私見 "こうして欲しかった"シン・ウルトラマン①(ネタバレ注意) | 怪獣玩具に魅せられて

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土曜日に、2回目の『シン・ウルトラマン』をみに行きました。2回目ということで、みんな大好きIMAXでの鑑賞。

 

地元の映画館では売り切れてたパンフも無事買えました。

 

パンフの冒頭に、本編冒頭の紹介が載ってるので、後から見直すのに最適です。

 

2回目は嫁と2人で観に行きました。嫁がHey! Say! JUMPのファンで、シンウルだけは観に行くとのことで。僕は2回目なので、何が起こるかはわかっている中での鑑賞。嫁は、子ども(ウルトラマンブーム到来中)からのウルトラシリーズ情報には通じている程度の知識での鑑賞となりました。

 

で、それぞれの感想ですが、

2回目鑑賞の僕は、1回目以上に楽しかったです。

何が起こるかはある程度分かっているので、初見の驚きも戸惑いもなく、より細部に目を向けることができました。その結果として、1回目に観た時より、評価は高くなっています。

 

で、Hey!Say!JUMPファンの意見は、

有岡大貴ファンとしては、満足。ただ、お話としてはーー??? という感じだったようです。

 

初見時は3回にわたって、ネタバレなしの感想を書きましたが、今回はがっつり話の中身に踏み込みながら、「こうして欲しかったシン・ウルトラマン」ということについて、書きたいと思います。

 

ということで、いきなり終盤の展開から物申したい。

 

 

  シン・ウルトラマンの、最後のあれ(疑問編)

 

映画を観た方ならご存知の通り、シンウルの最後の敵は、まさかの光の国からの使者と、そいつが連れてきた天体制圧用最終兵器ゼットン。元の「さらばウルトラマン」と全く方向性の違う展開に、初見時は驚かされました。
 
光の国からの使者であり、裁定者の名は、ゾーフィ。ゾフィーではなく、ゾーフィ。
 
細部にわたってバックグラウンドが存在するシンウルの例に漏れず、このゾーフィにもちゃんとバックグラウンドがあるのはご存知の通り。
 
簡単に言うと、少年誌の誤情報ですね。ウルトラマン放映当時は、少年誌側が得られる情報もとかく少なく、こういう誤情報や勝手ーーと言っては言葉が悪いですが、独自解釈の設定を書くことも多かった。後年、ウルトラセブンの時には、公式以外のところでの情報により、第12話「遊星より愛を込めて」が欠番になった、なんてこともある。
 
ゾーフィも、少年誌の誤情報から生まれた存在で、
「宇宙人ゾーフィ」
①宇宙からやってきた
②宇宙恐龍ゼットンを操って大あばれをする
③力はないが頭はよい
④スーパーガンにはよわい
 
などなど、言われたい放題。挿絵も、ウルトラマンによく似た、それでいてトサカが黒く、身体のデザインがちょっと違う、コレジャナイ感の強い姿が描かれている。
 
シンウルでは、このゾーフィの設定のうち、
①宇宙からやってきた(光の国も宇宙にあるだろうから)
②宇宙恐竜ゼットンを操る
 
の2点を踏襲し、一方で、
 
①光の国からの使者である
②ウルトラマンの後見を務め、ウルトラマンとハヤタ(神永)を分離する
 
という、「さらばウルトラマン」における、ゾフィーの役割も担います。
この2つが結合した結果、
 
『シン・ウルトラマン』最後の敵は、ウルトラマンと同じ星からやってきた裁定者ゾーフィである。
 
ということになっている。僕はそこに、非常に大きな不満を持ちました。
 
 
 
まず、この最後のサプライズの必然性について考えます。
なぜ、ゾーフィ==ゾフィーが最後の敵として登場しなければならないか、それは「少年誌に書いてあったから」以外に、特に理由が見当たりません。宇宙正義的な、地球の価値観や物差しとは異なる大局的な観点から地球を滅ぼそうとする展開は、実はウルトラシリーズにおいては目新しいものではない。それこそウルトラマン映画の中で、既にやられていることです。
 
