将来の筋書 4 | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

2007年  5月18日

今日も又、先日云われた神様の命令を考えている。

考えれば考える程結論は出ない。

将来の筋書等、安易に書けるものではない。

その結果について、決めた人は責任を取らされる。

何ゆえ神様は私にその様な事を云われるのであろうか?

私自身についてだけで良いのだろうか?

いやそうでは無い様だ。

聖霊拒絶、頭の中が空白になる。

昨日はイエス様に、

「あなたは何をして欲しいですか」

と数時間も祈ったが、返事はなし。

それでこの宿題は当分保留かなと考えている。


又、昔の若い時を思い出した。

神様が私に、

「わたしに従って来るとあなたは殺されるが良いか?」

と云われた時、私は返事を延ばしに延ばした。

結局は何の返事も出来ず、

「もうどうにでもして下さい」

が私の最後の返事であった。

今日、朝暗い内からベランダで祈っていたら、昔のイエス様の悲痛な叫びの記録を思い出した。

早速パソコンで探しプリントをした。

下記の通りである。


神様との会話1

00/10/24

午前1時、神様が聖徒に対する嘆きの言葉(内なる聖霊の嘆き)


「子供達よ、あなた方は私が人よりも大きい事が出来ると信じないのか。

その信仰はあるのか。

幼子がその親に対する様に期待しないのか。

人の生命が私の決定権の内のある様に、その将来も又、私に決定権がある。

将来について何故、私に相談しないのか。

私の許可は必要ないのか。

将来について希望し、私に願い、あるいは計画を立てるのは結構である。

私の働き場所はどこなのか。

人には出来ないが神には出来ると言われる場所はどこなのか」



日時不明

イエスは言われる。

「働きたい、働きたい。私は働きたい。子供達よ、私の働き場所は何処なのか。」

イエスの霊は誰かの所に住みたがっている。

二千年前と同じ業(わざ)を行う為に。

使徒時代、主の業が行われた。

だから今でも同じ事は出来る。

“我今生きるに非ず。キリストわが内にありて生きるなり”

と言える人が現れたら、その人はどこにいるのか。


そして今日の祈りの散歩で判った事は、昔、若い頃、神様がその思いを私にぶちまけ様とされたその続きを今させようとしている。

約50年あとにである。

会話の続きを50年あとにする様な事は人間の世界にあるであろうか。

もしかして私を人並の年令迄生かす為、会話を中断されたのであろうか?

今なら殺される結果になろうと、この枯木のような廃車のような肉体は、何の未練もない。

昔、神様は私にこう云われた。

「彼の命はあなたの手の内にある。あなたには大権を与えよう」

彼とはその時私を憎んでいた人である。

しかし私はその時知っていた。

もし私が、

「彼は生きるべきで無い」

と云えば、彼は死んだかもしれない。

しかし私も只では済まない。

学生の頃スキーの合宿で前夜、私と神様の事を罵った級友は、次の日、立木にぶつかって即死してしまった。

丁度同じ時間、別の場所で私は立って居られない程の目まいにおそわれた。

級友の死は後で知った。

どんな聖人であっても、モーセの様な重要な人間であっても、大権を持って(神の権能)人の死を求める人間を神様は許して置かない。

もし私が他人の命を求める様な事を筋書の中に書けば、多分神様はその人の命ではなく、私の命を取られる。

筋書の命令は、私には重たい責任が生じるからである。


この一通のレポートを読んで、普通の人は(教職を含めて)、悪魔の云う事

「あなたはそんな柄か。現実を見なさい、現実を」

の方が数倍正しいと思わないだろうか?



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