(愚痴愚痴雑記)『大怪獣のあとしまつ』がエグすぎる。 | 怪獣玩具に魅せられて

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【注意】

今回の文章は100%主観で描かれたものであり、場合によっては読む人に不快感を与える文言が含まれているかもしれません。

ネタバレも完全に含んでおりますので、映画『大怪獣のあとしまつ』未見の方、あるいは支持派の方は、本投稿を見ないことをお勧めします。

 

 

 

このブログは本来、怪獣玩具のレビューを行っているので、怪獣映画作品については、過去作品であれ、リアルタイム作品であれ、レビューしたことはありません。それが今回、『大怪獣のあとしまつ』の鑑賞後レビューをしてみようと思い立ったのは、それだけこの作品に、語るべきところがたくさんあるからなのでしょうね。

 

まあ悪い――というか、最悪の意味でなんですけど。

 

2月4日に公開。余計な知識が入ってくる前にと、本日2月5日11時55分からの上映を鑑賞。ブログを書き始めて、この文字を打っている今現在が、15時15分。まだまだ記憶も印象も鮮明な中で、僕がいかにこの『大怪獣のあとしまつ』にガッカリしたかと書いていきたいと思います。

 

僕個人としては、これまで怪獣映画もそれなりに見てきて、お気に入りの作品もたくさんある。「僕にとっての怪獣映画」観というものが一応、確固たるものとしてあります。当然そうした見方も主観に過ぎず、僕にとっては良と思える怪獣映画が、他の人には否であることもあるでしょう。故に、この文章に共感しようが反感を持とうが、それは読んでくれた方の自由です。

 

が、『大怪獣のあとしまつ』に関しては、ただ一つ、確信をもってハッキリ言えることがあります。それは、鑑賞後、誰もが必ずこう思ったであろうということです。

 

ダメだろ。これは――。

 

 

 

『大怪獣のあとしまつ』私感。

 

ダメポイント① しょうもない。

予告編で本作に期待した人も、決して少なくないはず。事実本編においても、VFXは頑張っていたと思います。主演の山田涼介さんも良かった。怪獣「希望」君も、ゴジラよりもシンプルなデザインや、ピンと片足だけを立てて死んでいる可愛らしさなどが、けっこう好きでした。そんなわけで予告編から本作への期待も高まっていたわですが、でも本編を見て、気づかされました。

 

細切れのカットがテンポ良く続く予告編だから良かったんだなあ――と。

 

この映画、本当にしょうもないです。脚本も、見せ場や魅力となることを想定して入れている要素も、物語的展開やカタルシスも、全部しょうもない。そのしょうもなさが、他の良いところを全部包み込んだうえで、一緒に泥水の中に飛び込んでしまった感じですね。

 

まず全編を通して、コメディ要素は軒並み失敗しています。政府高官の会話シーンは苦痛でしかない。予測不能な事態に遭遇した時、為政者がいかに愚かかということを戯画化して描いている心算かもしれないけど、そもそもコミュニケーションとして成立していない。それぞれがてんでバラバラ、わけの分からないことを叫んでいるだけで、本当にいらいらする。まじ終盤には、「希望君、生き返ってこいつら纏めて食ってくれないかなぁ」と願ってしまいました。

 

「うんこかゲロか」「怪獣に突き刺さる環境大臣」「おなら爆発」「きのこの中に一つだけあれ」……コメディの中身が基本的には、「人の愚かさ」と「下ネタ」に徹している。これを、観客が、1900円も払って観て、「面白いと感じる」と、作り手は、本気で、思ってたんですか? だとしたら正気じゃありません。これで笑うって考えている人たちのセンスの方が死んでます。

 

