鈴木真弥「カーストとは何か」 | 世界文学登攀行

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世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。

カーストとは何か
――インド「不可触民」の実像

インドのカースト制度は、日本の歴史教科書でも学ぶことであり、僕にもその程度の知識はある。
「バラモン(祭官階層)、クシャトリア(王侯・武人階層)、ヴァイシャ(平民階層)、シュードラ((中略)隷属民階層)の四種姓から成り、バラモンが一番上に位置する序列の枠組みである」(「まえがき」Pⅱ)
そして、次のことは何かで聞いたことがあるなというレベルで知っていた。
「紀元後数世紀には、シュードラの下にさらに『不可触民』というカテゴリーが付け加えられ」(「まえがき」Pⅲ)た。

本書はこの「不可触民」(現在では差別語として忌避されており、行政用語では「指定カースト」、一般的には不可触民が自身をヒンディー語で「抑圧されたもの」の意味で称する「ダリト」が用いられている)を中心とした、現在のインドのカーストがテーマである。

日本にもかつては士農工商えたひにんに区分される身分制度があったが、今はそんなものはない。
本書を読むまでは、カーストという身分制度の存在自体が、インドの後進性を感じるような気分を持っていた。

しかし、カーストというのは、インドにおいては2つの側面があり、インドの秩序を支えているということを知った。

1つのカーストの側面は「ジャーティ」(生まれの意)である。
ジャーティは、分業体制に基づいた相互依存的な人間関係である。
広大で複雑なインド社会において、職能集団的な血縁関係の集まりというものは、社会で生存していくためには重要なものであったのだろう。
大きな意味での同族という単位に近い感覚がここにはあるのかもしれない。

そしてもう一つの側面には「ヴァルナ」(色の意)がある。
これは、僕たちがよく知っているカーストの上下関係である。

現在のインドは、カースト自体は否定していない。
しかし、ヴァルナのような考え方から生まれる、カーストによる差別を憲法によって禁止している。
インド憲法第15条「(中略)カースト(中略)を理由とする差別の禁止」がそれだ。
ところが、このような憲法によるカースト差別の明記があるにも関わらず、インドでは差別がなくなっているわけではないという。
一つには、差別はカーストも絡んだ複合的な社会要因から生まれるものであって、カーストだけを禁止しても、それによって差別がなくなるわけではないということがある。
もう一つは、カーストによる差別意識は、インドの主要宗教であるヒンドゥー教に根差すものであって、人々の意識が容易には改善されないからだそうである。ヒンドゥー教では穢れの観念を重要視するそうだ。なので、死に触れるもの、生活によって発生する排出物などに触れるものは、穢れに触れる存在として社会から忌避されてきた。本書では「不可触民」として取り上げられる清掃カースト(パールミーキ)を具体的に見ていき、さらにその中でも特に社会から蔑視されている屎尿処理を行う人々に焦点をあてている。

屎尿処理という社会に不可欠の役割を担った尊い職業であるにも関わらず、人々の蔑視の中で職場環境の改善もなされず、苦しみに満ちた生活を送る彼らの姿は、読んでいて心が締めつけられるようであった。

インドの独立運動の最中から、カーストをこれからどうしていくかということについて、二つの潮流があったという。
その源流となったのは、日本でも有名なガーンディー(ガンジー)と、日本ではあまり知られていないが、独立運動で重要な役割を果たした不可触民出身のアンベードカルである。
「ガーンディはヒンドゥー教徒の連帯を強調しヒンドゥー教の枠組みのなかで、不可触民への差別意識をなくそうとする改革を志向した。対して、不可触民出身のアンベードカルは、ヒンドゥー教徒とダリトは異なる集団であり、独自の政治的権利が与えられるべきだと主張した」(P241)
イギリスの統治政策もあり、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立によって、結果的にインドとパキスタンは分離独立することになってしまう。
ガーンディーは不可触民(ダリト)をヒンドゥー教と切り離してしまうと、そこに対立が生まれ、あらたな分断が生まれることを懸念し、ヒンドゥー教改革を行い、不可触民への差別をなくそうという論陣を張った。上記の社会情勢や、ガーンディーの命を懸けた主張もあり、不可触民はヒンドゥー教の中に位置づけられ、差別の撤廃を念頭に置いた政治改革、社会改革に舵がきられることになった
しかし、近年、インドでは、政治的利用を含めて、アンベードカルの思想が注目され、政治的重要度を増しているという。ちなみに、アンベードカル自身はヒンドゥー教の中に位置づけられる不可触民という枠組み自体に限界を感じ、仏教徒への改宗を行っており、アンベードカルの弟子の中にも仏教徒への改宗を行っているものが多いという。

さて。
本書の前半は、カーストの文献的検証であるが、後半は、著者のフィールドワークを通じた、今のインドでどのようにカーストが生きているのか、個人の具体例を元に記述されている。
カーストについての知識だけではなく、それが社会にどう根付いているのか、個人に影響を与えているのか、肌身で感じることができる。

そこに生きる人々は僕たちと同じような人間たちである。それが日本とはルールが違うインド社会では、どのような生き方を強いられることになるのか。
テレビなどでセンセーショナルに報じられる事件だけではない、彼ら、彼女らの生き様の中にある息遣いを感じるようでとても興味深く読むことができた。
例えば、インドでは客人をもてなすということが尊重される文化だそうである。
しかしカースト差別というのは、穢れによる蔑視、という側面があるため、上位カースト者は、下位カースト者が作ったものは絶対に食べないし、下位カースト者と同じテーブルで食事をとることを忌避する。
だから、かれらと同じ席で食事を共にするということは、日本で想像するよりもはるかに重要な行事なのだそうだ。
こういう現地におもむかなけばわからないような体験などから導き出される考察などは、自分が行ければ一番いいのだろうけれど、限られた時間の中で、読書から得られる重要な情報だと思う。

実は、本書を読んでいて、ほとんど最後の5ページくらいまで、著者は男性だと思っていた。
著者は、不可触民、特に、清掃カーストの屎尿処理者が生活している場所におもむき、インタビューを行っていることに対し、他の研究者から「においは大丈夫だった?」と心配されるような過酷な環境下を含む、精力的な現地調査を行っている。だから、すごく体力のある男性だと思っていたが、著者が「マヤマダム」と呼ばれていることや、著者自身の発言が女性言葉で女性だと気づき、少なからず驚いた。
もちろん、著者が男性でも女性でも、受け取る研究内容の印象は全く変わらないのだが、すごいなあと思うあたり、自分の中にも男性だからとか、女性だからとか、考えてしまう側面があるのかと思ってしまった。テーマがテーマだったので、無意識の中にひそむ差別に対する認識について敏感になったのであろう。

最後に1つだけトリビア的に面白かったものを引用して終わりたい。
ヒンドゥー教の浄・不浄観に基づいた食材の序列によると、豚はもっとも不浄性が高い食材に位置づけられるために忌避されるそうだ。一方、牛はもっとも浄性が高いゆえに、牛食はタブーとされる。
「豚と牛を『食べない』行為は同じだが、タブー視する根拠が対極的という点で興味深い」(P148)