映画『ウルトラマンコスモス VS ウルトラマンジャスティス ザ・ファイナルバトル』において。
 
こちらでは、宇宙正義を司るデラシオンが地球を滅ぼすためにギガエンドラはじめとする様々なロボット兵器を送り込み、さらには宇宙正義側のウルトラマンジャスティスと、我らがコスモスが激突する。そして最後には、超巨大最終兵器である、ギガエンドラに、コスモスとジャスティスが、宇宙空間上で地球を背に守って戦う。僕は初見時から、ゼットン戦を観た時に、「コスモスの映画の三作目みたいだな」と思わずにはいられませんでした。
 
『ファイナルバトル』において、地球を滅ぼそうとする相手は宇宙正義デラシオン。一方で、『シンウル』においてはゾーフィと、彼を地球に送り込んできた光の国。つまり、これまで命がけで人類を守ってくれていたウルトラマンーーリピアの母星から、最強最悪の兵器が送りこまれてくるというところに、最大のショックがある。
 
そして、このショックを成立させるために、『シン・ウルトラマン』はいろいろな事前設定を捻じ曲げている。
 
①人間との融合が掟で禁じられている、ということ。
②「大局的」という見地に立っていたとしても、光の国にとって(少なくともゾーフィ到達時点で)地球は取るに足りない場所であり、そこに生きる生命にも価値がないと思われていること。
③それを分かっていながら、一人戦うウルトラマン(リピア)こそが、マイノリティであるということ。
 
決して小さくない改変です。恐らくは、ウルトラマンの孤高性を際立たせるための設定改変なのでしょうが、それによって全体が受ける影響は決して小さくない。まず、①人間との融合が実は禁じられていたという改変によって、『シンウル』を基準として見た時に、帰ってきたウルトラマン、エース、タロウからZにいたるまで、それら全てとの整合性が付かなくなる。もちろん、『シンウル』は初代ウルトラマンを独自解釈でリメイクした、非常に独立性の高いものであると考えることもできますが、そうなってくると逆に、往年のウルトラシリーズを踏襲している(あるいは目配せしている)と思しき部分がノイズになってしまう。
 
それに加えて、②光の国の嫌な奴加減が浮き彫りになってしまう。なんだ、ウルトラマンのいる星って、ザラブのような外星人と同じ考えなのか、と。そしてウルトラマンは、本編の中でも謝罪していましたが、地球はおろか太陽系まで悉く滅亡する原因となってしまっているわけで、それって、トンでもないことですよね。
 
それでもウルトラマンは自分の責任を果たすために、命をかけてゼットンに挑んだわけで、そういう英雄的な姿が光らないわけじゃないけど、光の国(ゾーフィ)に抗うウルトラマンという構図を持ってきたことで、一つの問題が生じていると思います。そして、この問題は決して小さくないと思う。
 
『シン・ウルトラマン』は、誰に向けて作られた映画なのでしょう? あれほど大々的な宣伝があり、皆が数年、待ちに待ち焦がれたこの空想特撮映画は、どんな客層をイメージしているのでしょうか。
 
『シン・ゴジラ』にしろ、『シン・ウルトラマン』にしろ、現実のハードな一面を描いてはいますが、一方でたとえば現実の「死」の生々しさは、実はそれほど描いていません。あれほど甚大な被害を出した『シン・ゴジラ』でさえ、実は直接的な死って、ほとんど描いていない。僕が一番ショッキングだったのは、蒲田君が通り抜けた後の瓦礫の中で、押しつぶされたらしい人の手だけが覗いている画。『シン・ウル』になると、本当に、誰も死なない(禍威獣と外星人は除く)。
 
