解聞鏡

解聞鏡

クローズドで行われている手技の練習会という名の道場の中で
出て来る特徴的な言葉を集めたブログになります。

今回のFの休息を受け、今日もTのを受けてきた。

この受けている最中にFの未来の話をさらっとしていた。

これはY1が言っていた言葉から展開した結果である。

(ほんと私に言う時は無防備なんだよなぁ。。。)

どうやらこのシナリオで行く事になるだろう。

私がFのところに行き始めてから4年だそうである。

そしてこの前の休息が2年くらい前。

この時が起。

今回が承。

次の2年後が転。

その次の2年後が結。

何だかそんな未来が見えてきた。

今回、Y1が私に言ったFのスキルについて。

今後はこれがきっとメインとなっていく。

そして・・・

なんて書いておりますが、きっと本人でさえ気付いていない。

そして周りの人間も気付いていない。

ひょっとしたらこんな事を言っているのは私だけだろう。

Fの未来がどうなるか。

あと残り4年とだけ書いておこう。

今回のFの休息はF曰く、私のせいだったようで、

この話を聞いた私はやはりFのせいであると思う。

まぁ正直、どっちでもいい(笑)。

 

さてこの休息の間に私に起きた事は総体的に見れば、

Y1の次のステージへの歩みを進める事だったのだろう。

Fはこの休息の間に深化のプロセスを歩んだようで、

(こう書いている時点でFが無意識的に深化の段階を上げたいが為に

意図的に休息を取ったとしか思えない。こう思えないからこそFのせいだと私には思える。)

私はY1とTのを受けざるを得なくなった。

ここでY1の変化に気付いたが、このブログで書いた通り、物足りなさを感じ、

Tのを受けて体感としてかなりの変化を味わった。

この体感の差は手技に関する概念の違いで起こっているなとも感じ、

改めてY1の自己表現のすゝめをする過程だったのだろう。

Y1に関してはこのブログで書いた「試練→五角形→風」のブログが見事に刺さったようで、

漸く?山の登りを始めた?ようである。

Y1にも話したが、上記の「」の展開はFの休息によって生じたものであり、

そもそも休息が無ければこの展開もこのブログでは書かれなかった事である。

となると、Y1の深化を促す為の意図的な休息だとも思える。

(これまたFのせいって言えなくない?)

こんな思考のプロセスは『葬送のフリーレン』を観て培われたもの。

『葬送のフリーレン』とはそこにあるものを受け取るのではなく、

そこに無いものが何故、無いかを思考する物語。

昨今の社会の風潮からすれば、

今のこの現代に存在するという事自体が見事な対比として浮き上がる物語だなと思います。

 

試練によって最大の恩恵を受けたのは誰か。

これは読まれた感想にお任せ致します。

先日のY1の手技の後、Fの変化について話を聞いた。

そこで出て来たのが、手技についての表現だった。

先日、浮気をしてTのを受けてきた。

その時の私の状態は負傷兵みたいな状態(Tが受けたイメージ)。

これをTがどう自分の思い描いた状態にするのかが問われた問いだった。

その時にTはある手技をやり始めた。

この手技を受けている時に「今、始めてこの手技をやってます」と言っていた。

こんな話をY1にすると、Fの手技との違いを話し始めた。

Tの手技はAという型があるとすると、BとかCとかを編み出す手技の型。

一方、Fの手技はAという型があるとすると、A'とかA”とかA+とかをやる手技の型。

多分、観ていると同じ手技をやっているように見えるが、

きっと解像度の違いでは毎回、全く違う事をやっている。

こんな差があるという話をしていた。

ほんとこの二人は・・・

きっとここにお互いの思考の差が出ていて、

手技の進化(深化)の方向性が決まっているのだと思う。

Tが練習会をやっていると言っていたから、

私が行けたら(完全拒否されたけど)、ここの差がきっと言語表現できたりするのだろう。

Fの道場の型は間違いなく私の中に入っているので比較はしっかりできる。

さていよいよ今週末、復帰第一戦である。

Y1からの前振りはあったが、私の身体がどんな感覚を味わうか。

楽しみしておきましょう。

 

何かをやるにしてもチャッピーに聞く。

これがどうやら若者の姿勢のようである。

この答えに対して鵜呑みをして分かった気になる。

これが型のようである。

これが常識となっている今、このブログで連ねている事はもう勝ち筋と言って良い。

分かった気にならず、とことんやってみる。

これがこのブログでずっと書いている事である。

このブログに沿った事をやっていれば、

いわゆる一般の方々がやらない事をやることになるので、

自然と勝ち筋になっていくという構造である。

こう言葉に書くと簡単のように思えるが、

このブログで問われている事は修行という言葉以外の何物でもない。

修行という体験の中でどんな感覚をつかんでいくか。

この感覚によって新たな自分を発見し、また修行を行っていく。

このプロセスは十牛図で表現した通りの過程を通って行く。

もう勝ち筋は見えた。

この姿勢さえ忘れなければ敗者になる事は無い。

教育の役割はいかに色んな経験をさせるかだったのだろう。

これを親が奪い、そして学校という組織が子供から奪っていった。

これが今の日本の社会の色んなところで問題となっている。

これらが集約されて30歳の壁となり、この壁を乗り越えられなかった人は、

ある意味で落伍者の烙印を押され、社会の中で敗者として生きていくしかなくなる。

こんな構造がきっとあるのだと思います。

 

こんな構造があるとすると、壁を乗り越えられた方はある種、親や学校から反抗し、

自分のエゴを通し、何かをやり続けることによって何かをつかんだのでしょう。

壁が乗り越えられている方はこれをどこかでこなして来られたのでしょう。

これはいわゆるやり抜く力と定義しても良いのかもしれません。

そしてただ自分がやっている事が面白い。

こんな体験があって色んな事に取り組めているのでしょう。

 

もしこんな体験が無いとすると、もう話は全く通じなくなります。

このブログでは以前に大きな川の話を書かせていただきました。

同じ河岸に立っているようで、同じ河岸に立っていない。

同じ河岸に立たない限り、相手の真意は理解が出来ない。

これは色んなところで起きているのでしょう。

 

色んな事をやってみる。

もし、ある組織にいるなら、先輩や上司と同じ場所に行って、

先輩や上司が何を考え、どんな行動をしているのか。それは何で出来ているのか。

これらを観察し、自分なりにやってみる。

これが重要な姿勢なのだと思います。

 

ここまで書いてきて一つのエピソードを思い出したので書かせていただきます。

ある時に出会った私より10歳くらい若い人とのお話。

この人に私はある本を紹介しました。

そして私は無意識的に〇日で読んでくるかなと思いました。

それが〇日ではなく、かなり早く読んできました。

それから何冊か紹介して・・・彼は全て予想を超えてきました。

そして彼は何かを見つけて、自分でニュースレターを作成し始めました。

私たちの世界では一度、出てきた事は別の場面で出て来るというルールがありますので、

一度、作った資料は別の時に必ず使える。

この法則が分かったから、このような行動に出たのでしょう。

それから彼はこのニュースレターを持って別の会社に転職していきました。

 

ここでも一つのヒントが隠されていますが、お分かりでしょうか。

これがFに当てはまるかどうか分かりませんが。。。