神が人に語る方法 | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

2007年 7月7日

教会では、

「聖書の言葉は聖霊よって書かれているので、一言一句間違いが無い」

と、よく言われる。

しかし未信者に聖書を読ませたら、お互いに矛盾する言葉を山程見つけ出すと思う。

そもそも、どの様にして聖書が書かれているのか、聖書学者を含め殆どの人は経験が無いので、只神様が預言者に語り、その通り書いたと思っている様である。

私が知っているだけで神様が人に語る場合、幾つかの方法がある。


1.耳から聞く
2.霊で聞く(言葉・意味)
3.口から出る預言
4.異言を訳する(解き明かす)
5.幻を描写する


1、2、3については、先ず間違える事は無い。

私も50年間に数百の言葉を聞いたが、意味を間違えた事は一度も無かった。

4については私は経験が無いので論評は差し控えたい。

異言は語るが…。

2は、神の思いを預言者に与え、預言者は自分の言葉でそれを表現している、いわば通訳である。

通訳は自分の知っている言葉、知識でしか表現出来ない。

それで、

「何々の様に大きい」

とか、

「何々くらい美しい」

とかの表現になる。

この何々は形容であって、字句通りにとると大変な事になる。

黙示録は大半がこの意訳であると思っている。

又、神の言葉は語られた時の背景を知ることが、絶対必要と思う。

状況が180度変われば、神の言葉も変わって当然である。


2年位前、中国のある会社が、

「日本向けのパンフレットを作ったので校正して欲しい」

と持って来た。

彼らは単語を忠実に日本語に訳しているのだが、日本人が見ると随分違った意味になる。

それで私は日本人が判る意味に訳を変えた。

これを意訳と云うのであろうが、元の文は同じでも翻訳する人によって表現はかなり違ってくる。

だから訳した文が一言一句間違いないという事はない。


或るとき、神様に聞いた。

「創世記の数は信じ難いと思いますが」

神様は直ぐ返事された。

「いや、あれは預言である」

私は悟った。

創世記の数等は神の数、その他を預言者が訳したものである。

又、或る時言われた。

「神の国では、数は桁数で数えられている」

全然、数え方が違うのである。

預言者は自分が持っている数の数え方に訳して当然であるが、もう数字には意味が無い。


先日、私の信仰の友から手紙が来た。

便箋4ページに小さい字でびっしり書いてある。

初めの挨拶の後は聖書の言葉とその解釈が延々と続き、忍耐をして読んでいたら、最後の数行に用件が書いてあった。

これはもう100%用件を理由付ける為の聖句である。

こういう御言葉の使い方を神様はどう思っているだろうか。

喜んでいるとはとても思えない。


聖書の言葉は神様が人間に語る文例集ではないだろうか。

頭の中に記憶させて置けば必要な時、必要な言葉を思い出すと云う方法で神様は示して下さる。

そして、

「あの御言葉はこんな意味であったのか」

と、同時に悟りを与えて下さる。

この様にして神様は人に語って下さるのである。

暗唱聖句のように覚えなくても、頭の隅にでもあれば神様は取り出して下さる。

その言葉について何だかんだと勉強は不必要と思っている。

私は時々、神様に叱られる事がある。

「わたしはあなたに言ったではないか」

と。

どう考えても聞いた覚えはない。

しかし聖書の言葉を示されて胸を打たれた記憶はある。

神様はこれを称して、

「わたしは言った」

と言われるのである。

短文の文例集が沢山入っているパソコンがある。

この短文をつなぎ合わせると色々な文が出来る。

神様は人に語るのに、この選別のスイッチを押している様なものだと思っている。

私は聖書の勉強が必要ないとは言っていない。

信仰のレベルによって色々な人が存在する。

初心者にとっては人間の言葉だけが頼りである。

悟りを得た人の証しも有益である。

しかし、どんな大先生であっても、

「必要な時、必要な言葉を、理解力と共に神から与えられた」

これには到底及ばない。


【管理人のコメント】
ザンダー・シングの本からの引用を以下に載せておきます。

「北インドにいた時、わたしはある友人の家で宗教書を読んでいたが、よくわからない点が幾つかあった。

神学博士、哲学博士の肩書きを持つ友人がそれに説明を加えてくれたが、その説明は満足のゆくもののように思えた。

ところが、後年、わたしは本の原著者本人と出会う機会があり、同じ箇所でまったく違う説明を受けたのであった。

これと同じで、学者は聖書を曲解していることが多い。

本当の意味を知ろうとすれば、われわれは原著者に向かわなくてはならない。

つまり、聖霊と共に生きなくてはならないのである。

聖霊が聖書の真の原著者なのだが、ヘブライ語やギリシャ語で書かれた聖書の一字一句が霊感を受けているという意味ではない。

自分の衣服が自分自身ではないように、言葉そのものは人間界の言語にすぎないのである。

霊感を受けているのは言葉ではなく、『内的意味』である。

聖書記者の使う言語は、日常生活で使うのと同じ言語であるから、霊的事柄を伝えるには最適なものではない。

字面から真の意味を把握することが難しいのはこのためだが、原著者つまり聖霊と交わっている人々にとっ ては、すべてが明らかになる。

『わが言葉は霊である。生命である』

 とキリストはいわれたが、ここでいわれているのは文字のことではなく、意味のことである。」



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