つまり子どもが見ても怖くないし、むしろ、大迫力で展開されるバトルシーンは、とにかく工夫が凝らされていて、ザラブ戦までは最高に楽しめる。そもそも、どれほどドラマをハードに解釈しようとも、ウルトラシリーズは、子どもたちに対して、裾野を広げているシリーズです。「大人の鑑賞に堪えうる」ということは、「子どもを蔑ろにする」ってことじゃない。大人が見ても見ごたえがあり、一方でそれは子どもたちにも様々なことを考えさせる。そうした懐の深さがあるからこそ、ウルトラシリーズは世代を超え、そして同じ人が時代を超えて愛することができるシリーズなのだと思う。
 
『シン・ウルトラマン』は、子どもたちのことを想定していただろうか。子どもたちは、この『シン・ウルトラマン』を見て、
 
「ウルトラマンかっこいい! ウルトラマンになりたい!」
 
と思うだろうか。
それとも、
 
「ウルトラマン、何か――かわいそうだね」
 
となるだろうか。
僕の中の童心は、後者を呟いておりました。
 
ウルトラマンを孤高にすればするほど、特別性や、彼に対する感情移入は深まるでしょう。しかし、それは一方で、「光の国」であったり、ウルトラの世界観であったりと、「ウルトラマン」を取り巻く周辺に対する印象を、著しく下げることにはならないだろうか。
 
早い話、ウルトラマンを好きになる一方で、ゾフィーが嫌いにならないだろうか。
「あれはゾーフィじゃなくてゾフィーだよ」と言っても、じゃあゾーフィって何? って話になる。
少年誌の誤情報から出た設定だよというところまで伝えるのだろうか。そこまでしないと伝わらないキャラクターではあると思うのです。
 
そして、『シンウル』において、孤高なのはウルトラマンだけではない。
禍特対のメンバーなど、この物語で重要な役割を示すキャラクターは悉く孤高に描かれている。
彼らだけが、目の前の空前絶後の事態に対して能動的に動いている。
それ以外の人間は大衆化され、何もしないか、事態を悪くする無能でしかない。
むしろこの映画での一般大衆的な「人類」は、
 
①外星人には搾取あるいは支配あるいは粛清の対象とみなされ、
②為政者からは「真実を告げられぬままに明日を奪われる」ことになり、
③平時においては「要らんことをネットに挙げる」愚かさを指摘される
 
など、圧倒的に弱者(or愚者)として描かれている。
それはもちろん『シンウル』において、「人類がどう頑張っても絶対に届かないところにいる存在」として、ウルトラマン・禍威獣・外星人を出しているわけで、狙っている部分でもあるんだけれども、だからと言って、人類の「その他大勢」は、ただ守られるだけの弱者として描いて良かったのか。
 
この点については、まだ『シン・ゴジラ』の方がしっかりやっていた。
『シンゴジ』においても、物事を能動的に進めるのは一部の人間に限られていたけれど、それでも「ヤシオリ作戦」において、官民が一段となり、一致団結して最大の脅威に立ち向かう「構図」が明らかになっていた。
 
『シンウル』においてラスト、神永(ウルトラマン)の託した希望を、全世界の叡智を結集して形にするという「展開」にはなるけれど、それを実際的に「映像」として見せてはいない。バーチャル会議だからという理由付けをしているけれど、そこに映っているのは、有岡大貴演じる滝明久ひとりのみ。たとえ一瞬でもいいから、「世界中の叡智が結集した瞬間」を画で見せてくれたら、全然変わったと思う。
 
しかもね――そこで出た結論が、ベータカプセル2回点滅って。
結局それって、ウルトラマンひとりが頑張るだけってこと?
 
その意味では、あの悪名高い『大怪獣のあとしまつ』と、その点だけは変わらない。
一部の人の頑張りを描くのは構わない。「ウルトラマン」でも科学特捜隊が専ら対応していたから。
でも、「それ以外」を何故、あのように描いてしまうのだろう。
樋口監督、『ガメラⅡ レギオン襲来』で、あれほど熱い人間ドラマを描けたのに、何故……。
 
『シン・ウルトラマン』に付きまとう、「秘密性」。それが僕には窮屈に感じてしまう。
ウルトラマンと人類の関係は、そうじゃない。たとえ、「外星人が地球上に現れた時の、極めてリアルな状況」を描くことが狙いだったとしても、「人類の心に希望を鼓舞する存在」としてのウルトラマンが描けないはずがない。
 
