ブロンディー | ビートルズやメンバーへのミュージシャンの発言集 The Beatles  影響 評価 

ビートルズやメンバーへのミュージシャンの発言集 The Beatles  影響 評価 

 ビートルズやビートルズのメンバーに対するミュージシャンの発言は今までたくさんありました 。おそらくこれから先もたくさん発言される事でしょう。ここはビートルズが与えた影響を記録していく場所です。

クレム バーク部分を追記しました。

 

デボラ ハリー(ヴォーカル)



                  2014 ガーディアン

◎クリス スタインは本当にNMEアウォードでサー ポールマッカートニーにハグしたんですか?


 ええ。クリスはポールにハグをした。クリスはちいさな抱っこ用の熊のぬいぐるみみたいだった。それから私はポールからキスをしてもらったわ。それはハグと同じぐら良いものでしょ?だけど、もしハグしてキスされたならさらに良かったんだけどね。

 


◎ジョンレノンがかつてリンゴスターにポストカードで(Heart Of Glass)みたいな曲をもっと書くようにアドバイスをしたっていうのは本当なんですか?


 ええ。それは本当なの。その事実を知った時にはとても素晴らしい気分になったわ。



 
  私はフォークから生まれたのでボブディランが一番好きだった。でもビートルズは特別なの。そんなことわかるでしょ?

 


クリス スタイン (ソングライター ギター)



 僕が子供だった時、僕のヒーローの大部分は黒人でした。偉大なブルースの人々、マディーウォータースやジョンリーフッカーが好きでした。僕がビートルズとストーンズを発見する前にはボブディランのようなフォークミュージックに引きつけられました。僕はこれらのグループの出現により起った高揚感に影響を受けました。僕が1950年に生まれた事と当時の楽曲を聞けた事は本当に運がよいと感じていました。



 ビートルズの中期から後期にかけての楽曲は本当に素晴らしいです。彼らは進歩したんです。間違いなく僕らもその後に従っていたんです。素晴らしい楽曲。ポップでアーティスティックで。。(ザロングアンドワインディングロード)を初めて聴いた時には悲しくなかったけど涙が流れたんです。。






ジミー ディストリ(ソングライター キーボード)
 
  

           カトリーナ フォックスのインタビュー 2003


◎あなたはなぜ音楽業界に入ったんですか?


 僕は音楽に溢れた家族から生まれたんです。 僕の叔父(母親の弟)はアメリカで一曲ヒットを放った事がある50年代から60年代にかけてのロックバンドのドラマーでした。僕はテレビで叔父を見て言いました。(これが僕のしたいことだ。)って。彼はその後、建設業に従事しました。彼は僕が音楽をしたいという度に(やめておけ!)って言いました。だけど、彼のいう事を聞きませんでした。そして今に至ります。



◎貴方はどんな音楽的なトレーニングを受けましたか?


 いいえ。何も。ザ ビートルズのレコードとストーンズのレコードがあったんです。



◎貴方はブロンディーで多くのヒット曲を書きましたね?ブロンディーのバンドとしてのアプローチとはどの様なものだったんですか。



  俯瞰的に見て欲しいのです。だから形(フォーム)よりもむしろ思考(アイデア)を考慮してください。 世界で最も偉大なバンドは。。。。2つの偉大なバンドがありました。 世界で最も偉大なアーティストはザ ビートルズでした。疑いようもなく彼らは常に形(フォーム)の前に思考(アイデア)を置きました。 彼らは(ストーンズ)と共に他の何にも似ているようには聞こえませんでした、ところが、ザ ビートルズの形(フォーム)はすべての思考(アイデア)を説明していました。ビートルズと違い私たちは形(フォーム)を大事にするバンドのように思えるかもしれませんが。。。 僕は(ブロンディー)が(ザ ビートルズ)のようであるとは言いません。(ブロンディー)は(ザ ビートルズ)であろうとする(オアシス)のようなバンドでありません。 つまり、僕はブロンディーがビートルズの哲学をコピーしていると思います。彼らの思考(アイデア)を得ることが出来たから、ミュージシャンとして成功することができたのです。

 




クレムバーク (ドラム)

 

 

                                             ゴールドマイン

 

〇人生を変えた10枚のアルバム

 

 

フォー シーズンズ、ゴールデン ヒット
 

 

  ビートルズの前後には、ニュージャージーのフォー シーズンズがいた。これは私が初めて手にしたアルバムかもしれない。プロダクション、ヴォーカル、音楽性、どれをとっても素晴らしい。素晴らしい曲ばかりだった!ビートルズが現れると、誰が優れたグループなのか、学校で延々と議論になったのを覚えている!初期のヒット曲のドラマーについてググってみたけど、無駄だった。あの素晴らしい謎の男は誰なんだろう?ブロンディでは、彼らの "Big Man In Town "をカバーすることもあった。デビーがいつかビッグ マン イン タウンになることを自慢する。。いつも楽しい曲だった!