パロディネタも、怪獣映画が好きであれば好きであるほど殺意を覚えるものばかりでした。凍結作戦失敗は『シン・ゴジラ』へのアンチテーゼあるいはアイロニーの心算かもしれませんね。別に他の作品をアイロニックに担ぎ出すことを否定はしません。けどね、凍結作戦失敗=『シン・ゴジラ』の決め手は実は効果的ではないのではないか、というメッセージを込めるんだったら、少なくともこの作品の中で、『シン・ゴジラ』を超えるほどの「対処方法」を描くことは、当然の宿命でしょう。で、この映画がそれを描くことができたかというと――まったくできていない。だって、最後にすべてをまとめたのは、人間の叡智でもなんでもないですよ。ネタバレになりますが、ウルトラマンまがいのあれでしょう。結局、指摘して笑い飛ばすだけ笑い飛ばしておいて、肝心の「あとしまつどうするの」問題については、本作は完全に背を向けて逃げています。その一点だけで、もう最低です。

 

『パシフィック・リム』繋がりなのか何なのか知らないけど、菊地凛子さんもね、こんな映画に『パシリム』を思わせる役で出ちゃだめですよ。『パシリム』の価値が下がりますよ。僕らが怪獣映画で観たかったあなたは、こんな無能じゃないです。

 

この映画、ことほど左様に、風呂敷を広げたり、指摘したりするだけしておいて、何も解決しないままに終わっている部分が多すぎる。冒頭には緊急事態宣言などの文言から、現在のコロナ禍を髣髴とさせたり、あるいは菌糸や臭いが死体から広範囲に広がるところなどは、原発事故を思い出させるような部分もあります。けど、それは臭わせるだけ臭わせておいて、なにも回収しない。何がしたいの分からない。

 

分からないといえば、登場人物の言動も意味不明です。濱田岳は何がしたかったの? 政府をあれほど無能かつコミュ障に描いておいて、何がしたかったの? 陰謀や暗躍、裁量権の奪い合いみたいなことをやっていて、結局、誰にも決着がついていない。これは完全に、一から十まで脚本の問題です。本当に、寝ながら書いたの? ってぐらい、辻褄が合わない。登場人物が何をしたいのか、まったく伝わってこないし、そもそも伝える気さえないんじゃないか。だから本作の政府高官と同様に、この作品自体が「意思疎通不能」なんですよ。そしてこの作品はエンドクレジットの最後の最後まで「意思疎通不可能」かつ、醜いほどの「自己満足」で終わる。まさか、令和に入ってからこんなに志の低いものを見せられるとは、夢にも思いませんでした。それも「怪獣映画」という、大好きなジャンルでね……。

 

 

ダメポイント② フィクションとリアルの境界がおかしい。

よく考えないでもわかることですが、『大怪獣のあとしまつ』は、往年の怪獣映画へのカウンター的作品です。つまり、これまで多くの怪獣映画が見なかったことにしてきた「死体どうするの」問題について言及すると。それは言い換えれば、これまでの怪獣映画やウルトラ映画がカタルシスの置き所を、怪獣退治に持ってきていたことについて、

 

「いやいや、ここでいい話っぽく終わってるけど、現実的に考えたら、大変なのってここからだよね?」

 

ってことを示す作品であるはずなんです。したがって、「怪獣」というフィクションを入れ込みつつ、作風自体は非常にリアリスティックでなければならない。

 

それが限りなくうまくいっていたのが、平成ガメラシリーズです。特に『レギオン襲来』は、ガメラとレギオンの戦いを中心において、自衛隊の限りなく(それだって空想特撮科学の基準の中ではありますが、)リアルな戦い方を描いていた。しかも、「集団」としての自衛隊を描くだけでなく、個々の人物の人となりを、展開や演技の中で描いて見せた。だからこそ、『レギオン襲来』には感動がありました。

 

