『カフカの強さと弱さ』(1)「作家について知る必要はない」 | 「絶望名人カフカ」頭木ブログ

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『絶望名人カフカの人生論』『絶望読書』『絶望図書館』、NHK『絶望名言』などの頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)です。
文学紹介者です(文学を論じるのではなく、ただご紹介していきたいと思っています)。
本、映画、音楽、落語、昔話などについて書いていきます。

私のカフカについての1冊目の本は、
出版社がなくなってしまったため、
現在は入手困難です。
(アマゾンでは中古品が売られていますが)

逮捕+終り―『訴訟』より/フランツ カフカ

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そこで、
この本の解説部分を、
このブログで、少しずつご紹介させていただこうかと思います。

12年も前のものなので、
意見が少し変わっているところもありますし、
若い頃の、しかも最初の本なので、
大変な気負いがあり、
攻撃的すぎるところもありますが、
そこはご容赦ください。

タイトルは『カフカの強さと弱さ』です。
それでは、まず1回目です。

引用のところについているアルファベットは、
出典の記号です。
出典は最後にまとめてご紹介します。

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◆作家について知る必要はない

まず最初に、カフカがどういう人間だったか、紹介しておこう。

——といっても、作家についての説明は、本来は必要なものではない。
作家について知ることが作品の理解に役立つというのは、大きな思い違いの一つだ。
アインシュタインについて理解したら、相対性理論が理解できるわけではないのは、
誰でも想像がつくだろう。

作品と作家の間には、一般に予想されがちな一貫性はない。
セザンヌがどんなに好色だったとしても、
彼の裸婦画の芸術的価値が変わるわけではない。
むしろ、作品と作家はまったくの別物と思ったほうがいい。

「ヘミングウェイの生きざまが好きだから、作品も好き」などと言う人がいるが、
すぐれた作家にとって、そういう評価のされ方は大いなる侮辱だ。
本物の作家には作品がすべてであり、
自分の存在はむしろ消してしまいたいと思うものだ。

「私は人間としては、歴史から破棄され抹殺されたものでありたい。
 印刷された書物以外はどんな痕跡も歴史には残したくない」(フォークナー J)


フローベールやブロッホなど、偉大な作家たちは、みな同じことを言っている。

だから、作品を読むのに、作家を気にせずにいられないというのは、
作品に近づくことではなく、むしろ遠ざかることだ。

『訴訟』を前にして、ヨーゼフ・Kよりもカフカが関心をひくようなことではいけない。
「作者のイメージの背後に作品が隠されてしまう今日」とクンデラも嘆いている(J)。


だったら、ここでもカフカについて書くようなことはしなければいいのだが、
カフカはすでに有名で、有害な誤解が蔓延している。

「読者がカフカという名前で知っている作家はもはやカフカではな」い(クンデラ α)

だからここで修正しておきたいと思うのだ。

また、作品とは別に、カフカの人となりは、
一人の人間のドキュメンタリーとして、興味深いものがある。