2019年 7月23日(2)
一日本人の回想① 戦前
私は山口県の下関市の生まれで、空襲迄はそこに居たので、それしか知らない。
下関は九州や朝鮮や大陸への玄関口であったので、賑やかで結構豊かであったらしい。
記憶では、花見や海水浴、デパートや市場、朝鮮人は多かった。
小学校ではクラスの2~3割は朝鮮人の様であった。
コッペパンもあり、飴玉は一銭で2コ買えた。
小学校でくれた教科書の中にはカラー印刷も有った。
日本中、それなりに豊かであった。
家は文具と紙屋であった。
近くには練兵場があり、兵隊はお客であった。
小学2年で戦争が始まり、日本で初めての空襲は北九州であった。
床下に掘った防空壕に家族5~6人がひしめいていたが、2回目の空襲では、もう壕には入らずリュックを背負って空を見ての見物であった。
夜であったが、近くの高射砲の音や探照灯の光、砲弾が空へぞろぞろと上がっていく、その光景は花火以上に綺麗であった。
小学生は心配はしなかった。
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