世界文学登攀行

名著といわれる古今東西の世界文学を登攀していきます。
文学とともに歩む成長の記録。になるはず。


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P310-420


「ロビンソン・クルーソー」を読んでいると、これは何かを皮肉ったりしているんだなという表現に出会う。
当時のヨーロッパ事情を詳しく知っているわけではないから微妙なニュアンスについてはよくわからないのだが。


僕の好きな作家が、すぐれた諷刺は、鋭い人間洞察を含み、元々その対象となったものが何かわからなくなっても、読む人に訴えかけるものがある、ということを言っていたが、まさしくその通りだと思う。
当時の状況がわからなければ、今の自分の身の回りに感ずることに当てはめればよい。
あまりにも、今の僕らのために書かれたかのような印象すら受ける。


その話しと、関連するような、関連しないような話しであるが。
ロビンソン・クルーソーは、もともと信心深かったわけではない。
神を鼻で笑い、己の腕一本で何事も切り抜けてきた優秀な人間である。
少なくともそういう設定である。


その彼が、絶海の孤島に漂着して、すべての希望を剥ぎ取られた中で、生きる目的を見失い、神を求めた。
私と神、その透徹した求道心の中で、ロビンソン・クルーソーは様々なことを思う。
「世のなかには宗教に関して多くの論争や争闘や抗論が今までにおこったが、それが教義上の微妙な点についてにせよ、教会政治の機構についてにせよ、それらはすべてわれわれには無用のものであった。(中略)われわれには天国へゆくたしかな導きがあった。すなわち、神の御言葉があった」(P387)


キリスト誕生からすでに1700年。
当初は素朴であった信仰の形も、社会が大規模化、複雑化するに従って、発展とも変質ともとれる、変化に変化を遂げてきたのだろう。
本来は信仰を、強め、高め、培うための教会組織、教義。
人の思惑が絡み合った信仰の形というものは、時として信仰というものが持つ本来の輝きを鈍くしてしまったのかもしれない。
ここに答えがあるわけではないけれど、普段見ないようにしているものを、ぐわんぐわんと揺さぶられるような気がする。この感情の揺さぶりも、読書の効用の一つであろう。

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P201-310


個人的には「ロビンソン・クルーソー」は、リアルなドキュメンタリーではなくて、極めて寓意的な物語であるように思う。
なので、いちいち登場人物に感情移入する必要もないのだが、語りが非常にうまいので、絶海の孤島に長い間ひとりぼっちで生活している主人公のことを思うと、つい考え込んでしまい、ページがめくれなかった。
読みやすいし、面白いのに、読めない。
こんなこともあるんだなあと思う。


孤独の中で主人公は、自分を相手に対話をする。
神を相手に対話をする(もちろん相手からの返事はないけれど)
社会から切り離されるという、人間の弱さが露呈する極限状態の設定の中で、信仰によって、神を信じることによって、何がもたらされるのか。そもそも意味のある行為なのか。読んでいて鋭い刃物を喉元に突きつけられるような、苦しさもある。
主人公は、神を恨み、神を呪いながらも、日々の生活の中で様々なことを見出し、感謝をするようになる。そして、神の摂理を信じる。聖書をひもときながら、時には雷鳴のような啓示を受ける。
日々が神との対話である。
ロビンソン・クルーソーの宗教観は、彼が直面する現実の絶望と希望の間を揺れ動く中で、一つの膨らみを持ちはじめている。


ちょっと話しは変わるけれど、一つ面白いなと思ったエピソード。
ロビンソン・クルーソーは、スペインがアメリカ大陸から原住民を虐殺し、追い出したことについて以下のように述べている。
「人間のなす業とも思えない血なまぐさい残虐行為であるとして、極度の嫌悪の情をもって語られている。この行為あるために、スペイン人といえば、人間の、またキリスト教の愛のなにものたるかをわきまえたすべての人々にとってはただちに恐るべき残虐な人間を意味するにいたったのである」(P301)
ヨーロッパの人々が、アメリカ大陸から原住民を追い払ったことは、彼らにとっては正しいできごとと信じきっているとばかり思っていた。
もちろん「ロビンソン・クルーソー」はイギリス人の作品だから、ヨーロッパの中でもいろんな感情があるとは思うけれど。
こういう一文を読むと、ここには生きた歴史があるんだなあと思わざるをえない。古典文学をひもとく喜びの一つである。

