世界文学登攀行

世界文学登攀行

世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。


筋肉はすごい
――健康長寿を支えるマイオカイン

ここ数年クライミングをたしなみ、最近は減量にも励んでいる。
中公新書から出た、まじめな筋肉の本は、僕にとってぜひとも読みたい一冊であった。

本書の意図は「筋肉と健康の関係を解き明かしていくとともに、よりよい食事や、効率的な運動についても紹介し、皆さんの健康増進につなげたい」(「まえがき」Pⅳ)とある。

DNAなど最新の知見をもとにした説明によって、それまでの自分が持っていた筋肉の知識が取捨選別され、補強され、新しい知識が追加された。
内容は専門的であり、横断的に複数の学問分野にわたるが、もともと関心のある分野でもあり、無理なく読み進めることができた。

今回の読書で一番勉強になったのは、運動の効果である。
運動によって筋繊維が収縮することが刺激となって、筋肉は「マイオカイン」という物質を分泌する。
マイオカインは筋肉から分泌されるホルモンと考えられるそうだ。
ホルモンと仲間であるということは、筋肉が自分自身のことだけでなく、近くの細胞、さらには全身の細胞に働きかけて役立つことを意味する。

筋肉から分泌されるマイオカインは、これまでに50種類余りの物質として報告されているが、これはほんの一部で、その種類は600種以上にものぼるともいわれている。
現在、世界中の研究者が新しいマイオカインを発見しようと研究している。

その発見されたマイオカインは、体に様々な影響を与えている。
例えば、脂肪組織に作用して脂肪を分解したり、筋肉に作用して血糖の取り込みや脂肪の燃焼を高めたりといった代謝を活性化するなどの、健康によい効果をあげることができる。
それ以外にも、がん予防に貢献できるなど、今まで意識したことのない効果もある。

僕が一番驚いたのは、マイオカインの効果で頭もよくなることだ。
「アメリカの研究では、持久性運動を1年間続けると海馬の大きさが2%増加することが報告」(P105)されていることが紹介されている。
日本の研究でも、運動習慣にアルツハイマー型認知症の発症リスクが約38~45%低減したということも示されており「この運動による効果は、食事による効果よりもエビデンスレベルが高い」(P105)とされる。
頭がよくなるとしって、今まで以上に体を動かしたいと思った。

僕が減量を心がけるにあたり、いろいろ調べたダイエットに関する言動は本当に玉石混交である。
それについても、ちゃんと書いてある。
「体脂肪量はエネルギーの摂取量と消費量のバランスによって決まります」(P95)
要はこれだけのことなのだ。この一文に出会えただけでも意義は大きかった。

運動によってエネルギー消費量は大して増えない。
それでも、ダイエットする時は運動した方がいいと言われている。
それはなぜなのか。感覚では理解できても、理屈ではうまく結び付かなかった。
運動すると、筋肉からマイオカインが分泌されることで、様々な効果が生まれることを知った。
ダイエットという特殊な状況に関係なく、運動をすることが大切だということを本書を読んで理解することができた。

 

 

 

中公新書の「読む技法」を読んでいる。
その本の中で出された課題があり、芥川龍之介「藪の中」を読んだ。

「藪の中」は1922年発表の芥川30歳の作品である。
青空文庫に掲載された作品は、10分程度で読み終わった掌編である。

「真相が最後まで究明できない事態を指して『藪の中』という表現がしばしば使われるが、これは実のところ芥川のこの作品のタイトルから生まれた慣用句である」(「読む技法」P156)というくらい有名な作品である。
そして同時に、芥川の作品の中でも随一の「問題」作とされる。

ある男が殺される。
そこに3人の容疑者が登場する。
そしてそれぞれの容疑者が、自分こそが真犯人であると告白をする。
発言が食い違ったまま、作品は幕を閉じ、結局はだれが真犯人なのかわからない。
まさに事件は「藪の中」である。

僕はこの本は再読である。
で、結局、この物語はなんなんだと思っていた。
事件の真相を追求するようで追求しない。真犯人も最後までわからない。
芥川も、考えがまとまらないまま物語を投げ出して発表してしまったのではないか?
それを大作家が書いたものだからと言って周りの人たちが勝手に作品を持ち上げているのではないか?
正直、この作品は評価にすら値しない、そう僕は切り捨てていた。

