『人間はどういう動物か』(日髙 敏隆) | タブンダブン

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流浪のライター、かげぎすのブログ。書評、映画感想、洋楽の和訳などいろいろとやっています。

ブログマラソン1日目。

 

『人間はどういう動物か』(日髙 敏隆 / ちくま学芸文庫 /2013)を読みました。

 

 

 

 

 

……というのは半分ウソで、じつはぜんぶ読み終わっていません(笑)なのですが、第一章はきちんと読んだし、この部分だけでもじゅうぶんに面白かったので、つらつらと書いていこうと思います。

 

 

1.日髙 敏隆さんについて

著者(1930-2009)は動物学者であり、日本にはじめて【動物行動学】を紹介した第一人者です。【動物行動学】といえば、ピンときた方もいるのではないでしょうか。

 

よく知られた研究としては、コンラート・ローレンツの【刷り込み実験】がありますね。雁(がん)のヒナが卵からかえったときはじめて目に映ったのがローレンツ博士であったため、その後もヒナがヨチヨチと博士を追ってしまった――というアレです。

 

そして日髙さんはまさに、ローレンツらの先駆的研究をいちはやく日本に“輸入”して日本の研究を盛り上げた偉大な人物なのです。

 

wikiで調べてみると、日髙さんはなかなか苦労されていたことがわかります。昆虫学者になりたいという夢に両親が理解を示してくれなかったり、古式ゆかしいスパルタ教育の小学校になじめず、その歳にしてなんと自殺まで考えてしまったとか((+_+))汗 

 

よほど追い詰められていたのでしょう……しかしけっきょくその後は両親の理解を得ることとなり、無事に研究者を志す道が開けたようです。

 

面白いですね、さらに記事を読みすすめていくと、おどろくべきことがわかります。なんと日髙さん、あの“ムツゴロウ”で有名な畑正憲さん(麻雀もかなり強いですよね!)が大学の後輩だったのです!研究者時代にじっさい交流もあったのだとか。

 

そんな日髙さんは、多数の著作を世に出しています。僕自身も、今回ブログで紹介する『人間はどういう動物か』以外に、『動物と人間の世界認識』(筑摩書房)を読んだことがあります。

 

僕が「ああ、いい本にめぐりあえたなあ!」と思うときは、その著者からなんらかの哲学的信念を見いだせたときです。そして日髙さんの著作にはまさに、動物研究人生を通じて熟成された“日髙哲学”が練りこまれていると思うのです。

 

【動物】という知的対象物から【人間とはなにか】という哲学的問いへと向かってゆく……大げさな言い方かもしれませんが、日髙さんの知の在り方は、あのダーウィンのそれとまったく同じのように思えます。

 

残念ながらすでに亡くなられていますが、日髙さんの本が僕は大好きです。

 

前置きが長くなりましたが(今後もこのスタイルでいこうかちょっと迷っています)、そんな日髙さんの『人間はどういう動物か』、読んだ感想などを書いていこうと思います!

 

2.感想

 

第一章       人間はどういう動物か

 

 (その1)人間と動物

自分たちに【人間らしさ】を見出そうとするとき、僕たちはどうするでしょうか? どうやってその要素を求めるでしょうか? 

 

そう問われれば、おそらくこう答えるでしょう、「ほかの動物とくらべる」。そう、【比較】です。そうやって僕たちは、ほかの動物には無い部分を自分たちのなかに見出そうとするわけです。というより、そうするしか方法がありませんよね。

 

なにしろ僕たちは、根本的に言えば【動物】なわけで、そのカテゴリを超えた部分、つまり【人間(らしさ)】をみるには、けっきょくほかの動物を参考にするしかないのですから。

 

たとえば身近にいるワンちゃんネコちゃんなどは、地面に落ちているものを平気で拾い食いしますよね。ペットとして飼っていても、エサ入れは地面に置きます。けっして食卓の上では食べさせません。

 

けれど僕たちは、イヌやネコにそうさせておきながら、自分たちは「そんなみっともないことできるか!」と考えるし、またそのように行為して生きています。いやそれこそ、まさにこう言いさえするのではないでしょうか。「イヌやネコじゃないんだから」、と。わざわざ食事をお皿に盛ったり、手でなくお箸やフォークを使ったりする(宗教によってはもちろん異なりますが)のは、たしかに【人間らしさ】の表象した行為と言えるでしょう。