ところが『大怪獣のあとしまつ』は、このリアルとフィクションの境界を、根本から勘違いしている。というより、ロクに考えもせずに作っている。その好例が、政府の人間の描写です。現政権をどう思うかは別にして、あんな頭の狂った人間がいるはずはない。あれは戯画化、キャラクター化なんだと言い返されそうですが、戯画化はリアルな作風から程遠いところにある手法ですよ。つまり、怪獣が死んだ後の後処理という、この上なく現実的な問題を描こうとしているのに、作品そのものがまったくリアルを目指していない。過去に平成ガメラという、あるいは『シン・ゴジラ』という手本があるのに、それらの作品から一歩も前に進んでいないどころか、恐ろしい勢いで後退している。

 

今や、毎週テレビで観れるウルトラシリーズでさえ、もっと手の込んだ、「リアルな世界」を描いていますよ。

とんでもない予算使って、130分も使って、いったい、何を見せたかったのでしょう?

 

それはあれですか? 最後のウルトラマンもどき??

 

僕にとって、「あとしまつ」をどうするかというのは、最後の希望--唯一、興味に持続につながる命題でした。本編がどんなにしょうもなかろうと、イライラしようと、変な方向に行こうと、最後の「あとしまつ」で納得がいけば、一応は大団円を迎えられそうだと思ったんです。が、結局、最後まで人間側の作戦はうまくいかず、すべてを終わらせたのは、「ゼウス・エクス・マキナ」といえば聞こえは良いが、それ以外思いつかなかったからという、半ばヤケクソ気味に無理やり登場してきた、「ウルトラマンもどきの足」でした。

 

これの何が最悪って、最後の最後に人間外の力による解決を持ってくるとね、

 

それまでの作戦がすべて無駄になるんですよ。

 

じゃあ、映画として何も残らないんですよ。

 

しかも、この最後に「ウルトラマンもどき」は、円谷が大事にしてきたウルトラマン像、そしてそれを大切に継承してきた、ウルトラシリーズの作り手やファンたちを最低の形で裏切っている。最後の最後に都合よく話を終わらせる存在が、ウルトラマンだとでも思ってるんでしょうか。ウルトラマンは、それこそ「小さな英雄」でも描かれていたように、人事を尽くして天命を待つの天命の方なんですよ。つまり、人間側がぎりぎりまで頑張って、どうにもどうにもどうにもならないときに、初めて力を貸してくれる存在であるはずなんです。ところが、今回、必死こいて頑張っているのは、最終的にウルトラマンになる山田さんただ一人ですよ。彼だけが、あらゆる目論見の外にいて、あらゆる陰謀の外にて、唯一、「人類のために」を掲げて戦っている人物です。土屋さんも頑張っていたけど、ギリギリのところで命張っていたのは彼だけです。つまり、今回の後処理作戦で人間側は頑張ってないんですよ。どいつもこいつも責任の押し付け合いと裁量権の取り合いで。超人的ヒーローが登場しないにもかかわらず、現場で命がけで戦う人々を描いた『シン・ゴジラ』の足元にも及ばない。

 

そんな中で、最後はウルトラマン的な存在に神頼み――。全体がふざけた作風でできている上、作戦失敗の殆どが人的理由である今回の人間側は、「ぎりぎりまで頑張ってどうにもどうにもどうにもならない」状況まで追い込まれているとは、とても思えません。追い込まれているとしても、それは全部身から出た錆です。結果として、ほとんどの登場人物が無能もしくは狂人であり、そこにまったくリアルはなく、故にカタルシスも共感もなく、あるのはただ虚無のみ――。「怪獣の死体処理」……意外と誰もそこに突っ込んでなかったなという、だからこそ、今までにない切り口の斬新かつリアルな怪獣映画が見られるかもしれないと思っていた、そんな僕の期待は微塵に打ち砕かれることになりました。

 

ダメポイント③ 『大怪獣のあとしまつ』は怪獣映画じゃない。

怪獣映画の醍醐味は、現実の世界に、怪獣という異物が入りこんだ時、いったいどのようなことが起こるか、どうやってそれに対処していくのかというところに、最大の面白みがあると思っています。そしてその「異物としての怪獣」は、別に生きていようが死んでいようが変わらない。故に、怪獣の死体の処理という『大怪獣のあとしまつ』も、立派に怪獣映画として通用すると思っていました。

