不従順について | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

私は神様に対して不従順な男である!

しかし自分自身に対しては従順だと思う。

なぜなら大抵の場合、自分自身を偽らなかったからである。

昔、神学校へ入ろうと思った時、神様は非常に厳しい言葉でいわれた。

「従う力があなたにあるのか」

その時は、従う事がどんなに難しい事か知らなかった。

そして、神様から与えられた力でなければ、到底出来ない事も…。

神様に対してなすべき事の重要度に順位をつけるならば、従順は他に比べ飛び抜けて一番だと思う。

しかし、これが出来ない。

毎日、

「父よ、あなたの思いが今日行われます様に」

と熱心に祈っているが、先ず自分からして従順でない。

「父よ、あなたに従う力を与えて下さい」

と祈らざるを得ない。

多くのクリスチャンは、

「もし神様が明確な方法で、その思いを知らせて下されば、何でも行います」

と言うであろう。

しかし、私は確信している。

ほとんどの人はそれが自分にとって都合の悪い事であれば、行いはしない。

私自身、どれほど従わなかったか数え切れない。 

前記したように、私の場合、毎朝の様に聖霊のノックで起こされる。

初めの何カ月は飛び上がって起きたものである。

しかし奇蹟も何ヵ月も続くと、驚きも感じなくなる。

眠さに負けて、又寝てしまう。

私はいつも思うが、

(何故、神様は眠い時に限って起こすのであろうか?)

と、長い間思っていた。

ある朝、神様は私を起こしてこう言われた。

「May  I  talk  to  you?」(話をしてもいいですか?)

私は全く恐縮してしまった。

神様が人に対して言う言葉であろうか。

今まで、どんな思いで私を起こしていたか、返す言葉もない。

然し、これが判っていて、又寝てしまう。

もし起こされた時、旅行等で出発の為であれば、又寝る様な事は先ずしないであろうが、本当に不従順な者である。

昔、神様が私に語り始められた時、非常な嘆きの言葉で私に思いをぶちまけられた。

その時、見た幻では、ほとんどのクリスチャンは神に対し傍観者であり、神様を拝しているのは2、3人だけであった。

その時は到底理解出来ない幻であったが、最近段々と判ってきた。

私達はよく、聖書の御言葉によって、

「これこれを行います」

又、

「計画します」

と言うが、私は全く信用しない。

本当は、

「私のやりたい事を肯定してくれる御言葉がありますので、これを理由にして行います」

と云う処ではないだろうか。

私がこう言うと、立腹する人もいると思うが、2、3の理由をあげてみると、


1.行動や計画の結果について、何の報酬も期待していないだろうか?

2.自分の信仰や希望に添っている事であるか?

多くの人は、自分の行動や計画、これを、

「信仰的だ」

と云う。

私は思う。

それは従順とは関係ないという事を。

例えば、アブラハムがイサクを捧げた時、神の言葉をアブラハムは信仰的だと思っただろうか!

マリアにしても受胎告知を信仰的だと思っただろうか。

ペテロが天からの籠の幻を視た時も同様である。

従順とは、

「自分の利益に添わず、自分の意見にも添わず、自分の信仰にも添わないが、これは神様の命令であり、思いであるので行います」

これが神様に対する従順であると思っている。

教会や教団では、その多くが長期達成目標を掲げておる。

神様が具体的に「そうせよ」と言われたのであればよいが、そうでなければ、これも従順とは関係のない事だと思う。


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