ビートルズ  Meet The Beatles


  私の世代のミュージシャンの多くがそうであったように、1964年2月にビートルズがエド サリヴァン ショーに初登場したのを見たことが、自分のグループを結成するきっかけとなった。そして私は個人的に、生涯に渡って音楽のインスピレーションを与えてくれたファブ フォーに多大な恩義を感じている。実はこのレコードは、イギリスでは『ウィズ ザ ビートルズ』と名付けられた2枚目のアルバムなんだ。しかし当時、そんなこと誰が知っていただろう?ビートルズは4人の個性的なロックンロール スターであり、リンゴは史上最高のドラマーの1人だった!



ザ ローリング ストーンズ、イギリスの最新ヒットメーカー

 


このアルバムは本当に印象的だった。ビートルズの『Vee Jay』LPのように、新世代のリスナーにアメリカのR&Bやロックンロールを幅広く紹介した。ジャガー/リチャーズの名曲「Tell Me」は収録されているものの、ほとんどがカバー曲で、マディ ウォーターズ、バディ ホリー、ルーファス トーマスといったアーティストに私の若い心を開いた。今日に至るまで、ローリング ストーンズのLPの中で一番好きかもしれない。



ビートルズ  Introducing The Beatles
 

 

 ビートルズがすでに別のアルバムをアメリカで発売していたとは、なんと素晴らしい驚きだろう。ヴィージェイ レコードからリリースされたこのLPが、実は『プリーズ プリーズ ミー』というタイトルのイギリスでのファースト アルバムだったとは。初のテレビ出演からこんなに早く、ビートルズのアルバムが2枚も入手できるなんて、これはなんという大発見だろう!オープニングの "I Saw Her Standing There "からクローズの "Twist and Shout "まで、この少年にとっては人生を変えるような本当に素晴らしい体験となった。

 

 

 

ザ フー、  フー シング マイ ジェネレーション
 

 

 これはまったく違うものだった。私が知る限り、ザ フーは元祖パンクロッカーだ。「老いる前に死ねることを願うよ」。R&Bを基調としたこのデビュー作は、この若いドラマーに大きな衝撃を与えた。毎週のドラム レッスンにこのレコードを持参し、ドラムの先生の顎が床につく中、「My Generation」の爆発的なエンディングに合わせて演奏しようとしたことを覚えている。今日に至るまで、私はまだあのエンディングを正しく演奏しようとしている。ドラムで何をすべきなのか、そしてロックンロールのジェットコースターのような人生で何をすべきでないのかを教えてくれたムーン先生に感謝する。

 

 



ヴェルヴェット アンダーグラウンド&ニコ、ヴェルヴェット アンダーグラウンド&ニコ

 


  ブロンディのパートナーたちと初めて会ったとき、最初に意気投合したのはヴェルヴェッツへの愛だった。もちろん、素晴らしいニコの影響も見逃さなかった。実際、私たちが最初にカバーした曲のひとつは、このLPからの「Femme Fatale」だった。ルー リードの曲作りは本当に素晴らしく、彼のポップソングに対する素晴らしいセンスと、非常に暗いテーマが混ざり合っている。今日に至るまで、バンドで作曲セッションをしていると、必ず誰かが "もっとヴェルヴェット アンダーグラウンドのようなサウンドにしよう "と言うんだ。

 

 



ザ ストゥージズ、  ザ ストゥージズ、ファン ハウス 同等

 


  ストゥージズの1stアルバムと2ndアルバムは、どちらもとてつもなく影響力のある、実験的な作品だった。私は1969年当時、ストゥージズに夢中になっていた子供たちをあまり知らなかったのだが、そのうちの4人が10代のラモーンズで、ストゥージズへの憧れで意気投合していたことを後になって知った。ギターとドラムをそれぞれ担当したロンとスコット アシュトンは、70年代半ばの音楽的パンク ロック爆発の青写真を築いた。ヴェルヴェッツと同様、彼らの楽器に対するミニマルなアプローチ、特にスコット "ロック アクション "アシェトンのデトロイトのディープなロックンロールグルーヴは、後のパンク ロッカーたちの試金石となった。「I Wanna Be Your Dog」では一体、何回、そしていくつのバンドとジャムったことか!



