後編『人間はどういう動物か』(日髙 敏隆) | タブンダブン

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流浪のライター、かげぎすのブログ。書評、映画感想、洋楽の和訳などいろいろとやっています。

マラソン二日目。

 

『人間はどういう動物か』(日髙 敏隆 / ちくま学芸文庫 / 2013)の後半を読みました。

前回は一章のみを題材にしましたが、今回は二章・三章(終章)です。

 

 

 

 

1.感想

 二章 論理と共生

 

二章は複数の小見出しで構成されており、ぜんたいてきにみると、ミニエッセイ集といった印象を受けました。

 

そのなかで僕が好きだったのは、二章のラストを飾った『論理と共生』。

 

いったいいつから謳われていたのかはもはや定かではありませんが、いわゆる“環境にやさしい”、“地球にやさしい”という修飾語のついた概念にたいして、著者が疑問を呈していくセクションです。「自然との共生」とひとは言うが、はたしてそれはほんとうに生物学的な意味において成立しているのか、というわけです。

 

著者は近年の“エコブーム”を“共生ファッション”と揶揄します。

 

そもそも【共生】とは、生物学の文脈で言えば、個体同士の「利己的なせめぎあいの上に成り立っている」と著者は言います。

 

「……花は自分の子孫(種子)をできるだけたくさん実らせるために、昆虫を利用して花粉を運ばせようとする。

 

蜜をつくるのはコストがかかるから、本当は蜜などつくりたくはない。しかしなにもないと虫が来てくれないから、しかたなくすこしだけはつくる。

 

それをできるだけ吸いにくくして、虫が努力している間に花粉がたっぷり虫の体につくようにしている。

 

昆虫のほうは、植物のために花粉を運んでやる気などさらさらない。

 

欲しいのは蜜だけである。けれど植物のほうが蜜を花の奥深くに隠しているから、懸命になってもぐりこんでいくか、口吻(こうふん)を長くして吸いやすくするほかない」

 

花は喋らないのに(昆虫もそうですが)、蜜を“しかたなくつくる”という言い回しはチョット気になりますが(;´∀`)、ともかく昆虫と花の織り成す、蜜を軸にした奇妙な【共生関係】は、つまるところ両者の「利己的なせめぎあい」の結果です。

 

ながいながい時間を経て、「昆虫が口吻を長くして、遠くからでも蜜が吸えるようになっていくにつれて、花のほうも細く長く形を変えて、昆虫の頭の先にいやでも花粉がついてしまうように」それぞれが共生に適した形態へと【進化】していきます。

 

 

これがまさしく【共生】なのだと著者は主張します。では、自然界のこうした共生の一方、僕たち人間の“共生ファッション”はどうか?

 

「人間が建物を建てるのは人間の利己である。人間の目的に沿うように、そして多くの場合、建築家アーチストの満足を満たすように、建築物は建てられる。

 

問題なのは、これがまったく一方的で、そこになんのせめぎあいもないことだ」

 

なぜ“共生ファッション”はあくまで“ファッション”に終わってしまうのでしょうか? はたして足りないものとは?

 

そこで重要なのは、【論理と論理のぶつかりあい】なのでした。じつはこれ、【利己的なせめぎあい】の言い換えでもあります。

 

たとえば、さきに挙げた昆虫と花の共生関係は、蜜という要素を核にして、一方には【昆虫の論理】=【とにかく蜜がほしい】があり、他方には【花の論理】=【できることならラクして花粉をばらまきたい】があるわけです。

 

つまり自然界において共生とは、利己的な論理が衝突し、やがてひとつの均衡に達したという状態をいうのです。まさに弁証法的な過程ですね。

 

だからこそ著者は、一方的な論理を自然界になかば押しつけるような“共生ファッション”に苦言を呈するのでした。

 

「人間の論理だけが論理ではない。建築の論理だけが論理ではない。自然には自然の論理がある。

 

そして、生きものたちの論理は、基本的にはひとつであるけれども、具体的にはそれぞれにみな異なっている。

 

空をうまく飛ぶことによって自分の子孫を残そうとしている鳥と、地中にトンネルを掘ってそこを自由に動きまわって子孫を残そうとしているモグラとでは、論理はまったくちがっている

 

人間は人間の論理で生きてゆくほかはない。

 

建築は建築の論理にしたがってゆくほかはない。

 

しかし同時に、そこにはほかの生きものたちの論理があり、自然の論理もあるのだということを忘れてはなるまい」

 

もちろん、人間だって自然の一部なわけですから、かなり乱暴に言ってしまえば、人間のやることはすべて自然界の理屈(論理)の産物だ、ということにもなるでしょう。著者の見解にいじわるな口を差しはさむことも、まあできなくはない。

 

「人間以外の論理はつぶしてしまったほうが楽であり、そのほうが整然として美しく見える。

 

しかし、共生とは、異なる論理のせめぎあいのなかで生まれてくるものであり、そうであるからこそ、そこに従来のとは異なった新しい美も生まれてくるのかもしれないのだと思う」

 

しかし、こうして読者にむかいながら「共生についていまいちど再考してみてはどうか」と呼びかける以上は、「人間もしょせんは動物である」と言い放つ著者自身も、やはり人間の知性に可能性をみているからなのでしょう。

 