 

きっと、【人間らしさ】の例をあげたらキリがないでしょう。とにかく人間っぽい部分は探せばたくさんあるということです|д゚)

 

ちなみに僕は、もうすこしメタな部分から【人間らしさ】をみました。というのは簡単な話です。「人間らしさについてあれこれ考えることじたいが、すでに人間らしい」

 

はっはっは、どうですか? なんとな~く深い感じがするでしょう。とはいえ、もしかしたら、ワンちゃんネコちゃんだって、じつは高度な思考が存在していて、僕たちと同じように、【イヌらしさ】や【ネコらしさ】を考えていたりするのかもしれませんね(*_*; 

 

「ぼくたちだって、おんなじこと考えているんだニャーン(ワーン)」って。けれども、かれらとお話ができないので、知りようがありません。真実はついぞわからないでしょう。

 

ところで、なぜ僕たちは【人間らしさ】を求めるのでしょう? そんなことを知って、なにがどうだっていうのでしょう? このへんを突き詰めようとすると、ちょっとわからなくなります。「知りたいから知るのだ」では、さすがに答えになっていないように思いますしね。

 

けれども、この衝動の根源を問うことは、きっと重要なのです。まさに【人間らしさ】に肉薄する問いなのではないでしょうか。

 

ひとまずは、【人間らしさを求める衝動】を、【どのような考えのもと人間らしさを求めるのか】という言い方に変えてみましょう。

 

たとえば著者が対談したとある先生は、【人間らしさ】を【崇高なもの】として考えていたようです。その先生は、ナチスの収容所の実話を例にあげて、自分の食べ物を病人に分け与える子供がいかに人間らしく気高いのかを主張します。彼はこう言いました。

 

「それはもうほんとうに人間らしい行為です。人間には動物的なものの上に、そういう人間らしさというものがあるでしょう」

 

【動物的なものの上に人間らしさがある】。これ、どのように【人間らしさ】を考えているかを見事に教えてくれる、とてもわかりやすい表現ですね。このように考えている方は、たぶん多いはずです。そういう僕自身も、この考えから逃れられていないような気がします。

 

さて、この先生の対談相手である著者は、かなり冷めた視点に立って、いじわるくこう言うのでした。

 

「ネコはイヌと比べて、やはりネコだなと思うネコらしさがあるでしょう。ネコが丸くなって眠っているところを見るとネコらしいなと思うし、……あのネコのネコらしさというものは、ネコの動物的なものの中にあるのですか、(それとも)上にあるのですか

 

うーん、いじわるですね(笑)著者は自分でもいじわるな質問を投げかけたと言っていましたが、じっさい対談相手をひどく不愉快にさせたらしいです(*_*)

 

ようするに著者は、【動物的なものの上に人間らしさがある】という考え方を嫌がっているのです。「人間と動物はどこがちがうか」や「人間はどこまで動物か」といった問いの仕方はそもそもヘンテコなのだと彼は言いたいのです。あえて著者は、【人間はしょせん動物なのである】ということをはっきりさせようとします。

 

ただし、これを悲観的にとらえてはならないのでしょう。【しょせんは人間も動物なのさ、( 一一)フッ……】というようにとらえることじたいが、人間が動物よりも上なのだというドグマから逃れられていないことを意味するからです。

 

日髙さんの思考を辿るには、人間対動物という図式から離れ、「人間と動物はどこがちがうか」という問いを捨て、こう考えるようにしなければならないのです。

 

すなわち、「人間はどういう動物なのか

 

 

 (その2)“動物としての人間”にかんする研究紹介――理屈と真実の空白――

 

イントロダクションが終わると、以降、しばらくはさまざまな研究者たちによる“動物としての人間研究”紹介が続きます。考古学、解剖学、動物行動学などの見地が満載のネタを大放出です。「へー」「ほー」と唸ることうけあいです。

 

このへんを一通り読んで僕は思いました。じつはこの日髙さんによる研究紹介、見方を変えると、【理屈(理論・学説)と実際のギャップに苦悩する研究者の軌跡】として映るのです。

 

たとえば著者は、さんざん人間の二足歩行にまつわるお話をしたかとおもうと、最後にはこう言うのです。

 

