◆偉大な小説家は巨人ではない
偉大な小説家というと、
重々しい顔つきで、哲学的で、思想を持ち、知識人で、
社会について語り、人々を導く、
といったイメージが一般にあるように思う。
20世紀最高の小説家の風貌は、
そういう、いわゆる「作家らしさ」とは対極にある。
カフカが世の中について語ったことといえば、
日常生活のグチだけだ。
学校が自分をダメにした、
家族に我慢がならない、
勤めがいやだ、
夜眠れない、
体の調子が悪い、
消化不良だ……。
外見的にも、いつも実際の年齢より若く見られ、
初めてカフカと会った若い詩人ヤノーホは、
それが『変身』の作者と知って、
「目の前の平凡な市井人に幻滅を覚え」たという(F)。
しかし、本物の小説家がどのようであるかを知りたいと思ったら、
カフカを見るべきなのだ。
いわゆる小説家らしさは、本当の小説家らしさとは無関係な、
むしろ不純な要素といってもいい。
小説を書くことと、思想・哲学・社会を語ることは、
まったく別のことだ。
絵を描くのがうまい医者のほうがいい医者だとは言えないように、
小説家に思想・哲学・知識などの付録がついていたほうがいいということもない。
カフカの小説家としての純度の高さは驚くべきもので、
他に比べられる人がいない。
カフカの人物像が他の小説家たちと異なっているのはそのためだ。
20世紀最高の作家の風貌としては、まさにふさわしいわけだ。
カフカは、彼を慕う若いヤノーホに、こんなふうに言っている。
「あなたは詩人を、途方もなく大きな人間、
足は地を踏まえ、頭は雲の上に聳えている、
という風に描いていらっしゃる。
これは当然、小市民的通念の枠にはまった大へん通俗な見方です。
無意識の願望が作り出した幻影であって、
現実とは何の関わりもない。
事実は、詩人はつねに社会の平均値よりもはるかに弱小です。
詩人はだから他の人々よりも、
現世の生活の重さというものをはるかに強大に考えています。
詩人のうたは、詩人その人にとって一つの叫び声にすぎない。
芸術は芸術家にとって一個の苦悩であり、
その苦悩を潜って、彼は新しい苦悩に向かって自らを解放するのです。
芸術家は巨人ではない」(F)
ここで言われている、
「弱いがゆえに、より現実を把握することができる」という認識は重要だ。