 

ところが冒頭間もなくで、いきなり「ええっ……」と思うことが。怪獣がいきなり死体で登場したことです。

本編の大部分で死体でいることには、何ら問題はありません。でもね、少なくとも冒頭くらいは生きたまま出て、街を破壊するシーンが絶対に必要だったんですよ。

 

怪獣映画の冒頭は非常に大切です。なぜなら、ここでリアルな、私たちが良く知っている日常の中に、「非現実な存在」であるはずの怪獣が入り込んでくる、それが納得できるかどうかで、その映画編没入度が変わってくるからです。

そういう意味では、何かと低評価になりがちなミレニアムシリーズ、特に『G消滅作戦』や『Xメカゴジラ』『東京SOS』は、実はすごく頑張っていたと思います。どの作品も最初に、ゴジラやモスラと人間との戦いや出会いを描いている。そのシーンがリアルかつ真に迫っていればいるほど、その後の世界観を、リアルなものとして受け入れやすくなる。そういう「呼び水」の意味でも、「怪獣がその社会の中にいて、街を破壊している」シーンの重要性はものすごく高い。

 

が、冒頭は矢継ぎ早の字幕と解説のみ。怪獣は暴れる間もなく死体として登場。ただでさえ怪獣という大きな「虚構」が、「虚構」のまま、浮いた存在としてそこにあり続けることになる。怪獣にリアル感、実在感が希薄なのに、特務隊などといったその世界特有の機構や要素が登場してくると、どんどん現実から乖離していくことになるわけです。

 

中盤、ヘリで怪獣の死体を目の当たりにするシーン、そこのインパクトを優先して、あえてそこまで怪獣を見せなかったんだと言い返されそうですが、残念ながらそれは通用しません。予告編でいやというほど、「希望」の姿は見ているから。何なら、ガチャポンにすらなっていますよね。しかも、別に冒頭では全貌を見せる必要なんてないんですよ。それこそニュース映像で一部分だけを見せるということもできるし、靄や煙の中で暴れるシルエットを見せるだけでもいい。『パシリム』にしょうもないオマージュをささげている暇があるなら、同作の、素晴らしいオープニングの方に学べよと言いたい。

 

それでもなお、怪獣の死体から出発したいというのなら、それはそれで良いのかもしれませんが――だったら、長すぎです。2時間もかけて語るストーリーが、本作にはない。それだけの重みも奥深さもない。すべて、くだらない笑いが台無しにしている。

 

怪獣の生前を描くことを怠る――それによって、次のような疑問が沸いてきます。

 

これ、「怪獣」のあとしまつである必要なんてないのでは?  と。

 

よくよく考えてみると、この「希望」君ほど扱いが雑な怪獣はいない。いきなり死体役で登場し、体内に独特の有害物質や成分が解析されるわけでもなし。見つかるのはよく分からないキノコ(怪獣との関係性も言及されない)。その体の上には何名かの人間が登っていきましたが、その表皮のディテールも最低。『G消滅作戦』でゴジラの背中に乗った時の方がはるかにリアル。

 

「とんでもない置き土産」であることの強調ならば、怪獣じゃなくてもいい。何かとんでもない化学兵器でもいいし、これくらいフザけた作品なら、本当に「宇宙人のうんこ」でも良いわけです。ここで何故、怪獣を持ってきたか――巨大観やビジュアルが見栄えする、それが大きな理由となりましょうが、邪推を逞しくすると、往年の怪獣映画へのカウンターから出発して、「よくよく考えたら怪獣の処理ってどうするの?」という空想科学読本的なアイデアだけで、それを煮詰めることもなく持ってきただけですよ。菌糸や臭いを放射能のメタファーと考えるなら、本作の怪獣=原発という考え方もできるけれど、なんにしても動かない「死物」として出てくるだけなので、怪獣であることの必然性がないんです。

