世界文学登攀行

世界文学登攀行

世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。


「10 さまよう岩々」(P97-184)

この章は面白かったと思う。
面白かった、と断定できないのが自信のなさなのだが。

19の断章で構成されており、断章ごとに描かれる主要人物が変わる。
ある断章に、別の断章の主要人物がチラチラと登場するので、この章は、たくさんの断章によって、特定の時間を多くの人の視点で描いたものだということがわかる。
この章では、この物語の主人公格の人物も登場するのだが、特別なポジションを与えられておらず、他の人々と同列の存在である。

普通の小説と違うのは、「ユリシーズ」の登場人物は、読者が人物造形をするための情報を最初に与えられないことにあると思う。
そのことが不親切にも思うし、読みにくい部分につながっていると思うのだけど、でも、これってよく考えたら、逆に当たり前のことではないだろうか。
人間関係のスタートは、あるところでの出会いであり、第一印象である。その時に、この人は、どういう仕事をしていて、どういう性格で、家族構成はどうで、なんていうことはわからないことが普通だ。
だんだんと付き合っていくうちに、その人の情報が付加されていき、よく知ることになる。

「ユリシーズ」は実は時間が動いていない。
1巻から、1日も進んでいないのだ。
そういう止まった時間の断片の中に放り込まれるわけだから、上で書いたような、年月の重なりによる理解というものはない。だけど、いろんな側面から光が当たることで、登場人物の理解が進んでいく。
もしかしたら、何回もぐるぐると読むと、全巻読んだ後に得た情報を元に最初に戻ることで、この小説の本当の面白さがわかるのかもしれない。そういう小説のような気がしている。

この章はそういう性質をもった小説のダイジェスト版のような読み心地であった。
最後の断章でパレードのような騎馬行列があり、ここでそれまでの断章の人物たちが、観客として全員登場する。(調べたわけじゃないから、全員じゃないかもしれないけど、たくさん出てくる)
19の断章の人物を一人ひとりは覚えていられないけど、名前を見れば、この人覚えているぞ、とか、あのエピソードの人かなとか、恋人だと思っていたけど兄弟だったのか、確かにあの時にでてたもんなとか。
1回読んだだけでこの物語の個々の人間や、人間関係を把握するのは難しい。でもそれは、背景を持った一人ひとりの深さだったり、その人たちが織りなす人間関係の複雑さが、そのまま物語の中に凝縮しているからなのだろう。
本章を読み終わった時に、一つの大団円を迎えたような読みごたえがあった。

2巻は、山本伸一が創価学会の会長に就任した、1960年の出来事が綴られる。
伸一は、会長就任式となった総会で、140万に過ぎなかった学会世帯数を、4年後の戸田城聖の七回忌までに300万世帯まで拡大しようという大きな目標を掲げた。
それは「困難このうえない目標であった」(P8)という。

300万世帯達成という目標は、どこまでも友の救済にあるという根本目的があった。
伸一は常にその目的に立ち返り、また、そのことを会員たちに語っていった。
本書では「人間は、”意味に生きる動物”である。人は”なんのため”かが明らかにならなければ、本気になって力を注ぎ込むことはできない」(P22)と記す。

では、その幸福とは何を、あるいは、どういう状態を指すのか。
(前会長の戸田は)「たとえ、人生の試練や苦難はあっても、それさえも楽しみとし、生きていること自体が幸福であるという境涯を『絶対的幸福』としたのである。
 この悠々たる大境涯を確立するには、いかなる環境にも負けることのない、強い生命力が必要となる。その生命力は、自身の胸中に内在しているものであり、それを、いかにして引き出すかを説いたのが仏法である。
(中略)
 広宣流布とは、一人ひとりが幸福を実現することであり、そのための宗教革命であります」(P269)
さらに、「仏」とは架空の存在ではなく、妙法を弘め、人びとの幸福のために、一日一日、精進を重ねていく尊い同志こそ、尊極の「仏」であると断定し、無名の民衆が織り成す人生の凱歌の姿のなかにこそ、日蓮仏法の偉大なる法理の証明があり、創価学会の実像がある、としている。

目標に向かって真剣に戦う姿は、組織も人も美しいと思う。
その戦いは、それまでの経験をはるかに超えた新たな局面を迎えようとしており、最高幹部ですらも、現状をよしとする「日々革新」を忘れた惰性を打ち破らなければならなかった。

2巻も、偉大なる目標にむかって歩む伸一と会員たちの魂の交流というべきものに、大いなる触発を受けて、たくさんの付箋を貼った。覚えておきたいフレーズはここに書き抜きたいと思う。

