解聞鏡

解聞鏡

クローズドで行われている手技の練習会という名の道場の中で
出て来る特徴的な言葉を集めたブログになります。

今回はかなり重いテーマについて書いてみようと思います。
それが矛盾である。
まずはwiki

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%9B%E7%9B%BE

 


さて皆さんの活動で矛盾している事は無いだろうか。
分かりやすい言葉で表現すると言行不一致していないだろうかである。
人間は意図的でないと言行不一致してしまう習性を持っている。
だから自分の言行を一致させるように日々、活動をしていかなくてはならないのだろう。
これを放置し続けるとどうなるか。
結果的に言行不一致になっていくのである。
つまりは整合性が取れなくなって、
自分が発生させるメッセージと
相手が受け取るメッセージが合わなくなることが起こる。
これを手技の世界で捉えるとどうなるか。
それは皆さんが意図した身体の動きの逆が起こるわけである。
ひょっとしたらこれが起きている方もいらっしゃるのかもしれない。
それは皆さん自身の中で矛盾の割合が多くなっている事の証明となっているので、
自分の中で何が矛盾しているか確認する作業が必要で、
矛盾していることをいかに矛盾させないかの活動が必要になるわけである。
さらっと書いたが、これは意識的で無ければ気付けないものである。
言ってる事とやっている事が違う。
その前に言っている事と言っている事が違う。
こんな事が起きていないか。
まずは自己確認から始めなくてはいけない。

この自己確認がほんと難しいのだが、

このブログではやり方について書いているので探してみて下さい。

 

本家本元はこちら。

 

 

本人にも話しましたが、言葉が抽象的の度合いが高ければ高いほど、

良いブログになるなと思います。

 

このブログの文脈で分かりやすいHPが出て来たのでこれも貼り付けます。

 

 

最近の皆さんの課題を聞いているとほんと本質的な課題だなと感じる。

一人は身体の特徴をどう生かすか。

もう一人は自分は何なのか。

こんな課題だろうか。

さて何故、こんな課題が出て来るかだが、これはFの近くにいると自然に起こる事である。

先日、本家本元の方のブログで「感覚について」というものがあった。

 

 

このブログはある人が質問をした時の言葉が気になって、

私が「感覚」についてFならどう答えるかと投げかけたものである。

これを読んで世界観をまざまざと提示したなと思った。

そして読まれた方が何であんな事を言っているのか分かったという話を聞くが、

この解聞鏡のブログもそれをテーマにやっているのだが、どうやらこのブログは難しいらしい。

仕方が無い事である。

何故なら、このブログは答えを書かないブログであるから。

私が答えを書いたとしても、ある人にとってみれば、それは答えではない可能性の方が高い。

確かにある一定のランクまで行くと同じ事を言っている。

しかし、一定のランクに行くまでの過程はそれぞれ違う。

この過程がこうだと提示したとしても、それが合うかどうか分からない。

そしてFの根本思想である『やってみたら楽しいからやろうよ』

というテーマにも合わなくなるのであえてやってないのである。

以前にも書いたと思うが、

このブログを真に理解するには自分なりにやってみないと分からないわけである。

このブログを書き始めた頃、Y2が毎日やらないと駄目だよといった話を書いた。

毎日、やらないとつかめない感覚がある。

そしてこの感覚はつかんだものでしか理解が出来ない世界があると提示したわけである。

これについてやっていて納得した人とやろうとしたが妥協してやらなかった人とでは、

この〇年間の間に膨大な差がついているのだろう。(検証はできないが。)

話を戻す。

こんな事を無意識的に思考をしている人から自分以外の人がどう見えるかである。

そしてこの視点からそれぞれの人の課題は何として提示されているかである。

ちょっとこのレベルで書いてしまうとかなりヤバいので少しレベルを落として書こう。

このブログの最初の頃に練習会があった。

この練習会でやっている事は私の見立てでは手技を上手くなるには何をすればいいか。

もちろん、技術をどう感覚的に捉えるかの練習だったと思う。

この練習会に来られてきた方々がどんな姿勢でこれに取り組んでいたか。

それをFは無意識的に皆さんに問いていた。(きっと本人はそんな意識は無い)

その結果、この問いに答えられない方々はたまに来て、自分の力が全然無いかを提示し、

それに対してある程度、表現できている方々からすれば、

何をしにきているのか分からないなんて事が練習会では披露されていた。

この時に自分に負けずに取り組めていた人は残念ながら居なかった。

練習会レベルでは自分がどれだけ出来ていないかの自己確認と

自分より出来ない人を見て自分が出来ていると確認するレベルで終わっていたからである。

最近はある人が居なくなり、後者のレベルの勝負はやらなくなったから、

自然と前者のレベルの勝負が始まっているわけだから、

一番最初に書いた本質的な課題とならざるを得なくなるわけである。

少し傍観者として見れる立場なので、ほんと「大変だ」と言える。

 

P.S.

