人)

オニさんがローマ信徒への手紙から聖句を引用をしておられましたが、管理人も思い出した聖書箇所があったので、貼っておきたいと思います。


さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。

彼らは行って、サマリヤ人の町に入り、イエスのために準備した。

しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。

弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。

「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」

 しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。


そして、一行は別の村に行った。

(ルカの福音書9:51〜56)


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