神様の祝福について | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

もう10年位前から、自分や家族の為に祈るべき題名(祈祷課題)がなくなった。

考えれば幾らでもあるであろうが、いつでもその時が最良の状態の様に思えて、特に「こうして欲しい…」という事がない。

然し短期的にはいくらでもある(今日の仕事や健康や…)。

現在の私の生活は大変自由である。

私を愛している神様以外、誰からも束縛されない(実際にはかなり支配されているかも知れない)。

何時に起きても自由である。

朝から何回風呂に入っても自由である。

会社へ行っても行かなくても自由である。

仕事をしてもしなくても自由である(月に2、3日は事務作業があるが)。

何を買っても自由である(時々、家族の付き合いでデパ-トへいくが、先ず買いたいものはない)。

会社から何時に帰っても自由である。何を食べても自由である。何時に寝ても自由である・・・まあこの位、自由な人間は私の周りには見当たらない。

昔、仕事を始めた数年間、経済的にも苦しい時期があった。

支払い日前には、支払いの用意をしなければならなかった(最近はそんな事考えた事もない)。

ある時、支払いに必要な額に足りるかどうか
考えていた時、神様は言われた。

「しかしあなたは失った物の10倍を得たではないか?」

その時、私は何を指して10倍と云うのであろうかと思った。

私は神様の為に何を失ったのであろうか?

私は幾らのものも失ってはいない。

しかし聖書に書いてある御言は本当であった。

「私の為に親兄弟・・・を失うものは必ず100倍を受ける」

この御言は書いてある以上に、私には真実であった。

私はこの世ですでに失ったものの10倍を得た。

だから来る世では100倍を得る事が出来る。

これは誰にでも当てはまる神様の約束であって、私も又その内の一人にすぎない。

只、この事に留意しなければならないと思う。

神様の為に失ったと云う事で、例えば私が約10年勤務して辞めたくなかった会社を辞めた時、それが神様の指示、又は命令でなければ失格である。

他にする事を予定していれば失格である。

他の理由で辞めざるを得なかったのであれば失格である。