1つ目。
仏法を根本とした生き方について。
「仏法の大哲理を自己の生き方の哲学とし、人生の骨格にしてこそ、崩れざる幸福を打ち立てることができる」(P28)

2つ目。
戦う姿勢について。
「この一瞬を、そして今日という一日を、最善を尽くして戦い、悔いなき人生の、1ページ1ページを開いていってください」(P37)
「何か困難にぶつかったならば、行き詰まりとの”闘争”だ、障魔との、”闘争”だ、今が勝負であると決めて、自己の宿命と戦い、勇敢に人生行路を開いていっていただきたいのであります」(P99)
「まず、勝負は3ヶ月だよ。男子部のリーダーとして法旗を手にした以上、全国一の戦いをしてみせるぞという、気概がなくてはならない」(P227)
「いざという時に力を出せなかったり、しくじってしまうのは、真剣ではないからだ。自分が全部やるのだと思ったら、ポイントを外すわけがないではないか」(P244)
「助走の勢いが跳躍の力を決定づけるように、(中略)活動の勝敗も、いかに周到に準備を進めたかによって、決まってしまうといってよい。ジャンプへと踏み切る”決戦の瞬間”には、既に勝負は、ほぼ決まっているものだ」(P323)

3つ目。
学ぶということについて。
「今、皆さんが成すべきことは、大情熱をたぎらせ、人の何倍も勉強し、信仰の実践に取り組むことです。鍛えを忘れた青春の果てには、砂上の楼閣の人生しかない。決して、焦ることなく、未来の大成のために、黙々と学びに学び、自らを磨き抜いていっていただきたい」(P47)
「学歴がないことは恥でもなんでもない。しかし、学ばないことは卑しい。勉強しないことは恥です。私も毎日、勉強している。1日に20分でも、30分でもよい。寸暇を惜しんで読書し、勉強することです。その持続が力になる。
 君も実力を蓄え、本当に力ある民衆のリーダーになっていくんだよ」(P232-233)

 

 

 

EY新日本有限責任監査法人
電力・ユーティリティセクター 編

お仕事本。
以前、電力・ガス業界の入門書のような本を読んだけれど、今回はより専門家用の本。

「会計シリーズ」とタイトルにもあるように、もちろん会計に関する本なのだが、本書のかなりの部分は、電気事業そのものに紙幅を割いている。
電気事業者は、電気事業会計規則が適用されることがあり、電気事業特有の会計処理が使用されるのだが、実は、会計に関する考え方は、一般的な会計の原則で理解可能な部分がほとんどである。
会計とは、企業の様々な活動を、会計というビジネス言語に翻訳することととらえるならば、電気事業を深く理解したことで、一般的な会計ルールの枠内で会計処理を理解することができ、大変有益な勉強になった。

何点か、覚えておきたいことを箇条書きに。

1つ目。
「電気は、生産と消費が同時に行われるという特徴を有している」(P76ー77)が、卸電力市場(JEPX)や、電力先物市場が整備されたことで、電気をあたかも通常の商製品のように考えることができるようになったと思う。
会計処理を考える際は、あまり身構える必要がないと思った。

2つ目。
電気事業の2つの特性は「公益事業であること」と「設備産業であること」(P75)

3つ目。
本書では、電子力発電に多くのページを取っている。
福島第一原発事故以来、原子力は発電効率はいいけど、なんなとなく怖いというイメージがあった。
記述を読んで、原子力発電そのものをとてもよく理解できた。
覚えておきたいことでもないし、今回勉強した目的とは少し離れた論点になるのだが、イメージではなく、事実を確認することの重要性を感じたので、最後に記しおきたい。

 

 

高校生が学ぶ「世界史探究」課程の本。
つまり、大学受験用の参考書である。

受験勉強のよいところは、短期間に、大量の情報を、効率的に摂取できるところである。
従ってこの本はさしずめ、世界の歴史の大ダイジェストとでも言うべきか。
文字に残すことができた人類の歴史が、すべてここに詰まっていると言っても過言ではないように思う。
受験参考書に対して感想も何もなさそうなものだけど、学ぶということ自体が刺激に満ちていて、とても楽しいものなのだということを改めて実感した。

この「世界史探究」の実況中継は、かつて「世界史B」という課程だった25年以上前にお世話になっていた本である。
著者は青木先生で同じ人だが、教科書の記述が変わっているようで、僕が知っている世界史の内容から大きく変わっているところもあるようである。
僕がかつて現役だったのは遠い昔のことであり厳密な比較はできないのだが、特に感じたのは、かつては世界史と一口にいっても、どちらかというと欧米の人から見た世界史、という趣きがあったように思える。それが、世界の各地、各国、各民族の歴史に配慮された、世界から見た世界史、つまりは「欧米の人から見た」という偏りのない世界史になりつつあるようだ。