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P101-200


刺激的な冒険譚であり、飽きもせずに楽しく読んでいる。


ただ、これは、単なる冒険譚なのだろうか、という気がする。
絶海の孤島で独りたたずむ主人公の心象風景は、どことなく社会の中で孤立している現代人の心象風景とリンクしている。
そして主題は、近代的で合理的な思考を持った主人公が、神を克服する話し、そう言って悪ければ、伝統的な宗教観を、現代的な感覚で捉え直そうとする試み、のように思えてくる。


ロビンソン・クルーソーは、ある日、こんなところに生えているはずのない、イギリス種の大麦の茎が数本生えているのを発見する。
これは、神というものが存在し、奇跡が起きたのに違いないと、ひどく感激する。
しかし、よく考えてみれば、前に船から持ってきた家畜用のエサを何気なく捨てたものが種となり、茎が生えたのだと気づく。
奇跡などではないことがわかり、急に白けた気分になる。


しかし、その後も主人公は独り思索を重ね、自分がここで生き残ったことが神の恩寵ではないのだろうかと思ったり、仕事に忙しい間はそれに没頭して神の摂理とか死後の裁きなどが、縁遠いものになっていったりと、生活の中の信仰、信仰の中の生活がリアルに絡み合っていく。


そもそもの宗教の出発の理念はともかく、生活の中に入っていく際に、なにか理由がわからないものに、神を当てはめるということが行われたということは容易に想像できる。神頼み、という言葉は今はあまりピンとは来ないけれど、自分の力が及ばない何かの成就を願う際に、祈るような思いを抱く、というのは人間として当然の感情ではないだろうか。
かつての人間たちの営みによって培われてきた自然な信仰観が、科学が発達して、見えないものも見えるようになった時に、不合理なものとなっていったのではないだろうか。
もはやこの時代、自然な信仰観などはとうの昔になくなっていて、残っているのは神の行事の運営を行う聖職者と、教義による無残な束縛感だった、というのは考えうるところである。


ロビンソン・クルーソーは、前回も少し触れたように、安定した生活を得られる境遇にあって、それを捨てて顧みない人間である。
そこには、伝統的な価値感を打ち破る、進取の気性に富んだ、当時の人々のある種のモデルケースなのかもしれない。


「自分があきるほど今まで見てきたこの大地と海、いったいこれはなんなのであろうか。どういうふうにつくられたのであろうか。いったい自分はなんなのであろうか。(中略)生きとし生けるものはみななんなのであろうか。またどこからきたのであろうか」(P166)
限りなく絶望的な事態に直面した時に、思想は深化する。
この大いなる問いかけこそ、真の信仰の出発点があるのだと思う。

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P1-100


読み始めた感想を言うと、これ、めちゃくちゃ読みやすい。
しかも、内容にひきつけられて、没頭してしまう。


「ロビンソン・クルーソー」と言えば、子どもでも読める本という印象がある。
確かに先日読んだ「ドン・キホーテ」と違って、子ども用に編集せずにこのまま図書館の児童コーナーに置いても大丈夫のような気がする。
では、内容も子供向けなのかと言われると、そうとも言えるし、そうでないとも言えそうである。


主人公のロビンソン・クルーソーはイギリスの中流家庭の三男として産まれる。
長男は戦争で戦死し、次男はどうなったのかわからないらしい。
しかし、この三男坊、それなりに収入もある安定した生活を捨ててでも、危険と背中合わせの船乗りになりたい。
父親の涙ながらの説得にも関わらず、彼はついに家を出る。


