神は本当に存在するのか | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

2008年  4月18日

日本人に無神論者が多いと云われているが、その中でも確信を持つ人は少なく、殆んどが懐疑論者と思っている。

その理由に、

「見えない」

「倫理的に理解出来ないから」

だと言う人が多い。

私は、最大の理由は、

「神を認めたく無い」

「悪事を暴露出来る神が恐ろしいから」

である、と思っている。

日本人が「神」と言う時、天地創造の神から死んだ人間迄、十把ひとからげの様である。

太陽も月も星もごちゃまぜの様である。

子供の頃聞いた神の物語から、いつまで経っても卒業しない。

高校生くらいになったら、

「神があったら戦争は無い」

と言う様なお話しから、卒業するべきだと思っている。

「天地創造の神」と、「神と云われている霊の存在」、及び「子供の頃聞いた神概念」は、きちんと区別するべきであると思う。

成人を含め、多くの人が、

「三次元のこの世界とは違う次元の世界など、存在しない」

と思っている事に驚いている。

私の子供の頃は、

「宇宙の始まりは全物質が集まった巨大な塊りが大爆発をして出来た」

と聞かされていた。

科学の進歩と共に塊りは段々と小さくなり、最後は1cm角位になり、最近では、何もなかった、すなわち無であったとの理論が正統の様である。

これは三次元の理論では成り立たない。

日本の姫路の近くに巨大なサイクロトロンの施設が有り、素粒子の実験をしているとの事で、随分前に見学に行って来た。

光速近くまで加速させた粒子を取り出して色々な実験を行い、現在の原子物理学は実証されているとの説明であった。

多くの人は、見えない物は信用しないと云う。

見て確認するのは普通であるが、この世界にも見えない物は沢山有る。

例えば空気であるが、その存在は例外なく信じている様だが、その性質については信じない人が多い。

ビルで節電のため、窓際の電気は消しているが窓は開け放して空調された部屋の空気はどんどん逃げて行く。

「逃げた空気にも経費が掛っているので大変な損である」

と云っても、理解しない人も多い。

空気について、目方があると教えても、

「空気に目方があれば、落ちてしまうじゃないの」

との反論で、もう説明は難しい。

その性質の説明はもっと難しく、

「判らなくても良いから言われた通りにやりなさい」

と命令して終わりであるが、窓の開け閉め、カーテンの使い方、日によって時間によって皆違う。

もし空気に色でもついて流れが見えれば、納得し易いと思うが、この様にどっぷり浸って生活している空気ですら、その性質を信じる事は誠に難しい。

私の家族は何十年説明しても判らない。

だから信用もしていない。

三次元の他の世界が有ると言っても、それを目で確認は出来ない。

空気ですら、目で確認出来ないのであるから、尚更である。

三次元を越えた霊の世界が存在する…それが何次元であるのか私は知らない。

少数の人であろうが、高次元の感覚と云われている霊感でそれを見ている、確認している。

だから目で確認した様な行動が取れる。

生命をかけている人も存在する。

人間は、重要な事については、目や耳等の感覚で確認している様である。

私は現在、外国に住んでいるが、交通には本当に驚いた。

歩道の信号が青になって渡っていては、非常に危険である。

信号無視のバイクや自転車、逆走するバイクもある。

一番安全なのは法規にも信号にも関係なく、目で見て車等いない時である。

交通量が少ないのでそれで済むのであろうが、人々は自分の目しか信用しない。

生まれてこのかた、こう云う世界しか知らない人間にとって、霊の世界等見えないものを信じる事は難しい様である。

しかし、もし知りたいという思いがあれば、方法は有る。

信じた人の結果を見る。

又、信じなかった人の結果を見る。

これは感覚で捉える事も多いので、やり易い方法かと思う。

聖書を見ても、イエス・キリストは神の智恵で多くの事を語ったが、殆んどの人は信じなかったと書いてある。

しかし奇蹟とも云えない位の不思議で、人々は簡単に信じてしまった。

例えば、

「あなたはここに来る前に、どこそこの木の下にいた」

とか、

「あなたには、前夫が5人もいた」

とかである。

現在、不信仰の時代と云われているが、自分が確認出来る事柄については簡単に信じる様である。

イエス・キリストの時代でも伴う奇蹟が無ければ信者も無かったと思うが…。

神は何故、奇蹟を起こしてご自分の証明をしないのであろうか?

神様の回答は下記の通りである。

「もし私が奇蹟を行えば、信じなかった人に罪が残る」

神様が奇蹟を行わないのは、無神者に対する憐みの様である。

人々は自分の信じたい情報を求めている様である。

神を信じたい人はそれを肯定する情報を、又、信じたくない人は否定する情報を。

これは宗教の信者であっても非信者であっても同様と思う。

これは論理的とか科学的とかは関係ない。

神を否定したい為に科学を持ち出すのは筋違いである。

昔であるが、ビール会社への見学会があった。

いつもの見学会は参加者が2、30人と少ないのに、その日だけ倍以上の参加者があった。

理由は誰かがこう言ったからである。

「ビール会社では、ビールが川の様に流れていて、飲み放題だそうだ」

誰が聞いても嘘くさいと思うが、飲んべえは半分は信じた様であった。

事実は、工場中パイプラインで最後のビン詰めの所でやっとビールにお目に掛った様な事であった。

飲んべえの失望する多大であったが、帰る頃、各人1、2杯ビールを飲ませてもらっておじゃんであった。

人々は罪を犯す時、言い訳の理由を色々考える様である。

誰でも自分の反抗期はそうであったと思うが、理由にならない理由を持ち出して反論したりするが、本当の理由は別にある事を大人は知っている。

昔、東大紛争なるものがあって、多くの学生が参加した。

その理由を当人の学生は政治態勢とか叫んでいたが、冷静な大人は若者の欲求不満と見ていた様である。

結果はご承知の通り、仲間の殺し合いになり、本当は欲求不満の方が正しかった様である。

神の存在を否定したい人々は、何故否定したいのか冷静に考える余裕を持つべきであると思う。

でなければ宗教にはまった人と同じく、無神論教にはまってしまう。

キリストは存在しなかったと云う様な、馬鹿馬鹿しい作り話を信じ込もうとしている様である。

それについては聖書には適確に書いてある。

「罪を犯す者は光に来ようとしない。自分の罪が明らかにされるからである」

まだ幾らか良心が残っている人は、神を認めない事にやましい気持ちを持っている様だ。

酔っぱらいが時に、口先でない本心を教えて呉れる。

自分とは、人の智識でも自分を納得させた智識でもなく、内在する霊とその現れである良心であると思っている。

多くの人は良心や霊に逆らい麻痺させ消滅させている。

永遠の亡びの始まりである。

しかし、この世にいる間には逆転の可能性はある。

「人、新たに生まれずんば神の国に入るを得ず」

イエス・キリストの言葉。