「藪の中」を読んだあと「読む技法」を読んでみる。
途中のいろいろな話しはここでは書かないが「この作品はミステリではなく、リアリズムに基づく小説だと言える」(「読む技法」P164)と結論づけられていた。

ミステリ好きの僕は、ミステリのルールとして、最後はすっきりと種明かしがなされなければいけない、という思い込みがあった。
そもそも「藪の中」は、事件が起こって、容疑者が出てくるけれども、ミステリではない、という指摘にはハッとさせられるものがあった。
それならば「藪の中」の読み方は全然ちがったものになるし、ミステリだと思って読書をしていた僕の視点はまるで的外れであった、ということになる。

「藪の中」を人間のリアリズムという観点で読み直したとき、確かに容疑者たちは、目の前の事実に対して、それぞれの罪の意識によってゆがんだ形での告白をしているということが読み取れる。
まさに人間のリアリティをあぶりだそうとする作品であることを知った。

自分の小説の読み方には、独りよがりな部分があることを知る。
この本はこういう読み方をしなければいけない、という固定観念によって、小説が本来持つ豊かな世界にたどりつけないのかもしれない。
著者には小説を通じて訴えたいことがあるはずだ。
それを汲み取るような一段深い読みをしていきたいものだと思った。

3月の読書の振り返り

読書時間:56時間
読書ページ:2307ページ
読書感想文:5時間(6記事)

3月は2時間読むことにこだわって、読書に挑戦した。
朝は専門書と師匠の本で仕事に向かうエンジンをかける。
夜はお楽しみ読書の時間。小説を読み、新書を読み、ビジネス書を読む。

平均2時間ペースは3月の後半まで維持できていたんだけど、最後崩れてしまった。
後半は読むだけじゃなくて、書くことも加わったので、読むと書くの総時間は維持ができた半面、少し読むの時間が減ってしまいました、というのが反省点。
さぼったわけではなくて書くことができたのはよかったが、読む時間は確保したい。

ただ、今月は、今の自分ができるめいっぱいの読書ができたという充実感がある。
読書は疲れる。1日の読書時間が2時間で限界だ、という気持ちはある。
でも、書物の海の中には、自分が知らない世界も、知識もたくさんあることを、読めば読むほど知ってしまう。

残りの限られた人生、自分のリソースをどこに割くのかという選択の問題である。
読書以外にも楽しいことはたくさんあるし、有意義なこともたくさんあるのだとは思う。
でも、読書による喜びは、新しい知識であったり、先人の知恵であったり、自分が生きてきた経験という土台の上で、今まで以上に意義のあるものになる予感がある。
少しずつでもいいから、限界だと思っている2時間を越えて読書を継続していくのが、僕の目標だ。

高校生が学ぶ大学受験用の参考書を読んでいる。
全4巻の第3巻。

範囲は江戸時代の中期から、20世紀初頭まで。

戦争のない、太平の時代。江戸時代の歴史なんて面白くもなんともないものだと思っていた。
今回改めて読んでみたが、びっくりするくらい面白い。
映画「国宝」で重要な役割を果たした「曽根崎心中」などの文化史。
飢饉を契機として改革が行われる政治史。
貨幣経済の発展により、社会の動揺が起こる経済史。
様々な切り口から読み取れる通史が詰まっている。

世界史に比べて、日本というローカルな一地域の歴史を学ぶことにどれほど意義があるのか、そう思っていた時期もあった。
しかし、地域を絞っているからこそ、様々な変化に反応する社会の臨場感も感じられるし、そこに生きる人々の生活というものが実感を伴って理解できる。
しかも、日本の歴史は、今の生活につながる歴史である。興味深く、読みごたえがある。

時代劇のちょんまげ姿でイメージされる、未開の時代ではまったくない。
責任を持った人々が政治に参画し、高度に組織化された、日本人の姿をそこに見ることができた。

ペリーの浦賀来航などの世界の変化に反応し、長州藩、薩摩藩などの台頭を契機に尊王討幕運動が起こる。
明治維新と呼ばれる時代の変革期から、明治時代の黎明期にいたる、この辺りの政治史は読みごたえがあった。

