七代目、八代目、W菊五郎が来年「團菊祭」で誕生 | ふうせんのブログ

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小林蕗子のブログです。2013年5月に始めたときはプロフィールに本名を明示していましたが、消えてしまいましたので、ここに表示します。。
主に歌舞伎や本のことなどを、自分のメモ的に発信したいなあって思っています。よろしく!!

時の経つのが早いですね。
前回ののブログからの流れで、左團次さんの新刊書『四代目市川左團次 その軌跡』(小学館、2024年4月29日発行)

を紹介しつつ、私が思う「左團次の藝の真髄」を書きたいと思っていたのですが、、
5月26日に團菊祭が千穐楽。
その翌日には、来年の團菊祭では、【8代目尾上菊五郎、6代目尾上菊之助の襲名】が発表されました。
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【ほぼノーカット】尾上菊之助さんが「八代目・尾上菊五郎」を襲名 尾上丑之助さんは「六代目・尾上菊之助」を襲名

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この襲名会見の中で、一番驚いたのは、現在の七代目尾上菊五郎はそのままの名前で舞台に立つ、W菊五郎が実現することでした。
「私も52年間名乗らせていただいた名前を今更変える気はなくて」
「菊五郎はいつも元気で働いていなくてはいけないと思い、病気に負けないで一生懸命に名乗ろうと思った」
「菊五郎のまま歌舞伎人生の幕を閉じたい。たまには公演で菊五郎同士がバッティングすることもあるかもしれません。紛らわしいですけど、そのときは『七代目』『八代目』と呼んでいただければと思います」

それらの言葉に、私は〈やったー〉との思いが強く、頷きながら聞いていました。
私は前から、松本幸四郎家や市川猿之助家が、この家を代表する最高位の名跡を、生前贈与で子息に相続させる場合、隠居名のような松本白鸚や市川猿翁を名乗り、その役者を代表する名前が、この隠居名になることに違和感を抱いていました。


私の母は、二代目市川猿之助の大ファンでした。
ところが、【歌舞伎俳優名鑑- 想い出の名優篇 -】の名前一覧には「二代目市川猿之助」はないのです。あるのは「猿翁 (初代)」です。

明治43年10月歌舞伎座で二代目市川猿之助を襲名し、昭和38年5月歌舞伎座で孫の三代目團子に三代目市川猿之助を譲るまで、猿之助として大活躍した役者が、初代市川猿翁と紹介されるのはおかしいと思っていました。
初代市川猿翁は、その改名披露公演の最後の三日間、病院から出勤して『口上』に列座しただけで、翌月に帰らぬ人となりました。それでも「猿翁 (初代)」が代表名になることに、私は納得できません。
このことは、【歌舞伎俳優名鑑】の表記を変えれば解決するかもしれませんが、〈最期まで菊五郎の名まえでいたい〉という想いは解決されません。その気持ちは私には痛いほど解りました。


「会見ユーチューブ」の15:16/47:41あたりで
「実は私が七代目菊五郎になるときには、新橋演舞場の前の『金田中』におきまして、中村歌右衛門さん、勘三郎のおじさん、白鸚のおじさん、松緑のおじさん、……」と、松竹の会長や経済界の代表の方々が集まり、父・尾上梅幸が息子の七代目菊五郎襲名の了解を得る儀式を催したことが語られています。

ここで、思い出しました。私は『歌舞伎 家と血と藝』(中川右介・著 講談社現代新書)の349ページをさがしました。
そこには『菊五郎の色気』(長谷部浩・著 文春新書)を参考文献にして、この「儀式」のことが書かれていました。

さらに上記の「儀式」の記述に続けて、以下のことが書かれていました。、
――――――――(一部引用)
「松緑さんも勘三郎さんも、七代目になりたかっただろうと思います」と七代目は言い、「父は歌舞伎界の紳士といわれて、温厚で、いつも一歩引いていましたが、それはすべて、私に襲名をさせるためだったのかもしれません。だとすれば、本当の策士は父だったのではないかと思うことがあります。父は、歌舞伎界のどこにも敵を作らないことで、私を菊五郎にした。父の一生は、自分を七代目にするためにあったのかもしれません」と振り返る
―――――――――(引用、終わり)
この本を最初に読んだ時にも、梅幸の想いをひしひしと感じたものでした。
それは、単に息子可愛さということではなく、
梅幸は養子であるがゆえに、菊五郎家の家督とお墓を継いだ者の責務として、同世代の誰にも渡すことなく、次世代の息子に「菊五郎」の名跡を継がせるべく、周囲の関係者に細心の気遣いを心掛けてきた、その想いに私は感慨深いものを感じたのです。


いま、その継承に際して、七代目は父の想いを受け止めるがゆえに、その名跡を継いだ者の責務として、「菊五郎以上の名はない」、「菊五郎のまま歌舞伎人生の幕を閉じたい」ときっぱりと言い放つ姿に、私は再び感慨深いものを感じています。

戦後は、家督相続はなくなりましたが、古典芸能など伝承に携わる世界では、後継者に家の藝の真髄を伝える資料や口伝、そしてお墓を継承していくことが重要な責務になります。

七代目が「『金田中』での儀式」を語るのに続いて、
「会見ユーチューブ」の16:45/47:41あたりで、父から「お前継げよ」と言われた現・菊之助が「すぐに、先祖の墓参りをしまして、報告をしました」との言葉が続きます。

私はこの言葉の中に、代々のの菊五郎への想いが脈々と受け継がれていく頼もしさを感じました。
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まだまだこの「会見ユーチューブ」には、菊五郎家の藝の継承について、現・菊之助が大事な発言をしています。
次世代の「團菊」のことを含めて、これからも私のブログで綴っていきたいと思っています。
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6月歌舞伎座も、1日に初日が開きました。

六代目中村時蔵 襲名披露と、五代目中村梅枝 初舞台
こちらについても、書きたいことはありますが、後日にして、
今日は、Eプラスが運営するサイト〈SPICE〉に掲載された観劇レポート。ここに添付します。
【歌舞伎座で開幕! 萬壽、新・時蔵、新・梅枝の門出に充実の舞台『六月大歌舞伎』昼の部観劇レポート】

取材・文=塚田史香、2024年6月7日
(夜の部も、たぶん後日に公表されると思います)

取り急ぎ、ここでブログアップします。

※ なお、敬称についてですが、プロの芸術家や文筆家の方は広い意味での公人ですので、舞台そのものや作品について記す時は、私は敬称を付けません。昔からの慣例です。プライベートな内容と思われる時は「さん」の敬称を付けます。よろしくご了承ください。