「なんのために立ったのかは、よくわからない……立つと上のほうまで見通せるからだろうと言われているが、本当かどうかはわからない

 

とても正直ですね(^◇^)(笑)

 

ここで、「そんな無責任な」「けっきょくわからないんかい!」とズッコケるのは、科学者たる日髙さんに失礼というものでしょう。いろんな言い方はあると思うのですが、けっきょくのところ科学とは、わからないものはわからないし、わかっていることですら、じっさいほんとうかどうかはわからない(いつでも覆る)ものなのです(笑)

 

「なぜ人間には毛が少ないのか」という話も興味深かったです。なんとなくそれっぽいということから、今日でも支持されている学説は、【人間が狩りをするさいに体温の過熱を避けるために毛がない(少ない)】というものらしいです。

 

では、どうして人間の頭には毛(つまり髪の毛)が残っているのでしょう? この疑問についても、いちおうは理屈が用意されています。【大事な脳みそを守るため】です。しかしここで著者はその上から新たな疑問を被せてしまいます。

 

「やはり変なのは、その髪の毛が、いくらでも長く伸ばせることである。ほかの動物の体毛は、一定の長さになると抜け落ちてしまい。それ以上長くなることはない。ところが人間の髪は、背丈と同じくらい、あるいはそれ以上にも伸ばすことができる。これは非常に不思議なことである」

 

そしてあのフレーズで締めくくります。

 

なぜかはわからない

 

(^◇^)……

 

とまあ、そんなわけで、わからないことがいっぱいなわけです。どれだけもっともらしい学説をうちたてたところで、それがそのまま“正解”であるという根拠にはなりえないわけですね。まさに神のみぞ知るというわけです。当然といえば当然ですが、しかしこれは、科学者や哲学者たちがさかんに論争を繰り広げるくらい重要な話なのです。

 

一部には、「そもそも合理的に物事を考えることじたいが人間のバイアス(偏見)なのだ」と論じる哲学者もいます。あるいはもっと有名なのでいえば、「つねに科学理論は誤っているので、つねに修正が必要だ」というカール・ポパー的な見地でしょうか。

 

どちらにせよ、【科学はぜったい正しいはずなんだ!】と考える人には、頭が痛くなる話です。こういう考え方、いまどきあまりにもステレオタイプだと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、案外、盲目的に科学を“信奉”する人たちがけっこう身近にいたりするのです (´・ω・`)

 

おそらくですが、日髙さん自身も、「そもそも合理的に物事を考えることじたいが人間のバイアス(偏見)なのだ」と考える方だったのかなと思います。いま手元にはないのですが、著書『動物と人間の世界認識』で、人間のみる世界がすべてではないのだと力強く言っていたのを覚えています。というより、それがその本の主題でした。

 

しかし、です。だからといって、「けっきょくおれたちはなにもわからないのか……」と悲観的になる必要はないですよね。なぜなら、わからないことをわからないなりに解明しようとする努力が、じっさいに科学という方法を築きあげ、多くの役に立っているのですから!(^^)!

 

この本を読んでいると、ユーモアを交えつつも、日髙さんの誠実な科学への態度に触れたような気がします(*^-^*)

 

 (その3)こわい動物行動学

 

著者の話は、ますます興味深くなっていきます。人間社会のなかでみられる様々な現象が、じつは当然のようにほかの動物社会にもみられるというような内容です。

 

とりわけ目を引くのは、【オスとメスの戦略】についてでしょう。動物たちの繰り広げる強かで抜け目ない生存行動。「選ぶのはつねにメスであって、オスは、メスに選ばれるためにいろいろと苦労することになる」という著者の言葉は、なかなか耳に痛いですね((+_+)) 

 

また一方では、「男は、子どもを産んでもらえればいい。ただし、子どもは丈夫であってほしい。そのためには丈夫な女のほうがいいに決まっているわけで、どことなくぱっとしない女は、どこか体の弱いのかもしれない。ぱっと輝くようにきれいで、人目をひく女を選びたい。そこで人間の場合は、男でなく、女のほうが着飾ることになる」とも言っています。

 

たしかに考えてみれば、小さいころから、女の子はわりとオマセさんだったりしますよね。はやいうちからお洒落に興味をもったりするその理由としては、なんとなく腑に落ちます。もっとも、こうした著者の説明も、“なんとなくそれっぽい”というだけで、ほんとうのところは「わからない」わけです(笑)