ところで、僕はこの記事を書いていてふと思ったのですが、“共生ファッション”に批判的な意見を述べる著者自身のなかには、あきらかに【動物学者としての論理】が見出されるのではないでしょうか

 

突き詰めて言えば、著者の主張は、もっと自然のことを考えよう、自分たちの都合だけでない広い視野をもとう、といったものですよね。

 

これはまさしく、人生を賭けて自然と向き合ってきた著者が培った論理だと思うのです。建築家が建築家としての論理を大事にするように、日髙さんもまた、生物研究者としての論理を一貫させている。しかしだからこそ、この主張は著者にしかできないとも言えるわけです(*^-^*)

 

 

 三章 そもそも科学とはなにか

 

科学哲学的な内容がメインとなる最終章です。

 

科学の探求をしていくうち、やがて“人間とはなにか”という問いに至ることは、むかしからあったことです。

 

近年の物理学では、まるでSFやオカルトの世界のような主張があたりまえのように飛び交います。僕はこの手の話題をまとめサイト記事や科学雑誌を読んだりして毎度ワクワクさせてもらっていますが、しかし20世紀の物理学たる【量子力学】は、わかったようなフリをしているだけで、その実まったくチンプンカンプンのままです(笑)

 

アインシュタインが量子力学を最後まで認めなかったという話には、おもわず共感してしまうところです。

 

それにしても、高校生でも理解できてしまう古典物理学と、研究者でさえも「よくわからん」と言わしめてしまう量子力学……いったいどしてこうなった/(^o^)\

 

すらすら~っと量子力学の話ができる人をうらやましくおもう今日このごろです。しょせん自分は文系なので……

 

すくなくとも日髙さんのお話は、“いきもの”を出発点としているだけあって、光の速度で追いていかれる心配はないでしょう。とはいえ、それでも僕たちは、著者の導きによって、深淵な問いへと直面することになります。

 

 

「……ローレンツは、人間も含めて、動物の行動は遺伝的に組み込まれていると言った。マイナーな変化はいろいろあるかもしれないが、基本的なところはそうなっている」

 

この記事では深く言及していませんでしたが、著者はこの本のなかで、いかに動物が遺伝的にプログラムされて生きているかについて論じてきました。そしていよいよ彼は、こんなことを言い出します。

 

「すると、ぼくの自我というのは、なんなのだろう。

 

自主的な判断とか言うけれど、そんなものは細かいところだけの話で、基本的にぼくを突き動かしているのは遺伝的プログラムだということになる。だとしたら、個人の尊厳はどこにいってしまうのか」

 

前回のときと同じく、これまたある意味で“こわい”話です。しかしまた、なぜだか僕たちを惹きつけてやまない問題でもあります。自我や自由意志が実在するのかという問いは、じっさい古典的な哲学命題ですし、今日でもひろく議論されています。一方では、これまで多くの人々によって、創作のネタにされてきましたよね。

 

こんどブログで紹介しようとひそかに思っているのですが、みなさんご存じ、映画『ブレードランナー』の原作にもなった、フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』(原題:Do Androids Dream of Electric Sheep? ) 。

 

この物語は、人間とアンドロイド(つまりはプログラムの!)の境界はいったいどこにあるのか? をテーマにしていました。

 

作者ディックは現実世界を徹底的に懐疑し、その問いのさきで作品をつくりあげる男です。『電気羊』もまた、読む者を【ディック感覚】に陥れてくれます。もちろん著者の日髙さんは動物学者なので、ディックとは異なるアプローチでこうした問いにいきつくわけです。

 

【わたし】はほんとうに【わたし】なのか……外部からの干渉を受けない独立した【わたし】は実在するのか……うーむ、まさにディック感覚!

 

……というところで、この話題はこのへんで終わろうかと思います(笑)自我は実在するのか? について気の利いたことなんて僕は言えませんし(ヾノ・∀・`)ムリムリ、研究者ですら依然として頭を抱ええる話なのですから。

 

ですが、ひとつだけ言えることがあります。

 

それは、たとえ僕たちがプログラムに支配された存在なのだとしても、「それがどうした?」と言えるくらいの気持ちでいたほうがいいということです

 

つまり、宇宙の果てについて考えだしてしまったときのように、もしも自分自身の自我を疑いはじめて夜眠れなくなったら、こう考えればいいのです。

 

自我の実在が証明されようがされまいが、はたして僕たちの日常に意味はあるのだろうか、と。

 

哲学の世界でたびたび起こってしまうこと、それは、テーマが深遠すぎて逆にどうでもよくなってしまうということです(笑)

 

こういうときは、あっさり問題から離れてみるのも、哲学との健全な付き合い方なのかなと思います。

 

形而上学とか神学とかを嗜んでいる方は、こうしたプラグマティックな立場を毛嫌いするのですが、僕のばあいは、前向きな思考停止もときには必要だという考えをもっています。

 

そもそも、「自我があろうとなかろうと、それがどうしたっていうんでい!おれはおれだぜ!」と考えることじたい、これもひとつの立派な答えなわけです。抽象的世界に入り浸るあまり、目の前の現実をおろそかにしてしまっては、元も子もありません。

 

人間が利己的プログラムの付属品でしかないという冷酷な結論が下されたとしても、そのひとが明日プロポーズに成功するかどうかは、まったく関係のないことなのです。