もう、この時点で、僕ら大人世代の大半は、若気の至りで愚かな選択をしてしまう主人公を、冷ややかな目で見ると思う。
そこには教訓めいた意見もあるかもしれない。
経済的な合理性の観点からひとこと言いたくなるかもしれない。


しかし、ロビンソン・クルーソーがはじめて船に乗った時に見た、どこまでも青い空、見渡す限り続く海。
こういう景色を彼の目を通して思い描いた時に、若いときはそういうものだよね、わからんじゃないなと思わされてしまう。
学校をサボって、寝転がって空を見上げた時の解放感。自分だけがこの世の自由を謳歌しているような高揚。
理屈では説明できない、あの形容しがたい気持ちをふと思い出した。


とはいえ、この主人公氏、船が嵐に合えば、お父さんの言うことを聞かなかったからこんなことになったんだ。神様ごめんなさい。この嵐を生きて帰れたら、家にも帰ります。とあらん限りの誓いを神に立てる。
しかし、嵐が収まれば誓いのことなどどこ吹く風で、ああ、船乗り楽しいなあ、なんて、船でのうのうとしている。
すると、また嵐がやってくる。ああ、今度こそ、神様!家に帰ると誓います!でも、前もそんな誓いを立てたのに破っちゃったからなあ。もう誓ってもだめかなあ。
なんて極限の状態で真剣に悩んでるのを見ると、僕も信仰を持っているので、気持ちがわかることに苦笑いをしてしまう。


こんな風に書くと我らが主人公ロビンソン・クルーソーは、ちょっと思考力の足りない子(と言っても17歳くらいからはじまるのだけど)なのかなと思ってしまうが、いろんな境遇にもまれながら、なんだかんだと機転を利かせて乗り越えて行く姿には、ある種の爽快感があり、親の言うことを聞いて大人しくしているには、力がありすぎたのかな、と考えてしまう。


と、まあ、全体からすればまだまだ序盤だけれども、とても楽しく読んでいる。
読みずらいもの、それが世界古典文学。と思っていた時期もあったけれど、読みやすいに越したことはないからね。
子どもでも読めるということが、大人には物足りないもの、と、イコールで結ぶことはできないようだ。


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「ロビンソン・クルーソー」 


作者:ダニエル・デフォー
場所:イギリス
時期:1719年(デフォー59歳)


刊行当時のタイトルは「ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険」だったそうである。
そのことに触れるまでもなく、この作品は非常に有名であるから読んだことがなくても、ぼんやりとどういう話しかは知られていると思う。
僕も、今まで読んだことはなかったが、なんとなくは知っている。


著者や作品の知識で重要そうなものを書き抜いてみる。


著者のデフォーという人について。
1660年ロンドンで産まれる。
父親は獣脂ろうそく製造に従事しており、非国教会派であった。
時代は清教徒革命の挫折と王政復古の時代である。
1665年にはペストの大流行、翌年には大火があった。
デフォー自身は、様々な商業活動を行い、時には巨富を築き、時には破産することもあったなど、浮き沈みの激しい人生を送る。
その後、著作活動に入る。今でこそ「ロビンソン・クルーソー」の著者として有名だが、当時はジャーナリストとして名を馳せていた。
痛烈な皮肉などの主張の激しさから、時の権力者にも目をつけられたらしい。
その後「ロビンソン・クルーソー」を出版し大成功を収め、次々と作品を出版していった。
1930年70歳の時に突如失踪。翌年ロンドンで亡くなったそうである。


「ロビンソン・クルーソー」について。
先述した通り、1719年「ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険」(第1部)が刊行された。
この小説が好評だったため、さっそく続編「ロビンソン・クルーソーのさらなる冒険」(第2部)が刊行された。
僕が読む岩波文庫版平井正穂訳のものは、上下巻となっているが、上が第1部と対応し、下が第2部と対応するようだ。
今日では、ほとんど研究者などにしか読まれないらしい「真面目な省察」(第3部)が1720年に刊行されている。


予備知識はこのくらいでいいだろう。
さっそく、ロビンソン・クルーソーと共に、大海原へと出航したいと思う。

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