 

そんななかで著者は、僕たちの頭を悩ませることをサラリと言ってしまいます。

 

「動物の世界では、メスは選ぶ一方で、オスは選ばれる一方である。しかしそこでは、だましたり、嘘をついたりといったことが頻繁に起こっている。

 

『自然は嘘をつかない』という言い方が流行ったことがあるが、これは大きな嘘である。人間のやっていることは、自然の中にすべてあると思っていい。

 

不倫や援助交際が小鳥などでよく知られた行為であることを考えれば、むしろ、動物たちがやっていることを人間もやっているにすぎない」

 

不倫、援助交際、異性の略奪は自然界ではあたりまえのように行われている……著者によれば、とあるカエルは、鳴き声の上手なオスのそばでじっと息をひそめて、美声につられたメスをそのまま奪ってしまうらしいです。うーむ、なんと卑怯な( `д´)

 

しかし、たしかにこの種の話は、ちょくちょく耳にしたおぼえがあります。可愛くてかしこいイルカくんは、集団でメスをレ〇プするっていうし、デ〇〇ニー映画でもおなじみのミーアキャットのメスは、ほかのメスの子供を殺してわが子の出世競争を勝ち抜こうとします。“子殺し”どころか“子供を食べる”なんてことは、ほ乳類の世界では日常茶飯事です。

 

みなさんは、うえに挙げた著者の引用部分を読んだとき、どうお考えになったでしょうか……(; ・`д・´) 僕は率直に、「こわいなぁ」と感じました。

 

というのも、このお話を前提にしつつ、【人間はしょせん動物なのである】という理屈を持ってくると、いったい人間社会の【道徳】だとか【倫理】って何なんだろう、と疑いたくなってしまうからです(笑)

 

二十世紀の初頭あたりから、いわゆる【心理学】が学問として興りはじめましたが(今日のそれよりもずっと抽象的で哲学的な分野でした。もともとは哲学の派生として誕生したのです)、当時の学者たちは、人間の【思考習慣】が【文化】をつくりあげていくのだと考えました。

 

僕はけっこう、いやかなりの大部分で、人間のそうした習慣的な思考のパターンが行為となり、それが文化という規範を生み出していくという解釈を気に入っています。

 

食卓のうえでご飯を食べるなんていうのも、よく目を凝らして世界を見渡せば、けっして自明のことではないとわかりますし、就職活動のときにスーツを着なければならないとか、ノックの回数なんていうのも、よくよく考えてみればなんの客観的根拠もありません(笑)

 

結婚指輪や婚約指輪なんていうのも、まさに文化そのものって感じですよね(婚約指輪なんて、ぜったい必要ないだろ、なんで二つも買う必要があるんだ、なんて僕は思いますが……)。

 

これまた挙げだしたらキリがない!

 

さてさて、前置きが長くなりましたが、そんな【文化】について思索をめぐらせてゆくと、さきに引用した著者のことばから、けっきょく道徳とか倫理も、たんなる「思考習慣」に過ぎないのかも!という結論に向かうわけです(; ・`д・´)(笑)

 

どうですか、こわくないですか?

 

今日の動物行動学には経営学の考え方があります。いわゆる【コスト-ベネフィット】戦略です。ようするに、動物は損得で生きている、というわけです。だとしたら、このとき【道徳】とか【倫理】って、損得に適っているのかどうなのか……

 

不倫というのは、自分の遺伝情報をより多くのメスに伝達させようとする行為だと言えます。まさに「利己的な遺伝子」ですね(笑) この衝動の根拠は、とりあえずいまのところは「遺伝プログラムでそう決まっている」としか言えませんが、それでは不倫を悪徳とみなそうとする僕たちは、いったい何なのでしょうか? うーん、難しいですね。

 

しかし皮肉なことに、それでもなお、道徳的なふるまいを求めようとするところに、僕たちの【人間らしさ】があると言えるのかもしれません。

 

ただし僕は、ちょっと突き放した考えを持っているので、道徳や倫理観をもつ人間がほかの動物と比べて【崇高】である、とは言いません。それでも、道徳的にふるまうことが大切なのだ、と考え続けることには【意味】があると僕も思います。

 

