信仰について | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

もう昔のことになるが、私の親戚同様の家に小学1年生位の娘がいた。

ある時、私にこう言った。

「おっちゃん、小遣いためてピアノ買うねん」

私が、

「もう幾ら貯まった?」

と聞いた処、100円か200円か、そんな金額であった。

その当時でも、ピアノは20万円以上はしていた。

「いつ買うの?」

と聞くと、

「もう直き」

だと言った。

私は、

「足りない分、どうするの?」

と聞くと、娘いわく、

「いいねん。お父さんが残りだして呉れるねん」

その娘はピアノを買うと言うが、金額をみると、殆ど全部お父さんが出しているのである。

私はこれを聞いて、非常に感心した。

幼児だから言えることで、もう少し大きい子であれば、自分でピアノを買うとも言わないし、多分、貯めためもしないだろう。

もっと大きくなれば、

「半分、お父さん出して」

と言う話しになるかも知れない。

自分でピアノが何とか買える様になると、

「お父さん、ピアノ買うから協力して」

と言うが、具体的には大きい金額を期待しないかも知れない。

私達がもし娘の親だったとしたら、前記4人の内、どれが一番嬉しいであろうか。

親に負担を掛けない最後の人が良いと言う人もあろう。

しかし私は確信を持って言うことが出来る。

神様なら、最初の幼児を最も喜ばれる。

私もイエス・キリストによって救われてから40年以上になるが、最近特に感じている。

「私達の父、神様に幾ら祈り願っても、ほとんど聞いて下さらない。物事は願い通りにならない」

と言う不信仰が、日本中のクリスチャンに蔓延していないだろうか。

私も色々な祈りや願いをして時には、何ヵ月も祈る(神様に食いついて返事があるまで止めない)。

感じでは、その半分位は応答があり、納得してしまう。

神様にも考えがあり、時があり、都合もある。

10の内、1つ位しか聞いて下さらないかも知れない。

それでも、前記の娘の様に1000倍の期待をするならば、願った事の100倍を得る事が出来る。

私達日本のクリスチャンは、自分の能力の100倍を神様に期待しているであろうか…。


【ヨハネの福音書 第6章4〜13節】

 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。

イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。

「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」

もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。

イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。

ピリポはイエスに答えた。

「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。

「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

イエスは言われた。

「人々をすわらせなさい。」

その場所には草が多かった。

そこで男たちはすわった。

その数はおよそ五千人であった。

そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。

また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。

そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。

「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」

彼らは集めてみた。

すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。


【管理人のコメント】
私たちの持てるものは少なくとも、それを惜しみなく神に捧げ、神に期待する時、神はこれを祝福し、溢れる程に豊かな恵みに変えてくださるのだと思います。


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