「公儀政体論」と呼ばれる、徳川慶喜らを中心とした大名会議による政治形態を否定し、いわばそれまで中央政治とは無縁の人びとによって、明治政府は誕生することになる。
彼らによって、世界の新しい技術を積極的に学び、取り入れることで、世界の国々に伍していく、新しい、強い日本が作られていった。
日清戦争、日露戦争、韓国併合などに代表されるような、これまでとは違うアジアとの関係も生まれた。

また、大日本帝国憲法に定められた、統帥権(11条)、編成権(12条)などは、太平洋戦争にいたる道で問題となる条文であり、予告編を読むようであった。

いよいよ、次巻は最終4巻。
あの、太平洋戦争、そして現代へとつながっていく。

一つだけ小話。

明治憲法は、戸主およびあと継ぎ(一般的に長男)の権限が強く、妻の権利はきわめて弱かった。
明治民法801条「夫は妻の財産を管理す」という条文があることを妻に教えてあげたら、嫌な時代やなと言われた。
これなんかは、国の制度が個人の生活に直結することを実感できる例だろう。

学ぶことは、切り口を持つことである。
現代という渦中に生きる僕らにとって、歴史観は自分を映す鏡であり、社会を見通す羅針盤となるに違いない。

 

 

 

体育会系
――日本のスポーツ教育が創った特異な世界

本書は、運動能力を買われて大学に入学した運動部員たち、すなわち「体育会系」にスポットを当てた本である。

日本では、明治維新直後の1870年代から、基礎的な体操、さらにイギリスやアメリカを中心とした近代スポーツが受容され、その後の日本の体育やスポーツの性格を形づくり、発展していくことになる。
その際、スポーツは単なる運動としてではなく、アスレティシズムを背景に人間形成上の意義など、さまざまな教育的価値とともに伝えられた。
このような関係から、日本における近代スポーツは高等教育機関である大学において発展することになる。

この「体育会系」という呼称が台頭したのは、1960年代末という大学闘争が盛んな時期のことである。
運動部員たちが大学闘争における重要なアクターだったからだ。
結局、大学闘争を通して運動部員に対するイメージ形成が進み、一般学生とは違う特別な存在としての「体育会系」すなわち運動部員の社会的位置づけが明確になった。

上記のような「体育会系」の歴史から、閉鎖的な「ムラ」社会文化が醸成される素地について学ぶことができた。
スポーツを通じて、仲間たちや先輩後輩と結ばれる絆は特別なものであることを、運動部員への詳細なアンケートを通じて知ることができた。
逆に、狭い社会で規律が乱れると問題が広がりやすく、数多くの不祥事が運動部で続発してしまった、という現実も明らかにされていた。

運動部員は「入試優遇制度」ではないかとの批判を受けるなど、紆余曲折を経て、スポーツ推薦入試などの名目で、正式な入学経路として認められるようになった。
それは、本来、総合的かつ多面的な能力の評価の一つとして「スポーツに秀でる」ことが価値づけられて始まった入試制度だったはずである。しかし、大学が知名度向上を図ろうとして、運動部の強化に結びつけるための制度となっている、と著者は指摘する。
このような目的で入学した運動部員は、競技選手としての自覚しかなく、大学で学ぶという意識に乏しい人もいる。
それは大学を卒業し、社会へと巣立つ時に顕れる。
著者は主張する。
「体育会系学生の就職をめぐる実態は、体育会系文化が大学教育を通してどのように社会へと接続されるのか(中略)『体育会系として何を学び、いかに社会で活かすか』という教育的問いへと転換していく必要がある」(P196)

僕は、毎年、箱根駅伝を見るのだが、プロになれるのは一部の人であり、他の人たちはどのような人生設計を描くのだろうかと心配になることがあった。
しかし、本書を読んで「体育会系」出身の彼ら一人一人が、大学生活が終わってからの長い人生をいかに生きるのかについて、不安に思っていることを知った。それは、僕らが学生だった頃、同じように感じていた悩みであり、彼らと同じ目線で切実に感じることができた。
当たり前の受験を経てきた自分にとっては、知らない世界に生きていた彼らを、身近に感じられる読書であった。