追記しました。
ロンアシュトン(ギター)
パーフェクトサウンドフォーエヴァー 短縮版 2007
僕の母親は10代の頃、デトロイトのラジオで歌っていた。だから彼女はいつもたくさんのレコードを持ち、家にはいつも音楽が流れていた。僕はそれをただただ楽しんでいた。それが僕を捉えたんだよ。僕はショービジネスの世界に入りたかったんだ。
時が流れて僕の父親の仕事の都合でワシントンDCからアイオワに引っ越したんだ。そこでギターのレッスンを受けた。実際それまで2年間はアコーディオンを習ってたんだけどもう演奏したくなくなった。引っ越して興味を失ったんだ。
僕の父親は海兵隊の飛行士だった。そして彼は僕に兵役の時が来れば、僕の人生がその時に決まるということがわかっていた。彼は第二次世界大戦の時、空を飛んだ人で、僕を軍隊の方へ少しづつ動かしていた。僕は14歳の時にはメガネが必要になった。その事実は当時、僕が飛行士にはなれないという事を意味していた。(戦車の指揮官の友人を知っている。)と父から言われると(いや、僕はくそったれな戦車には乗りたくない。)って言ってたよ。
その時、突然の出来事が起きた。 ザ ビートルズの出現だよ。(わあ!すごい!)って思った。だけどそれでも僕はまだ軍隊に進むことを考えていたんだ。その後、父親が死んだ。父が亡くなってしまったのでその影響は僕から去ったんだよ。僕は言った。(軍隊なんてくそくらえだ。)そしてザ ビートルズとストーンズが僕を吹き飛ばして、まったくその音楽に夢中になってしまったんだ。その後、僕は決して以前の様ではなくなってしまった。
1965年の11th grade(高校二年生)の時に僕は学校を休んで、デイブアレキサンダー(ベース)とイングランドに行ったんだ。デイブはすでに学校を辞めていた。彼は僕の家の近所に住んでいて、ザ ビートルズを愛していた。僕らは僕の弟のスコット(ストゥージズのドラマー)と家の表のポーチに座ったり、煙草をやったり、一緒にバンドを結成することについて話したりした。その時、デイブは(僕はイギリスに行くつもりだ。)って言った。僕は答えたよ。(そうだね。僕も行かなければならない。)って。
だから僕はバイクを売った。そして驚くべきことに母親が僕をイングランドに行かせてくれたんだ。そして、僕には(イングランドの)サウスポートに住んでる友達がいたんだ。そこはリヴァプールから電車で5分の場所だった。もちろん、その友達の家族は僕らがイングランドに行くことについて何も知らなかった。デイブと僕はロンドンに2、3日滞在してサウスポートに着いた。僕らは深夜の10時について、友達の両親は基本的に僕らを嫌い追い出そうとした。
なぜなら僕らはブライアンジョーンズの髪型で、ブルージーンズ、ビートルズのブーツ、皮のジャケットっていう格好だったから。彼らはその夜は僕らを自宅で眠らせて、翌日、僕らを朝食付きの宿泊場所に連れて行った。僕らは自由になり、やりたかったことは何だって出来たのでそれは最善の結果だと思っていた。
◎なぜあなたとデイブはイングランドに行ったんですか?