例えば、ヨーロッパ人が七つの海に乗り出していった「大航海時代」と呼ばれた時代。
これは、あくまでヨーロッパからの視点にすぎないということで、世界史探究の教科書では「大航海時代」という呼称は章の表題からは消えてしまったそうだ。
本書でも「要するにね、豊かなアジアでは昔から交易をやっていたわけです。そこに、やっと16世紀になって、ずーっと貧しかったヨーロッパが、参入してきたのです。これが(中略)ヨーロッパが言うところの『大航海時代』の実態なのです」(P162)
新しいことを学び続けないと、知識が古びていくだけじゃなくて、考え方の枠組みすら、古びていくことが怖いなと思ったよ。

あといくつか本書に出てきたことで、印象に残ったものを。
ここで書くと、忘れないからね。

一つ目は、僕の大好きなモンゴル帝国のこと。
初代君主のチンギス=カンから始まったモンゴル帝国(支配した中国の国名は元)。
その広大な領域のモンゴル支配がもたらしたものがなんだったかというと、東西交易路をまったく安全なものに変えたということ。
これによって多くの人々の往来があり、物資の交易があり、商業が活発化したという。
その結果、都市がますます発展し、庶民が台頭し、庶民文化が栄えたという結果をもたらした。
僕は、古典文学の読破というものを志しているから、中国の古典文学「三国志演義」「西遊記」「水滸伝」の原型が元の時代にできたということは知っていた。
圧倒的な武力を持つモンゴル人支配の下で、なんでこういう文学作品の基礎ができたのか疑問に思っていたのだが、何のことはない、モンゴル人支配の果実として、都市が隆盛し、民衆文学が勃興したのだということを知った。
ちなみに余談だが、昔学んだ、モンゴル人がほかの民族を差別したとする「モンゴル人第一主義」という言葉は近年見直しがなされているのだそうだ。モンゴル人は支配者として君臨はしたが、他の民族の宗教の弾圧などしなかったし、人材登用の面でも、言語・民族・宗教・出自などにかかわらない実力本位で登用したのだそう。「支配層に加わったものはすべて”モンゴル”と総称された」と記される教科書もあるとのことである。

二つ目は「経済」のこと。
そもそも「経済」って何?
講義の説明では「これは人間が生きるために必要なもの(生活物資)を手に入れるために行うところの、”つくる→運ぶ(分配する)→消費する”という一連の過程」(P38)を言うのだそう。
複雑な現代経済社会の中に生きる僕たち現代人にとって、かえって本質を見失ってしまいそうだが、こういう単純化した理解も重要なことなのだろうと思う。
切り口さえもっていれば、身の回りのいろんな複雑な事象がすっきりと見えてくるのではないかと思った。

ともあれ、2巻までで、17~18世紀くらいまでやってきた。全4巻の半分。
ここから現代につながる歴史の展開が楽しみでしかたがない。

 

 

 

4月から東京で生活しています。
妻を置いて出てきたので、週末は自宅に帰る渡り鳥のように生活する予定です。

そんな事情なので引っ越しもゆるゆるとしていたのですが、さすがにベッドしかない部屋では何もする気がおきないので、必要なものは自宅から送ることにしました。

一番悩んだのは本棚。
いろいろ考えた結果、2つある本棚のうち、1つは東京に持って行くことにしました。
小説などは自宅に置いて、必要な分だけ毎週ポケットに入れて持って行く。
仕事の本は東京に持って行って、仕事中に参照できるようにする。

たったそれだけのことですが、自宅は生活を楽しむところ、東京は仕事をしにいくところ。
そんな風に気持ちにメリハリがついたので、本棚を1つ東京に持っていくことにしたのは、ナイスな決断だったと思います。
本棚1つ埋めるには仕事の本が少なすぎるけど、だからこそいっぱい本を読む意欲がわきました。

先週はいろんな関係のひとたちから歓迎会が開催されて、勉強するぞという意欲とは裏腹に、夜は楽しく飲んでましたが、そういう時期もあってもいいのかもしれないけど、なんのために妻に不自由な想いまでさせて東京に出てきたのかと、問い続け、行動する自分でありたいと思います。
今日は、東京から自宅に戻ってきました。しっかり充電して、来週からまた頑張ります。