そういう意味で、『シン・ウルトラマン』は、日本版『マン・オブ・スティール』的な色合いを帯びている。
ウルトラマンが登場する。禍威獣を倒す。ウルトラマンの全能感==カタルシスを感じる瞬間の全てにおいて、それを見て、拍手や声援を送る人々の姿がない。
 
彼を応援するのは、事情を知っている禍特対のみ。
 
しかもラストは宇宙空間での戦いであり、その戦いは誰にも知らされることなく、人類には知らされないままに進められ、なんだったら禍特対の面々ですら、戦いを実際に見ているわけではない。
 
構図として、どうしても閉じた世界に感じてしまう。
 
どうして、このようなラストにしたのか。ここまで書いて、もしかしたら予算の問題だったのか? と思ってしまった。
確かに、ウルトラマンに人類を絡ませ、その背中に声援を送る画を作るって、けっこう難しいのかもしれない。
 
でも、でもさ、
 
『大決戦 超ウルトラ8兄弟』ではできてたじゃないですか。
ウルトラマンの活躍に声援を送る人々の姿を、描けていたじゃないですか。
 
『シン・ゴジラ』のラストで、ゴジラを倒すために日本に世界から援助の手が差し伸べられ、最後の最後のギリギリまで、人間の叡智で事態を打開しようとしていた。あの「前向き」な展開に比べると、今回の『シンウル』のラストは、あまり後味が良くないなあと思われてしまう。
 
あと、後味が良くないってことでいうと、
 
ウルトラマン、神永に命を譲ったんだよね?
 
ゾーフィはゾフィーと違うから、命を2つ持ってきたなんてことはないだろうね。
 
そしてゾーフィはあの感じだと、地球を守るために留まりはしないでしょう。彼は「光の星の掟に忠実」なんだから。そもそも、地球を見逃すことだって、ゾーフィの英断なのか、光の国の路線変更なのかも判然としない。
 
その一方で、「地球が軍事利用価値のある星である」ということについて、マルチバース内で広まっている事実は変わらない。
 
ってことは、今度地球は、結局やばいよね。
 
地球的にも、マルチバース的にもヤバいよね。
 
そして、それを救ってくれるウルトラマンは、もういないよね。
 
ちなみに、このウルトラマンとゾーフィの会話のシーンでは、非常に重要な1セリフが削除されています。
 
地球の平和は、人間の手でつかみとることに価値がある
 
これがないことの意味は――?
 
元の「さらばウルトラマン」において、衝撃的なのはウルトラマンが破れたという顛末だったはずです。
そして科学特捜隊=人類の叡智=ペンシル爆弾によって、ゼットンは倒された。
このような決着を持ってきたからこそ、視聴者は、ウルトラマンが倒されたことはショックであっても、その後の世界の顛末には絶望する必要はなかった。地球を自らの手で守り抜いていける、人類の叡智が最終的にはゼットンを倒したのだから。
 
ところが、『シン・ウルトラマン』において、そのような楽観的顛末は期待できない。なぜなら、
①そもそも、人類がどうやっても立ち向かえない相手としての外星人
②光の国からの支援は期待できない(ゾーフィは粛清を見送ったのみ)
③ウルトラマン(リピア)が託した希望(ベータシステム)を人類がどう使うかの展望については言及されない。
④「地球に残りたい」→「それはできない」→「それなら自分の命を」という流れで、ウルトラマンの地球残留も不可能。
 
となる。何でこうなったかと言えば、それは
 
光の国からゾーフィがゼットンを使って地球を滅ぼしに来た
 
という、展開を持ってきたからですよ。
 
なので、ここを少し変えたい。
現実には無理でも、妄想の中でなら、自由に思い描ける。
 
ここまでで死ぬほど長くなってしまったので、とりあえずここで〆として、次の記事で、「こうして欲しかったウルトラマン 提案編」としたいと思います。