ビートルズに会うためだよ(笑)。(僕らはあそこに行って可能な限りのユートピアを見るだろう。そして町でロックスターが道を歩いてるのを見るだろう!。。。。)もちろんそんなの嘘だよ。そこは隔離された大学の町だったので、ロッカーやモッズにとっては結構苛立ちを感じる場所だった。65年ぐらいのイギリス人たちにはまだそういう外見に対しての偏見があった。
(リンゴはいったいどこにいるの?僕らはまだ会ってないよ?)っていうようなある種のショックはあった。僕らは少し穏やかなサウスポートに着いたんだけど、そこにいる何人かのロッカーとはトラブルになるようなこともあった。さっさと退散しないとケツを蹴られるような。
僕らがやりたいことはバンドをスタートさせることだったんで、もしその場所(リヴァプール)に行ったのなら何かを学ぶだろうとは思ってた。僕は今でもその時、そうしたって事が信じられないんだよ。僕が16歳の時に電車に乗ってリヴァプールに行き、キャバーンについたっていう事実は驚くべき事だよ。
1ドルぐらいで僕らは5つのローカルバンドが演奏している場所に行くことが出来た。僕はその時までエレクトリック音楽をこの目で実際に見たことが無かった。そこで僕らは夢にまで見たクールなエレクトリックギターを見た。彼らが持っていたんだ。
僕らはローカルバンドの何人かと友達になって、その中のロブっていう男がリヴァプールの色んな場所に連れて行ってくれて、その時に彼が言った。(ザ ビートルズが生まれた場所に乾杯!)それは僕らがルーツにまっすぐに進んだことを意味していた。僕らは実際にそうしたんだよ。
僕らはそこで音楽を見たんだ。そこでその後、来たるべきバンドを見たんだよ。ある時、オールナイトのショーを1ポンドで見ることが出来るクラブで(ザ ムーブ)と(ザ フー)の演奏を見ることが出来た。ザ フーは(マイジェネレーション)でブレイクしていて、ピートタウンゼントはかなりかっこよかったよ。そのとき彼はステージの上で彼のリッケンバッカーを燃やしていた。ロブはその時、ステージの上に上がっていって、その残骸を僕に少しくれたんだ。めちゃくちゃクールだった。
僕らはその後、本当に一文無しになっていた。僕らにあるのはちょうど帰国できるくらいの金だった。だけど、その時の経験が僕のすべてを変えた。その時以来、僕らには物事が全く違って見えるようになった。ここの音楽シーンで見つけたのは完全な自由だった。ここにはローカルな男たちがいて、彼らはファンキーな小さいミニバンを持っていて、音楽を作っている。(これこそまさに僕らがやりたいことだ!こんなこと学校に戻ったとしても出来ないよ。)僕がすべてを開始させたのはまさにその経験からなんだ。
僕らが帰国したとき、デイブと僕は弟をバンドに入れてバンドをスタートさせることを決めた。その時、イギーポップはわずかなちょっとした知り合いだった。彼は(イグアナ)という実際に演奏していたバンドに居た。彼はくそったれな感じだった。皮のベストやコーデュロイのパンツ、タートルネック、そしてビートルズのブーツを着ていた。それは子供が学校で着るべきものじゃなかった。僕らは毎日ディスカウントレコードに行った。なぜならイギーがそこで働いていてロックンロールを担当していて情報を僕らに教えてくれたから。彼はいつも最高の音楽を知ってたんだ。
https:/
https://www.youtube.com/watch?v=PfzJcVeHOUo
https://www.youtube.com/watch?v=3gsWt7ey6bo
https://www.youtube.com/watch?v=fkC2lauXCKU
https://www.youtube.com/watch?v=cF-q_JdcCD8
https://www.youtube.com/watch?v=P9_hegaKOaY
ジェームズウィリアムソン(ギター)
◎いつ頃からギターを始めて、最初に影響を受けた人は誰ですか?
ギターを始めたのは中学1年生の頃だ。僕はテキサスで生まれたが、母が軍人と再婚したために転々とし、最終的にはオクラホマに行った。ある夏、テキサスを訪れた際に、かっこいいと思ってギターを買った。妹がエルビスのレコードを持って帰っていたので、「ギターが欲しい」と思ったからね。それで、母を説得してギターを買ってもらったが。叔父がシアーズで働いていたので、結局、シアーズの古いFホールのギターを買ってもらった。だけどアクションがフレットから1.5センチくらいずれていた。
とにかく、最初にギターを少し弾けるようになったときは、コードを弾いたりするだけだったが、1年ほどしてデトロイトに引っ越したときに、偶然にも音楽をやっている家族の隣に引っ越すことになった。その家族の息子はケン ブラックといって、エレキギターを弾いていた。デトロイトに引っ越してきたのは、マーサ アンド ザ ヴァンデラスの「Heatwave」が大ヒットした夏だったことを覚えている。彼の部屋に入り浸り、彼の演奏を聴きながら、バレーコードの弾き方などを学んでいた。その夏の終わりには、フェンダー ジャガーという自分のエレキギターを手に入れるほどの腕前になっていた。もちろん、当時影響を受けたのは通常のバンドばかりだよ。サーフミュージックが多かった。ベンチャーズ、ガービッジメン、ビーチボーイズなどだね。それから、ほどなくビートルズがアメリカでブレイクし始めて、それから通常のバンドがどんどん出てきたんだ。僕らもね。
◎モータウンの曲が出てきましたが、モータウンはデトロイトにあるレーベルです。デトロイトは音楽の街でしたか?また、健全な文化遺産もあったのでしょうか?
