カフカが亡くなったのは、1924年6月3日。
ちょうど90年前です。
もし生きていたら130歳。
そんなに昔の人ではないんです。
カフカは、カナリアのような人でした。
まだ誰も気づいていない現実に、
いちはやく気づいて、
まだ誰も苦しんでいないうちから、
ひとりで苦しむ。
生前はあまり認められませんでしたが、
その後、ナチスドイツが台頭し、
カフカの『審判』のように、
何の罪もないのに逮捕されるということが現実に起きるようになり、
カフカはにわかに脚光を浴びます。
現実そのものを描いていたことに、みんなが気づいたのです。
カフカというカナリアが死んだ後に、
他の人々もついに苦しみ始めたのです。
といっても、カフカはファシズムを予言したわけでも、
戦争の現実だけを描いたわけでもありません。
カフカは「ある現実の典型」をとらえたのであり、
戦争によって、その現実が見えやすくなったということです。
引力の法則がリンゴだけであてはまるわけではないように、
カフカのとらえた現実は、
さまざまな場合にあてはまります。
それこそ、日常のほんのささいなことにでも。
なにしろ、カフカ自身、
そうした現実をとらえたのは、
普通の家庭生活、親子関係、サラリーマン生活においてなのです。
カフカの小説を読んで、なんの感動もなくて「?」となるというのは、
まだなぜカナリアが騒いでいるのかわからないということです。
とても幸せなことです。
ほんの個人的なことでも、
何か絶望的なことを経験すると、
急にカフカの小説が、わけがわからないものではなくなります。
それどころか、まさに自分のことを描いているとしか思えなくなります。
足が丈夫だった人が、足を悪くして、
いつも通っている道に、じつはこんなやっかいな段差があったのかと、
初めて気づくように。
そして、ここが芸術の面白いところですが、
自分が気づいた現実を、
すでに見事にとらえて描いてくれている人がいるというのは、
なんとも心の支えになることです。救いとなることです。
大いなる理解者、共感者がいてくれるということですから。
私は自分の人生を重ね合わせるように、
カフカを読んできました。
それはまったく個人的な読みですが、
芸術が人を支えるというのは、
そういうことではないかと思います。
芸術が教養のように言われ、
娯楽のほうが楽しいように言われていますが、
そんなふうに浮かれて一生を過ごすことができれば、
それがいちばん幸福でしょう。
しかし、
そうはいかなかったとき、
芸術は、生きるために欠かせない、切実なものとなります。
カフカは、
芸術は現実を映す鏡のようなもので、
時計の針が実際より先の時間を指し示すことがあるように、
少し先のことを映し出す場合があると言っています。
今こそ、カフカはとても身近に感じられます。
どこかに今も生きているような気がします。
また、カフカに似ている人も増えてきました。
カフカはこれからますます多くの人のにとって、
切実な文学となっていくと思います。
まだカフカを読んで「?」となる時期から、
読んでおくことが大切だと、
個人的には思っています。
まずはカフカを読んで笑い、
いつかは共感し、
またいつかは、泣き、
さらにいつかは、なくてはならぬ存在になるときがあると思います。