解聞鏡

解聞鏡

クローズドで行われている手技の練習会という名の道場の中で
出て来る特徴的な言葉を集めたブログになります。

私のような年齢になると、皆さんが何かをやった結果は分かってしまう。

そしてこの分かっている事に関して、無駄な経験はやらない方が良いと思って、

アドバイスをしてしまう。

このアドバイスによって皆さんが仮にやらなかったとしたらどうなるだろうか。

もちろん、体験という経験が出来ない事になる。

先日の『葬送のフリーレン』では、こんな事を教えてくれている。

 

 

そしてこの2話前と対比で見るとこの事を深く理解できる。

 

 

結論は書かなくてもお分かりだと思いますので、今回は結論は書かないでおきます。

先日、どんな文脈でこんな話になったのか忘れたが、

Fが「ピザを作るのにピザの生地がまとまらないんですよ。」と言っていた。

そして「生地が一体化してしまうからいつまで経ってもまとまらない」とも言っていた。

加えて「これを修練してきたから仕方が無いですけど」とも言っていた。

さてこれらの言葉に皆さんならどう意味付けするのだろう。

私のレベルで解釈してみると、手技をやる際に持ってる問題がある。

この問題は私の別の表現で言うなら持った瞬間にこの人が上手いか下手くそか分かるである。

最近はFしか持っていないからきっと他の人がやったら違和感しか出て来ないと思う。

個人的にはTにそろそろ浮気しようかなとは思っている。

Tから別の感覚が出てきた事は聞いているので。

話を戻す。

自分の手とお客さんとの身体との一体感。

これをどう作り上げるのかは分からない。

F本人に聞いていただければと思う。

今日、私自身の虎の穴の一区切りが付いた。

来週にはある人と会うので、この人と会えば、1ヵ月分くらいのネタは出て来るし、

翌月には別の人との飲み会で定点観測が行われるので、

きっと2ヵ月分くらいは書くネタは大丈夫なのかなと思う。

一区切り付いたところで出て来たのが回るだった。

先日、Y1と会った時に漸くファーストステップに立つことが出来ましたとお話いただいたが、

このファーストステップとはこのブログでかなり前に書いた十牛図である。

これについては人の悟りをテーマにしたものであるが、

手技の上達という視点から見ても同じような事が起こっていることはこのブログの通りである。

この十牛図では、十になった時にまた一に戻る。

このように回ることが表現されている。

一方で同じところを回り続ける。

こんな状況の人もいるのだが、この人の状況も回るである。

そういえばこの回るについて確か、

弁証法的に回るのと回れない論点についても書いたような気がする。

弁証法的な回るとは同じ状況が起こった時に前とは別の段階で同じ問題が出て来ることを言う。

この論点も十牛図と同じ話である。

十牛図もしくは弁証法VS同じところを回り続けるである。

さて皆さんの回るがどちらの回るに通ずるだろうか。

前者であることを祈っています。

先日、久々にY1と会った。(昨年の話)

この時にどんな文脈か忘れてしまったが、ある人の手技の話になった。

私はこのブログで書いている通り、

皆さんの手技は受けなくても見れば上手いかどうかわかるようになった。

それで手技のGPの動画を見て、

ある時に突然、上手くなっているのは分かるという事を言わせていただいた。

それでFがこの人の手技を『空っぽ』と表現した。

この人の手技は上手く見えるようである。

しかし、『空っぽ』のようである。

これを聞いて思った。

概念か。。。

FはTの手技を概念と答えた。

そしてフリーレンは魔法はイメージの世界だと言った。

これらのフィルターから『空っぽ』を見てみると、

とても色んな事が見えてくるような気がする。

皆さんの手技を表現するには概念がいる。

この概念はお客さんの身体をどう捉えているかが定義されている。

そしてこの身体をどうしたいかを手技によってある意味で操作する。

この操作によってお客さんは日常の生活の中で動かしていない身体を動かし、

それによって今までの身体の使い方を変えたり、

何かのアイディアが浮かぶ事があったりする。

これらは手技の深さによって表現され、

きっと深さが無い事によって『空っぽ』として表現されたのではないかと思う。

 

何人かの人への評価は全く一致している。

一方でこの何人か以外の人の評価はこの一致している事とはある意味で真逆の評価である。

こんな事はよくある事である。

さて何故、これが起こっているかである。

それは基準が違うから。

ある組織ではその組織の基準で評価が行われる。

この基準が問題なのである。

どんな基準で自分は評価されているのか。

一般的な基準からすれば評価されるものであっても、

別の高い基準からすれば全く評価されるものではない。

これは売上という評価ではなく、

ある到達点に達する為にちゃんとこれに向かっているかである。

先日、Fと話をした時にこんな話をした。

店を開店する時にFがある人から出資を受けて店をやる場合と、

自分自身で工面してやる場合があるとすると、私がどんなリアクションをするか。

前者は反対、後者は大賛成。

何故か。それはコンセプトと合わないから。

一方、私の知り合いが同じ状況になった時には、前者は賛成、後者は反対、いや、できない。

こんなリアクションになるだろう。

これは皆さんが日頃から発しているメッセージを私なりに解釈しているから。

あるブログでは事実と解釈の違いに書いているが、ここでの解釈はある意味で正しい。

何故なら、私にはある前提条件があるから。

この前提条件は皆さんは間違っても許される環境かもしれないが、

私が生きている環境は間違っていてはお客様に損をさせる。

そして損をさせれば訴えられる可能性がある商売をやっているから。

だから私の意見は正しくなければならない。

こんな縛りがあったりするのだから、私の未来予知は外れない。

(なんて豪語してみます(笑))

私の解釈は皆さんの日頃のコンセプトと合っているか。

これを基本としてアドバイスをし、火消しというファクターをいかに回避するか。

こんな視点で日頃の活動をしているのでしょう。