因みに「感覚について」のブログは全部は読めていない。

何故なら、文章的におかしなところが多すぎるから。

ここでこの言葉は要らないとか、ここはこの言葉に変えた方が良いとか、

もうこんな事ばかり出てくるので読んでられなくなる。

本人は自分への問いが大事だから文章的にはどうでもいいと言っているので、

修正しないようなので、どうしてもというテーマでないとほんと読めない。

気が向いたら、校正をするかもしれないので、その時には宜しくお願い致します。

今日は完パクで行かせていただきます。

立川志らくさん(落語家)の日経新聞2017年6月17日の記事になります。

いつもよりかなりレベル感は低いですが、参考になるとは思います。

以下、引用。

 

「馬鹿(ばか)は隣の火事より怖い」。師匠談志が良く言っていた言葉だ。

談志の知人宅が火事に見舞われた事があった。

隣家からの貰(もら)い火だったのだが、その隣人が大変な馬鹿だったとの事。

馬鹿は隣の火事より怖い、その馬鹿が隣に住んでいた、という落ち。

談志は馬鹿の定義を「状況判断が出来ない奴」としていた。

今風の言い方をすれば空気が読めない奴。私は更に「己を否定できない奴」が馬鹿だと思う。

馬鹿な奴は間違いなく他者を否定して己を肯定する。

私の弟子の中で辞めていく者が沢山(たくさん)いたが皆そうであった。

落語界がおかしい、師匠の教え方が酷い、兄弟弟子に馬鹿がいる、云々(うんぬん)。

あっているところもあるのだが、こういう連中は常に世の中のせいにする。

自分はこんなに頑張っているのにと嘆く。

その頑張りが世間のいう頑張りには到底行き着いていないのに。

当人は小さなコップの水を溢(あふ)れさせているから頑張っていると主張するが、

世間の頑張っているというのは大きなプールの水を溢れさせる事を指す。

他者を否定して自分は間違っていないと思い込み、

ここは自分がいるべき場所ではないと快適な場所を求めて辞めていく。

言っておくが若者にとって快適な場所なんかろくな場所ではない。不快に決まっている。

利口な人間は不快な場所を快適にしようと日々生きているのだ。

まず自分は間違っているのではないかと疑う。

何故(なぜ)ならばその空間はすでに成立しているのだから。

勿論(もちろん)、悪がはびこっている場合もあるがそれを変えるために改革をしていくのだがそれはまた別の話。

自己を否定して他者を肯定してはじめて人は前進できる。

例えば小津安二郎の映画を若者に見せたとしよう。退屈に感じるだろう。

そこでこの監督はつまらない映画を作るんだ、

たいした監督ではないと己の感性を優先して小津を否定したら。

先人達が評価してきたにもかかわらずそれは無視して己の判断を正しいと思う怖さ。

馬鹿な奴はその連続、積み重ねで歳を重ね、結果もののわからない馬鹿の塊と化する。

沢山いるよね、自分の意見こそ正義だと主張する人。

自分は未熟でまだ小津を理解する知識も経験もセンスもないと思う事が進歩の第一である。

私は絵画が好きだが未(いま)だにピカソの魅力がいまひとつわからない。

だからといって、ピカソはたいしたことはないと言ったら笑い物だ。

まだ絵を観(み)る能力が未熟なだけである。勿論好き嫌いは別。

ついでに言うと若者はやたらと自分探しの旅に出る、なんて事を言うが、

私は言いたい、旅なんぞに出るなと。若いうちは空っぽなのだ。

空っぽの奴が自分を探しに行ったって何にも見つかるはずもない。

旅に出る前にちゃんと支度をしなさい。

つまり沢山の物を吸収してそれから自分探しの旅に出なさい。

あと、馬鹿の怖いところは聞く耳を持っていない。

いくらこちらが理路整然と懇切丁寧に話してもわからない。

それは理解する能力を持っていないと自己を否定できないからである。

馬鹿にはどう対処すべきか。談志は痛みと恐怖を味わわせるしかないと言った。

乱暴な意見ではあるが世の中の仕組みがそうなっている。

罪を犯した人間に刑罰を与えるというのがそれだ。言っても分からない。

ならば痛みを与えればとりあえず謝る。対処方というかこちらの解消方だが。

以上。

 

本家本元はこちら。

 

 

今日は手抜きです。

こちらの動画をご覧ください。

岡田斗司夫さんがそれぞれの年代でどんな思考をしていたを話されています。

何をやっていたかではなく、

どんな思考をしていたかにフォーカスしてご覧いただければと思います。

この動画をご覧になり、どんな未来を皆さんは創造されていくのでしょうか。

 

 

このブログでこれらの人種はしっかりしていると書いたような気がします。

これに当てはまらない人種の中で末っ子長男はろくでもないと書いたような気もします。

さてこれにもう一つ、類型化を追加しようと思います。

それがおばあちゃん子です。

いわゆるおばあちゃんと親密な関係を持っている人です。

もう誰の事か読まれている方ならある人の顔が浮かんだんだと思います。

このおばあちゃん子には、諺があります。

『おばあちゃん子(年寄りっ子)は三文安い』です。

この諺の意味は、

祖父母に甘やかされて育った子供は、自立心が乏しくわがままになりやすく、
世間的な価値や評価(値段)が低くなってしまうという意味のようです。

一言で言ってしまえば末っ子長男と同じ状況になります。

何かをやろうとすると、おばあちゃんがやってしまう。

この子から経験する場面を奪っていくのです。

そういえばこちらのアニメでこれがテーマとして出てきます。

宜しければご覧下さい。

 

「カレイとヒラメ」 | 第119話 | 美味しんぼ

 

 

長男にも色々いるという事です(笑)

 

本家本元はこちら。