  1970年にリリースされたアルバム『Fun House』ではサックスが加わり、特に "Fun House "での狂気的なジャムは、クレイジーなパンク ロック ジャムをさらに別次元のものにしていた。ところで、彼らのリード シンガーについて触れただろうか?押しも押されもせぬイギー ポップは、21世紀になっても健在だ。ゴキブリとキース リチャーズの生存リストにイギーを加えてもいいと思う!

 

 

 

 

デヴィッド ボウイ   ジギー スターダストとスパイダース フロム マーズの興亡

 


   これまで紹介したレコードの中で、私にとってこのデヴィッド ボウイのアルバムが最も人生を変えたと言わざるを得ないのかもしれない。デヴィッドは私にとって、当時私が聴いていたものすべての点と点を結びつけ、影響を与えた。これまでで最も重要なコンサートは、1972年9月28日にカーネギーホールで行われたジギー公演だった。私は17歳で、高校を卒業したばかりだった。人生が変わったと言えばいいだろうか!その場所にはデビー ハリー、クリス スタイン、ジョーイ ラモーンが居た。そしてそうそう、アンディ ウォーホルも。



   64年にエド サリヴァンに出演したビートルズが別の惑星から来たように見えたとしたら、デヴィッドはまったく別の太陽系から来たように見えた。ジギーのアルバムは、素晴らしいソングライティング、素晴らしい音楽性、そして別世界のような素晴らしい演出で、音楽の地平線を完全に教えてくれた。その場にいなければならなかったと言いたいところだが、実際のところ、デヴィッドがこの世で過ごした時間が私たち全員にとってどれほど特別なものだったかを知らない人はいないだろう。

 

 

 

 

ラモーンズ,  ラモーンズ
 

 

  私は初めてラモーンズを見たときから、彼らが特別な存在だとわかっていた。おそらく、史上最も影響力のあるロックンロール グループとして、ビートルズに次ぐ存在だろう!彼らの名を冠したデビュー アルバムがリリースされる前に、私は何度もこのバンドを見たり、一緒にライブを観たりしていたので、何を期待すればいいのかわかっていたし、その期待は裏切られなかった。プロデューサーのクレイグ レオンのタイトなプロダクションは的確だし、楽曲はどうだろう?ラモーンズは、ザ ストゥージズとザ ビーチ ボーイズを掛け合わせ、ザ 1910フルーツガム カンパニーをミックスしたようなハイ ブリードだった。


  私の人生を変えたって?いいや。ジョニー、ジョーイ、ディー ディー、トミーは全世界を変えた!


ブロンディ Parallel Lines
 

 

  個人的なことだが、このレコードは本当に私の人生を変えた。前の2枚のアルバムでヨーロッパではある程度の成功を収めたが、"Heart Of Glass "で全米1位を獲得したのはこのアルバムだ。このアルバムが世界的な成功を収めたのには、いろいろな理由がある。プロデューサーが変わり、バンド メンバーも2人変わり、6ヶ月の海外ツアーを終えたばかりだった。プロデューサーのマイク チャップマンは、イギリス/ヨーロッパ市場で多くのヒット曲を書き、プロデュースしていた。フランク インファンテとナイジェル ハリソンはベテランのプロで、素晴らしいプレイヤーだった。これらすべてが組み合わさって、世界的ヒット シングル満載のアルバム、そしてローリング・ストーン誌の歴代アルバム トップ100にランクインするアルバムが誕生したのだ!

 

 

 

                        vwミュージック


◎バンドとして最初のギグに至るまでのブロンディの初期を描いてください。


   スタジオや西38丁目のリハーサル スペースで少しリハーサルをしたんだけど、当時はかなりの数のカバー曲をやっていた。有名な話だけど、ブロンディが初めてCBGBsでライブをしたのは、ベースのフレッド スミスが脱退してテレビジョンに加入すると決めたときだった。彼はその夜、CBGBsでの私たちのセットの合間にその発表をしたんだけど、基本的にそれがバンドの終わりのようにしばらく思えた。でもその後、高校時代の友人であるゲイリー ヴァレンタインにベースを弾いてもらうことにしたんだ。その頃、私たちはイースト10番街の店先に住んでいて、ゲイリーのオーディションは、彼が自分の詩をいくつか朗読し、リハーサル室にあったアップライトピアノで自分の曲を1曲弾いただけだったと思う。それをきっかけに、ゲイリーが加入し、少なくとも私にとっては、ブロンディとして知られるようになったのが本当の始まりで、それが最初のアルバムを作ったグループだった。


◎ブロンディは当時の音楽の大きな転換期に欠かせない存在でした。そのシーンの地上での思い出は?