意味、意味、意味……。うーん、この言葉はいったいなんなのでしょうか? 僕はいつも、これを【価値】とも言い換えたりします。

 

価値とはつまり、【わたし】が【行為】する最大の根拠のことなのです。ややこしいですが、【わたしがそうであることの根拠】とも言えましょう。

 

たとえば著者の日髙さんが昆虫学者を目指したのは、それに意味(価値)を見出したからです。昆虫学者であろうとすることで、この世界のなかに【わたしの存在意義】を見出そうとしたわけです。

 

【わたし】が本を読んだり、ロックコンサートに行ったり、スポーツに熱中したり、野球選手を志したり、テレビゲームをしたり、一日中勉強したり、ヴ〇トンのバッグがほしくて仕方なかったり、高級車に憧れたり、庭付き一戸建てを夢みたり……

 

僕たちにとっての“世界”とは、物理現象だけで構成されている空間だけを示しているわけではありません。すくなくとも人間は、イヌやネコ、バッタやノミやダニが理解している世界では生きていけません。僕たちが必要としているのは、もっと抽象的でしかし高次な【意味の世界】なのです

 

たとえばブランド好きの方なら、よく理解できるのではないでしょうか。かなり突き放した言い方をすれば、ブランドというのは、イメージにお金を払っているようなものです。

 

セレクトショップにぶら下がっているちっぽけなシャツが、ブランドロゴが印刷されているだけで数万円の値がつきますよね(; ・`д・´) たかだがシャツですよ!けっして高機能というわけでもありません。洗濯をなんどもしてしまえば、し〇むらのシャツとおなじくびろ~んと伸びてしまうわけです(笑)

 

でも、ちゃんと商売が成り立っている。ということは、自明のこととして、買ってくれるひとがちゃんといるのです!僕たちは、そこに価値を見出すからそうするだけなのです。

 

もちろんそういうお金の使い方が愚かだなんて、誰も言えないでしょう。テレビゲームが嫌いなひとは、ゲームを買うひとたちのことを理解できないだろうし、アイドルに興味のないひとは、どうしてそこまで熱中できるかまったく不思議でならないはずです。

 

何に意味(価値)を見出すのかは、そのひとの勝手なのです。僕たち人間は、そうやってほかの動物には理解できない世界を生きているのです∪・ω・∪

 

僕たちがこうした高度な意味創造能力なるものを獲得できたのは、おそらくは言語のおかげなのでしょう。

 

言語によって多くの「概念」が生み出された人間社会。著者は、それについてこう述べます。

 

「……そうなると人間は、その言語によって、ますます新しい概念をつくっていくのである。それは、もはや現実とはなんの関係もないようなものにまでなっていった。

 

人間はその上に立ってさらに新たな概念を生み出し、それによって生きていく。それが、近年ぼくがイリュージョンと言っているものであり、それによって人間は、ほかの動物とはものすごくちがう、こういう動物になっていったのである」

 

この引用部分は、一章のラストに書かれています。僕はこれを、記事の冒頭で示した「なぜ僕たちは【人間らしさ】を求めるのでしょう?」という問いにヒントを与えてくれるものだと思います。

 

著者のいう「現実」がなんなのかという疑問が残りますが、これを僕なりに補足すれば、文脈からして、それは“生物学的な事実の世界”のことであり、一方では、「現実とはなんの関係もないようなものにまでなっていった」と「イリュージョン」とは、それこそ人間の文化規範――ノックの回数とか、結婚指輪をわたすまえに婚約指輪をわたすだとか、食卓で行儀よく食事をするだとか、ヴィトンのバッグを欲したりだとか、不貞をはたらいてはいけないだとか――のことなのでしょう。

 

そう考えていくと、【人間はどういう動物なのか】という日髙さん自身の問いに、ひとつの着地点を与えることができるのかもしれません。すなわち、人間は【意味】をつくりあげて生きる動物なのだ、と。

 

だから、著者がかつて対談したとある先生が、【人間らしさ】に【崇高さ】を見出していたのは、そうすることで人間にひとつの【意味】を与えようとしていた、というように考えることができるのではないでしょうか。道徳や倫理というのも、僕たちがそこに【意味】を見出すかぎり、【意味がある】のです。

 

しかしワンニャンたちからすれば、人間社会はまさに意味不明な世界といったところでしょうね(;´∀`)