 

だからこそ、冒頭少しのシーンであっても、怪獣が実際に街を蹂躙するシーンが、是が非でも必要だったんですよ。

そこに怪獣がいる、という「リアル」。それを観客に感じさせること、納得させることが絶対に必要だったんですよ。

 

だからね、結論が出たんです。『大怪獣のあとしまつ』は、僕の大好きな「怪獣映画」というジャンルですら、そもそもなかったんだと。怪獣映画が持つ力--日常の中に、怪獣という非現実的存在が生ずるからこその展開、興奮、カタルシスをまじめに考えてないし、たぶん、それを信じてすらいないのでしょう。そうじゃなかったら、これまでの怪獣映画が大切にしてきた現実と虚構の関係性とか、日常の中の異物感とか、そういったものが描かれていないことに納得できない。つまり『大怪獣のあとしまつ』は、少なくとも怪獣映画ではない、他のナニカなんです。

 

 

でもね、怪獣を抜いた、『大怪獣のあとしまつ』って、それこそ何が面白いんだろう。

 

たとえば怪獣「希望」の代わりに、どこぞの宇宙人が持ち帰るのを忘れた「うんこ」が残されていて、それをどうあとしまつするかって話だったとしてみましょう。それを、本作の展開に即して見ていったとき、面白味はいったいどこにあるのでしょう? 演者たちの「べろべろバー」的な寒いやり取りと、人間側の只管な徒労しか残らない。つまり怪獣「希望」は、この映画にとっては最後唯一の興味の持続、文字通り、本当にこの映画にとっては「希望」だったということになる。ただ、その「希望」はね、この映画の中の彼と同じように、死んだままなんですよ――。

 

 

まとめ  『大怪獣のあとしまつ』--この後始末、どうしてくれんの?

僕は怪獣映画が好きなので、どんな酷い作品であっても、怪獣が出てくるだけで嬉しいじゃないとかいったフォローをする場合もあります。が、本作において、そんなフォローは全くする気が起きなかった。劇場もすごかったですね。公開2日目にして、お昼前の回で、10人弱。驚くほど少ない上、見終わった後、みんな無言で劇場を後にした。カップルも何も言うわけでもなく、無言で出ていきました。たぶん、何も言えなかったんでしょうね。ここで少しでも「面白かったね」とか「悪くなかったよ」とか言った日には、周りから、「あの人、センス枯れてんなあ」とか思われても、まあ仕方ないですからね。

 

 

ということで、久しぶりにトンデモナイ駄作を劇場で見てしまいました。まあ、5年くらいしたら、「俺、あの『大怪獣のあとしまつ』劇場で見たんだぜ?」って自慢できるかもしれませんね。『ヘレディタリー 継承』が「今世紀に入って一番怖い」映画として有名になりましたが、この『大怪獣のあとしまつ』については、「ここ100年で、一番しまつが悪い」映画になってしまったようですね。

 

心配なのは、この『大怪獣のあとしまつ』の記録的失敗によって、怪獣映画市場が縮小しないでほしいなあということです。映画のトレンドや商業主義、「売れる映画観」ってのは、本作で描かれている政府の人たちなみに愚かですからね。失敗した、その本質を見極めもせずに、「怪獣映画はもうだめだな」とか、即断してしまわないかどうか心底心配です。去年には『ゴジラVSコング』が公開されたりと、その出来栄え自体は不問として、世界的には怪獣映画って復興しつつあるジャンルだと思うんですよ。だからこそ、今回の大失敗で、怪獣映画そのものを無価値とはとらえないでほしい。

 

だから何度も言ってるんです。『大怪獣のあとしまつ』は、怪獣映画じゃない。

 

ダメなのは、脚本、お話です。怪獣映画以前の問題なんです。

 

名指しは避けますが、作り手に言いたい。

 

こんなに後始末に困る駄作、世に送り出すんじゃねえよ!――と