ああ、めちゃくちゃ音楽の街だったね。モータウンは一か所だけじゃなくてデトロイトのどこにでもあった。つまり、どこにでも音楽があったってことだ。ある夏、デトロイトで開催されたステートフェアに行ったことを覚えている。そこでは、子供を連れてきてステージに立たせていた。ステージから落ちるので誰かが目を離さないようにしてそばにいたんだけど、それが「Fingertips」を演奏するリトル スティーヴィー ワンダー本人だったんだよ。至る所で音楽が流れていたよ。
イギーポップ
bbc ラジオ 2020
シンガーとしてジョンレノンは天才だ。ソングライターとしてポールマッカートニーは天才だ。二人は同じバンドに居た。二人は最も好きなシンガーの部類だよ。美しい気違い達。
ミックジャガーからは、曲を演奏している間、彼が動き回ることだね。また、イライラさせるような声。彼が歌うといい意味で逆になってしまうんだ。
友情とは基本的にデヴィッドボウイが私を仕事上、そして個人的にも消滅の危機から救ってくれたということだ。多くの人が私のことを知りたがっていたが、彼だけは私と共通点があり、私のやっていることが本当に好きで、私に乗ることができ、さらに私を助けるだけのまともな意思を持っている人だった。彼は良いことをした。つまり彼は私を復活させた。
◎お気に入りのシンガー
- エルビスプレスリー
- ジョンレノン
- ポールマッカートニー
- リトル リチャード
- ジェームスブラウン
- ブライアン ウィルソン
- ジョニー リー フッカー
- ジョニー キャッシュ
- ボブディラン
- ボブマーリー
- ミック ジャガー
- エリック バードン
- ソロモン バーク
- チャックベリー
- マディ ウォーターズ
- マーヴィン ゲイ
- トゥーツ ヒバート
- ジム モリソン
- ニール ダイアモンド
- デヴィッドボウイ
- カート コバーン
◎お気に入りのアルバム
6 ラバーソウル
このアルバムは 彼らがかわいいヒット曲を書き上げた後、少しずつ悲しみがこみ上げてきた時期に作ったものだよ。でも、彼らはまだ(この歌は12分もあるし、俺は落ち込んでいるから、もういいや。)という段階には至っていない。
ラブイシュー 2008
ラジオを聴いてはイライラしていたんだ。特に不満だったのは、レスリーゴアの「It's My Party」だった。気の利いたポップソングなのかもしれないが、私は聞きたくなかった。(あれは偽物だ。あれは偽物だ!間違っている!)と。あれを聞いたときは気分が悪かった。
トップ40の中で、キンクスとビートルズの曲が1曲ずつ欲しいと思っていたが、それ以外、あれと同じ気持ちになるものが38曲もあった。それは、後にニクソンが大統領になったときに感じたのと同じでだった。 子供は、(あいつはサイコだ、あいつは卑劣だ、俺はもうこのために戦うつもりはない)とわかっていて、それを笑い飛ばすんだ。(ふざけるな。くそったれ)ってね。だから、ああいった曲は本当にいつも悪いと思っていたんだ。
アイリッシュタイムズ 2008
僕が幼い時には、もしそれが良い曲だったなら、僕の急進主義は僕に単純に好きな音楽にさらされるだけであることを許した。10代初めになると、僕はトップ40を聴き始めた。僕はラジオから流れる1つのビートルズの曲を待っていた。これはほどんど強制的な麻薬の様な信じられないような感情的な反応を生んだ。そのビートルズの曲は待たなければならない何かだった。それに抵抗することは出来なかった。
そんな時にレスリーゴアの様な曲が代わりに流れると感情はひっくり返され、怒りがこみ上げてきて、我慢がならなかった。今なら僕は自分に言い聞かせることが出来る。(よし。これに対処しよう)って。だけど、もしその曲に棘の様なものがないのなら、あるいはオイスター(牡蛎)の様な価値がある何かでないのなら僕の内心の感情は未だに同じになるんだ。
小さかった頃、学校に行く前の朝食時の事さ。家族と一緒に住んでたトレーラーハウスの台所にあったラジオから流れてくるトップ40の退屈でうんざりする様な曲をずっと忍耐強く聞いていたのは、ビートルズの(抱きしめたい)が聴きたかったからだ。この曲のある部分を聴くたびに、僕の首の後ろに電撃とでもいうものが走ったよ。