   実を言うと、当時の音楽はまだ大きな変化を遂げていなかったんだ。みんなそれぞれの小さな空間で、当時のポップミュージックとは違う音楽を作っていたと思う。ご存知のように 当時はイエス、カンザス、レッド ツェッペリンといったバンドの時代で、私たちは最初から影響を受けていた50年代や60年代の音楽に回帰していた。それがブロンディのオリジナル サウンドであり、初期の頃のサウンドだと言われるものだ。当時、そういう音楽はまったく人気がなかったことを覚えておいてほしい。でも、そうやってブロンディのパートナーを見つけることができたのは、好きな音楽のタイプややりたいことに関しては、みんな同じ考えだったからだ。当時はアンダーグラウンドの世界だったし、その時点ではまだ大きな音楽的変化は起こっていなかったと言える。



CBGBsというバワリーのクラブで演奏していたのは、ほんの一握りのバンドだった。当時は特に人気があったわけではなかったけど、みんな違う方法を模索したり、ロックのルーツに立ち返ったりしていたと思う。その時点では、いわゆる「プログレッシブ ロック」とかそういうものばかりだった。私たちは自分たちの小さなバブルの中で活動していただけで、私がいつもとても面白いと思っていたのは、「CBGBsバンド」として知られるようになったバンドは、互いにこれ以上ないほど違っていたということだ。だから、CBGBsのサウンドが何だったのか正確にはわからないんだけど、たぶんみんな一度は互いに影響しあって、そのステージを共有し、そして本質的には自分たちの道を切り開いたんだと思う。もちろん、ニューヨーク ドールズやヴェルヴェット アンダーグラウンドから始まっているものではあるんだ。



   CBGBsでプレイしていた人たちはみんな影響を受けていたと思う。DIY的なアティテュードであれ、ロックのルーツ、特にニューヨーク ドールズの描き方であれね。私はグラムなものに夢中だったし、デビーも私にとっては典型的なグラム ロックのフロント パーソンみたいだったんだ。私はいつも、パワーとカリスマ性を持った誰かがフロントにいるバンドにとても興味があった。デビーの中には、デヴィッド ボウイやジム モリソン、マーク ボランみたいな人がいた。デビーと初めて会ったときにすぐにそう思ったんだよ。

 

 

◎CBGBsについて触れましたね。振り返ってみて、ブロンディとバンドが最終的にその一部となったムーブメントの両方にとって、その施設の重要性をどのように数値化しますか?


  私にとってCBGBsは、基本的に私たちが人前で間違いを犯すことを可能にするワークショップだった。カメラ付き携帯電話などなかった時代だから、ビデオに撮られた瞬間はほとんどなかったんだから面白い。最小限の聴衆の前で自分たちのオリジナル曲に取り組み、バンドの継続をするために必要なフィードバックを得ることができた。友人のゲーリーはベースを弾いたことがなかったんだよ。僕は10代の頃からバンドをやっていたから、ドラムはそれなりに習熟していた。最初の2、3年は、さっきも言ったように、バブルの中で活動していたんだ。CBGBsで演奏すると、観客は100人くらいで、そのほとんどは他のミュージシャンだった。ラモーンズが演奏していれば、ブロンディのメンバーも客席にいたし、その逆もあった。

 

 

 


  CBGBsは地元の人たちのたまり場でもあった。つまり、さっきも言ったように、最初は東10丁目のブロンディのリハーサルスタジオに住んでいたんだけど、最終的には毎晩CBGBsに行けるように、バワリーの1ブロック南にある家に引っ越したんだ。今思えば、75年から76年の間にラモーンズを100回は見たかもしれない。もちろん、彼らと一緒に出演したことも何度もあった。当時はまだ、みんなが自分の道を切り開いていた頃で、みんな自然な流れで進んでいった。私がいつも例えたがるのは、60年代半ばのリバプールのキャバーン クラブでも同じようなことが起こっていたということだ。60年代には、多くのバンドが選ばれた聴衆の前で演奏し、その中の一握りのバンドが世界的な現象となった。特にもちろんそれはビートルズのことだよ。



