啓示について | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

誰でも一つの言葉や地名、人名等を何度も思い出す事はないだろうか。

全くその理由が判らない時、私は神様へこう祈る。

「あなたからのものであるならば、知らせて下さい。これ等に主の御心が行われます様に」

私の多くの経験からであるが、神様はご自分の意思を伝えるのに思い出すと云う手法を用いられる事が多い。

大声でハッキリ言ってもらった方が良いと、私も永い間思っていた。

しかし、この方法では無視した時や軽視した時、責任の免れようがない。

昔、神様が、

「全地を祝福しなさい」

と言われた時、殆ど本気にしないで軽視した。

その結果、約一ヵ月半、夜寝られない日が続いた(連続して災いが起きた)。

その時、軽視する事の罪を体で覚えた。

聖書に、

「見ずして信じる者は幸いである」

と書いてあるが、最近やっと判ってきた様だ。

神様が何らかの方法で明確に啓示された時、それを信じる人は普通であって、信じない人は罪に定められる。

聖書には又、

ああコラジン。ああベツサイダ。

おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。

おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。(マタイによる福音書11章21〜24節)

とあり、イエス様は、群衆には例え話によってのみ語られたと書いてある。

すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。

「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」イエスは答えて言われた。

「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」

(マタイによる福音書13章10〜13節)

神の命令として話しをされた場合、信じなかった大勢の人々は罪に定められる。

神様はこれ等の人達も愛し、憐れんでいて下さる。

神の命令は厳粛なものであるから、対応によっては、一人の人間の生涯を左右する。

最高の人は、神から与えられたヒントによって神の思いを察知して自発的に行動する人である(天使達は天においてその様にしている)。

聖霊によって確信を与えられた聖書の言葉によって行動する人も同じである。

次の段位の人は、神から与えられた啓示命令を実行する人である。

その次は、神から啓示を与えられないので行動しない人である。

その内の多くは、もし神が啓示を与えても実行しないので、神は啓示を与えられない。

最悪の人は、神から与えられた啓示を信じない、また判っているのに実行しない人である。

その内で悲劇的な人は、啓示を知りつつ無視する、また軽視する…私の経験からであるが。

出来ない時は、左記のようにいって断ったほうが良い。

「今はできませんが、極力努力はしてみます。」

勿論、努力するべく心掛ける。

100回これをやってもなお許される。


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