ビートルズは好きだったよ。でも最終的に彼らの音楽に熱中しなかったのは彼らがイギリス人だったからだ。僕はイギリスのバンドとアメリカのバンドの違いについてよく考えたものだよ。
イギリスのバンドには蓋はあるけど底が無い。それではアメリカ人には足りないんだよ。つまり、彼らにはメロディーがあるけど底が無いんだ。ビートルズはメロディーで人を扇動した。反対にアメリカのバンドには蓋が無いけど底があるんだよ。つまりメロディーはないけど、へヴィーなグルーブとかファンクとかブルースと言ったものがあったんだよ。
60年代には誰も僕らの音楽を聴かなかった。だから注目されるために僕はなんでもした。客席に飛び込んだり、割れたガラスの上を転がったりもした。でも誰も僕らの音楽を聴きはしなかった。
僕はパンクにもメタルにも属さなかった。パンクムーブメントを含め、いわゆる先導者と呼ばれる連中に矛先を決められたムーヴメントなんて一切信じてなかったよ。
今日のポピュラーミュージックのすべてのスタイルはビートにその強味があるんだよ。ラップ、ヒップホップ、メタル、ポップ、ロックと、どんなジャンルのプロデューサーだろうと、みんな等しくビートとは心臓の鼓動の模倣であって、そこに力がみなぎるもんなんだと同じ発言をするものなんだ。でも、僕はそれとはまた別のフィーリングがずっと好きだったわけで、温もりがあって、ちょっと物悲しくて、僕の頭をがんがん打ちつけてこないようなものが好きなんだよ。僕としてはこういう楽曲を歌ってみたくて、リスナーとして感じたものを僕の声を通して僕のリスナーにも伝えたかったんだ。
今までレコード会社は僕の自尊心を傷つけ、僕を抑圧し、僕を引きずりおろした以外の事を僕にしたのかなって考えてるんだ。メジャーレーベルは人気の高いパンクバンドとロックアルバムをやって欲しがってるんだけど、僕はそういう事だけはやりたくないと思ってるんだ。
今度の新作をレーベル契約しているEMIに持っていったけど、連中は欲しがらなかったんだ。連中はまったくこのアルバムは金にならないと考えた。僕のファンが気に入るはずがないとも思ったんだね。とても繊細な人に向けた繊細な表現になっているんだけど、それは僕とは違う人間だということみたいなんだ。彼らには僕がパンクが好きな人間でいてほしいんだろうね。でも実際、僕は(La vie en Rose)や(Michelle)、(Only the Lonely)といった曲が本当に好きなんだよ。そしてはっきり言うけど僕はパンクが嫌いなんだよ。
心拍音のようなビートをきかせた現在の音楽を聴くのはエキサイティングだ。でも、ブルースが生まれる前には別のフォームのこういったポピュラーソングがあった。それは呼吸するようなタイミングで、もっと感情に訴えるフィーリングを持っていた。これらの表現方法は、ベルカントやシャンソン、プレーンソング、もしくは単に民謡として知られている。僕はずっとこういうフィーリングが好きだった。親密で、ときにちょっと悲しく、僕の頭を打ち砕こうなんてことはしないもの―――。だから、自分でこういう曲を歌ってみたかった。僕がリスナーとして感じたこのフィーリングを、僕のボイスを通じて僕のリスナー達に伝えたい。
ビートルズカヴァー
オノヨーコ カヴァー
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僕はここ15年か20年くらい、オフステージの生活を少しずつ、静かでゆっくりしたものにしてきた。それは僕に必要なことだった。そうすると、次第に声の出が良くなり、情熱を感じる対象が変わってきた。僕が子どもの頃に聴いてたような、静かな曲が歌いたくなってきたんだ。
ストゥージズのツアーで2ヶ月ずっと「ウワァー!」「ファックユー!」「ファッキンヘル!」 「ヘイ!!ウワォ!!ワァーーー!!」とやった後、家に帰って考えたんだ。よし、スタジオでそんな曲を歌ってみようって。そんなわけで僕は穏やかで地味な生活を送ってる。静かな生活だよ。ただし、時にまだ悪魔が僕に語りかけるんだよ。
◎レノンですか?マッカートニーですか?
つまらない質問だ。レノン=マッカートニーだね。そんなに区別して聞いてないから。解散した後でも彼らのソロの音楽がラジオから流れるとやっぱり聴いてしまうんだよね。彼らは引き上げてくれた人だからね。つまり、ひな鳥みたいなものだ。