青野利彦「冷戦史」下 | 世界文学登攀行

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世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。

冷戦史(下)
――ベトナム戦争からソ連崩壊まで

「冷戦とは何だったのか」(P205)という問いに対して「端的にいえば、冷戦とは1940年代後半から90年代の初めまで存在した国際システムだったといえるだろう」(P206)と本書は結ばれる。
通読してきた感想とぴったり一致する。

冷戦時代は、核の時代でもあった。
核を配備することは、人間を集め、軍隊を編成するよりも、はるかにコストが安いそうだ。
しかし、核の破壊力、核戦争後の人類の未来を考えれば、使ってはならない兵器でもあった。
冷戦期に構想された核による戦争抑止とは、使ってはならない兵器を使うことを前提とした攻撃・防衛体制であったわけで、大きな危険をはらんでいたといえるだろう。
例えば、アメリカがソ連の核攻撃能力の破壊を目的として1960年12月に策定したある作戦計画は以下のようであった。
「それは、ソ連、中国、東欧の1000以上の攻撃目標に対して、約3300発の戦略核兵器のすべてを一斉発射するというものであった。この計画が実施されれば、2億8500万人のソ連人と中国人が殺され、4000万人が重傷を負うとされていた。なお、このなかには東欧諸国の犠牲者や、他の地域における放射性降下物の被害者は含まれていない」(P6ー7)とあり、人類の破滅が、ありえない未来ではなかったことに慄然とする。

人々の平和への願いにも関わらず、東西両陣営は、世界を舞台に対立を続けた。
この冷戦に変化をもたらし、終結に導いたものは、グローバルに発展した経済面の影響が大きいようである。
どの国も自国民を食べさせていかなければならない、生活水準をあげなければならないという、経済的な命題を負っている。
イデオロギーや、軍事的対立、様々な政治的な手段という目に見えるものの奥底には、この経済面の要求があることを見逃してはならないのだろう。

また、冷戦の終結に際し「ゴルバチョフのソ連がヨーロッパ秩序に統合されなかったことは、その後の西側とソ連・ロシアの関係にも大きな影響を与えた」(P222)そうだ。
昨今のロシア・ウクライナ情勢に通じていくものもあるだろう。
「冷戦の終わりとは(中略)現在の世界政治の出発点でもあった」(P219)という。
冷戦史を理解することは、現代政治を理解することの助けともなるはずだ。

最後に。
世界というものはあまりに複雑で膨大な機構であり、だれが何をしたかなどというものは、世界の潮流というものに飲み込まれてしまって、なるようにしかならないのが世界の歴史のように感じてしまう。
しかし、本書を読んでいると、歴史は、勝手に流れて形成されるものではなく、誰かが何かをした堆積が歴史に他ならないということを実感する。
歴史の「もし」を考えることについて、著者は言う。
「こうした思考実験は単なる『歴史の後知恵』に過ぎないのかもしれない。だが、歴史のある時点で後の歴史の流れを変えるような道があったことを知り、それがなぜとられなかったのかを考えることは、現在の世界を理解し、未来を変えることにつながる。ここに、その終結から三十余年を経ても冷戦史を学び、知ることの意味があるのだろう」(P223ー224)

本書はなぜ歴史を学ぶのか、ということの実感も含めて、有意義な読書だった。
知識欲が満ち足りる思いがあった。