2007年 1月
今振り返ると、この2年間は中国と中国人を知り、又これに対する神様の思いを知る為の2年間であった。
私の住んでいる海口市は、人口70万の大都市であるが、半分は割合裕福な都会人で、半分は貧しい田舎の人に見える。
田舎の人は都会で働こうとするが、そんなに良い仕事はない。
道路では多くのおばさん達が篭に入れた野菜や果物を売っている。
私の計算では一日かかりで全部売っても100円か200円の収入である。
いつもこのおばさん達を見ると、全部買ってやりたくなる。
私の小遣いで10人分買ってみたところで、全体から見ると九牛の一毛位である。
それでいつも泣きたくなる。
特に人気のない公園等で人を探して売っているおばさんを見ると、マッチ売りの少女を思い出し、悲しくなって来る。
そして神に祈る。
- 彼らを助けて下さい - と 。
長い間に少しずつ判って来た。
懸命に生きようとしているおばさん達が心底では泣いているのと同じく、イエス様も又、泣いておられる。
彼らの泣き声を止める方法を神は知っておられる。
中国に2年住んで成る程、これでは貧しさから脱却出来ないと思った 。
中国人は近親者や友人と他の人とを区別する。
他人にはたとえ10円でも得をさせない、との性質の様である。
例えば、買い物でもタクシーでも、しつっこく値切る。
あらを探しては値切る。
私はいつも思うのであるが、値切る時間働けば、その位稼げると思うのだが、10円や20円の事で5分も大声でやり合っている。
私の考えであるが、非文明人であるほど相対的幸福を追求する。
私はいつも思うのであるが、値切る時間働けば、その位稼げると思うのだが、10円や20円の事で5分も大声でやり合っている。
私の考えであるが、非文明人であるほど相対的幸福を追求する。
アフリカ人はその最たる人種であると思っている。
相対的とは、他人に比べ自分が幸福である事である。
だから他人の不幸は自分の幸福である。
これでは全体から見て豊かにも幸福にもなれない。
彼らにとって無償で他人に奉仕するボランティア等は、とんでもない話である。
この2年間、貧しそうな村や部落で子供達に勉強を教えながら食事を提供しようとしたが、親の反対で何度もつぶされた(子供は純真だからすぐ集まってくる)。
彼らはボランティアを全く信用しない。
代価なしの提供は有り得ないと信じている。
しかし親族には強い愛情を持っている。
大学生は毎年正月や夏休みには、ぎゅうぎゅう詰めの列車で2日も3日も掛けて 故郷に帰る程である。
私には全く理解できない。
中国人の貧しさは、戦後10年位迄の日本に似ている様である。
都会人の何割かは現在の日本人と同程度の生活をしている様である。
違うところは、貧しい人達も色々な物の便利さを知っている事である。
若者は一ヶ月の収入よりも高い携帯電話を何とか手に入れようとする。
私はある日、大学生に宿題を出した。
戦後の日本は中国と同じ位貧しかったが、10年、20年後にはアジアで一番豊かになった。
しかし中国は貧しいままである。
理由は何であるか?
数人の大学生が回答を持って来た。
工業力、技術力等を理由としてあげたが、中国人の持つ性質について解答した学生は一人も無かった。
普通の中国人は全く知らない他人を愛する事は論外であって、中国政府は半世紀以上かけて他人を愛する事を強硬に国民に教え込んだが、中国人の性質を変える事は出来なかったと思っている。
市内には至る処に、
「仕事を通して奉仕せよ」
とスローガンが大大的に書いてあるが、まるで人間に飛ぶことを教えている様である。
2年間住んでみて、つくづく思うのであるが、この性質を変えないと、いつまでも貧困から脱却出来ないと思う。
中国政府をはじめ多くの人は、長年に亘りこの為に努力していると推察するが、何千年も続いた人間の性質を変えることは容易ではない。
2年間住んでみて、つくづく思うのであるが、この性質を変えないと、いつまでも貧困から脱却出来ないと思う。
中国政府をはじめ多くの人は、長年に亘りこの為に努力していると推察するが、何千年も続いた人間の性質を変えることは容易ではない。
しかし神には出来る。
すなわち、
「人には出来ないが神には出来る」
(ルカによる福音書18章27節)
時々、日本に帰り、スーパーに行くが、大抵親切に売り場等を案内してくれる。
時々、日本に帰り、スーパーに行くが、大抵親切に売り場等を案内してくれる。
中国のスーパーで売り場を聞いても、すぐ側でも案内して呉れない。
指さして、「そこ」と言うだけである。
大抵、同じ事を4回も5回も聞く。
お客に便利に買い物をさせて売り上げを増やし、やがて自分たちの収入も増えると思うのだが、しかし全員の給料が上がっても相対的な幸福にはならない。
この性質に対して、ある程度理解はできる。
小さい頃から物を取られ騙され、何度も苦しみにあった人々は、加害者を含む他人を憎む気持ちは判らないでもない。
他人を愛せよと言っても無理かなと思う。
私の周りにいる中国人は、何度も私に注意する。
盗られない様に、又、騙されない様に。
中国人は、少しの物や小銭をちょろまかす事は何とも思っていないようである。
大企業の社員でも、立場を利用して、ごまかし等行っている。
私も2年間に何回かスリにあい、何十回も騙された。
しかし日本よりも被害が大きいかと言えばそうでもない。
中国は回数は多いが、金額は小さい。
日本はその反対である。
私はこう考えている。
100円ショップで沢山の物を買った中で、一割や二割の不良品があっても、そんなに怒らない。
私はこう考えている。
100円ショップで沢山の物を買った中で、一割や二割の不良品があっても、そんなに怒らない。
全体から見るとそれでも大変安いのである。
又、こう考えている 。
一割位の損害は初めから予定しておこう。
そして加害者を含め中国人を赦し、愛していこう。
騙された、盗られた、だから他人は全く信用しない。
これでは中国人でも生きていけない。
神様はこの中国人をどうされるのか?
この性質からどう救いだされるのか?
私の知る限り、中国人のクリスチャンですら、この性質から救われている人は多くないと思う。
すべての人が現在生きているのは、神からも人からも許されているからと思うのだが、だから他人も許そうと思うようにならないか?
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私の知る限り、中国人のクリスチャンですら、この性質から救われている人は多くないと思う。
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