  だから、CBGBsはニューヨークのキャバーン クラブと同じようなもので、当時の僕らの音楽ワークショップだったんだ。ヒリー クリスタルが、(CBGBsで演奏する音楽のほとんどはオリジナルでなければならない。)と命じていたことも忘れてはならない。ヒリーは必ずしもそれを気に入る必要はなかったが、オリジナルであることを望んでいたんだ。ヒリーはとてもオープンマインドだったけど、毎晩たくさんのカバーバンドが来るのは嫌だったんだ。だけど、面白いことに、ブロンディはいつもたくさんのカヴァーをやってのけたし、ラモーンズもそうだった。CBGBsのオーナーとしては、起業家とは呼べないかもしれないけど、彼はバーを始めたんだ。素晴らしい場所だった。こんな人里離れた場所なのに、みんなCBGBsに集まってきて、自分たちの音楽をワークショップすることができたんだ。

 



◎CBGBsのステージを飾った驚異的な多様性の中で、ブロンディが他のバンドと一線を画していたと感じるのはどんな点ですか?


  明らかに、デビー ハリーをフロント パーソンに迎えたことは、扉を開くきっかけになったね。でも、みんなそれぞれ影響を受けた音楽があって、それがブロンディのサウンドに同化していった。例えば、クリスはいつもR&Bにとても影響を受けていて、よくR&Bのカヴァーをやっていた。特にフルーツガムカンパニーやオハイオ エクスプレスのようなバブルガム ミュージックが好きで、この2つはブロンディの初期のサウンド、特にファースト アルバムのサウンドに大きく影響していたと思う。そして、ジミー デストリ をキーボード プレイヤーに迎えた時、彼はファルフィサ オルガンを持っていて、すぐにバンドのサウンドを変えたんだ。ジミーがやってくれたことは、バンドのサウンドを広げてくれたと言うべきかな。当初はストレートなピアノかキーボード奏者を求めていたんだけど、ジミーはファルフィサ オルガンを持ってやってきて、クエスチョンマーク&ザ ミステリアンズの「96 Tears」という古い曲で聴かれるような独特のサウンドを持ち込んでくれたんだ。このサウンドは、ブロン ディのトレードマークとなった。「X Offender」や「In the Sun」などを聴くと、それがよくわかるよ。



◎バンドと活動休止前の初期の活動を振り返ったとき、ロック音楽とその時代全般におけるブロンディの重要性をどのように評価しますか?


  デビー ハリーというとてもグラマラスなリード シンガーを擁し、多くの商業的成功を収めていたから、ブロンディに関しては皮肉に思えるかもしれないけれど。でも、アンディ ウォーホルのように、芸術と商業主義をミックスして大成功を収めた人物は、常に私たちにインスピレーションを与えてくれたと思う。しかし、音楽の遺産がこのように生き続け、今日まで現代のポップカルチャーの中に組み込まれているとは、私たちは予想もできなかった。


  人々がブロンディに、特にミュージシャンとして興味を持った明らかな理由は、私たちが本当に何でも自分でやるという姿勢を持っていたからだと思う。私たちはそういう志向が強かった。私たちが音楽的に他のバンドに影響を与えたかどうかは別として、もしそうだとしたら、私たちのDIY的な姿勢がそれに大きく関係していたのは確かだと思う。振り返ってみると、そうだね、例えばR.E.M.のようなバンドに影響を与えたと思う。サウンドではないかもしれないけれど、物事の進め方においてね。自分たちの音楽のミューズに従い、常に音楽に忠実であり続けたことが、人々が私たちについて来た大きな理由だと思う。



                  2011年  ヴァージンミュージック            

 僕らはデビッドボウイ、ビートルズ、そしてローリングストーンズを観察してたんです。僕らはアルバムごとに変わる彼らの変化を注視してたんです。アーティストにとって変化する事が出来るという事は重要な事なんです。





ゲイリー ラックマン(ベース 作家)



 ザ ビートルズは僕らにとっては永遠のスターだった。マンチェスターでライブをした時にリヴァプールはここから数マイルのところにあるんだって言うと、みんなが感激してたんだよ。僕らはみんなシンプルな道のりを歩いていたんだ。ベース演奏だってそうだよ。僕はモータウンのジェームズジェマーソンから聴き始め、ビートルズのポールマッカートニーに感動して、レッドツェッぺリンのジョンポールジョーンズに進んだ。彼らはシンプルでベストなベースプレイヤー達だった。つまり僕らは自然に進んだんだよ。