先日みた映画の鑑賞記です。

ヒッチコックってなんでこんな素晴らしいんでしょうか合格


目『めまい』(1958)VERTIGO
【アメリカ・128分】

監督: アルフレッド・ヒッチコック

原作: ピエール・ボワロー、 トーマス・ナルスジャック
脚本: アレック・コッペル、サミュエル・テイラー
撮影: ロバート・バークス
タイトルデザイン: ソウル・バス
出演: ジェームズ・スチュワート、 キム・ノヴァク、
バーバラ・ベル・ゲデス、 トム・ヘルモア

あらすじ:かつて刑事であった主人公・スコッティは、屋根の上での犯人追跡中に同僚を誤って墜落死させてしまって以来、高所恐怖症である。一線を退いた彼は、友人である資産家から「妻・マデリンが先祖の霊に憑りつかれている」との相談を受け、尾行を依頼される。奇妙な行動を重ねるマデリンを追っているうちに、スコッティはその美しさに心を奪われてしまい、やがて二人は不倫の関係になる。スコッティへの愛を証明する、という言葉を残し、マデリンは教会の塔を上って行くが、高所恐怖症ゆえに彼は追いかけることができない。そのままマデリンは帰らぬ人となってしまう。

2人を墜落死させてしまったトラウマから抜け出せない彼は、ひどい抑鬱状態に陥るが、女友達のミッジの看病のおかげで回復しつつあった。そんなある日スコッティは、死んだマデリンとそっくりの女性・ジュディと出会う。彼女は自分の正体を隠したまま、スコッティに言われるがままに「マデリン」を演じ始める・・・。




 物語は前半と後半に分けられる。前半の主人公は「スコッティ」、後半の主人公は「ジュディ」である。

前半において、「ジュディ(マデリン)」は精神病を患った、謎めいた女性であり、観客は一歩下がったところで、「スコッティ」の視線を通して彼女を眺める。

後半において、今度はついさっきまで主人公であった人物が精神病を患い、ついさっきまで謎めいた女性だった人物の正体が明かされることで、2人のポジションは入れ替わり、同時に観客の視線も「ジュディ」によるものとなる。


この、後半について、いろいろ考えてみた。


視覚的に語るとはどういうことなのか、その素晴らしい例となるのが、原作のオチともなった「ジュディはマデリンと同一人物である」という事実が、観客にのみ回想という形で明かされる一連のシーンである。このシーンでは、主人公の知らない情報を観客に与えることで、逆にそれを知らない主人公の行動を想像させる、といったように「サプライズ」よりも「サスペンス」の面白みを重視したことは『映画術』にも語られている。

さらにこの回想の後、まず彼女のクローゼットの中にあるグレーのスーツの存在、手紙の文面により、見た回想を偽りのない真実として物語に持ち込めるよう観客を信用させた上で、手紙の文面は次第に彼女の心情の吐露にすり替わっていく。ペンを止めたジュディの表情、手紙を破り捨てるという行為、さらに、グレーのスーツをクローゼットの奥に隠す、という行為を見せることで、彼女の心の揺れ動く様から新たな決意を視覚化するばかりか、物語の新展開への導入までしてしまう。

物語が進展していくと、ジュディに死んだマデリンの姿を重ねずにはいられないスコッティは、彼女をマデリンそっくりに仕立て上げようとする。スコッティを愛し、彼を騙したという負い目を感じているジュディは彼に従う。しかし、「髪型や衣装を変えていくにしたがって、しだいに仮面が剥がれて正体がばれてくることを自覚している」(『映画術』p251)ゆえに苦悩するのはもちろん、マデリンが自分の演じた架空の人物であることを知る彼女はその矛盾にも苦悩する。彼女は自分の作り上げた「虚像」を自ら殺して見せることによって、演じることから解放され、「ありのまま」に戻ることを許されたはずであったが、その死が「マデリン」をスコッティの中で一人歩きさせ美化させてしまう。その結果、「マデリンでありジュディ」であった彼女は、「マデリンらしさ」も「ジュディらしさ」も奪われ、スコッティの望む外見のみが残される。そしてラストにおいては、ついにその外見すらも死んでしまうのである。

『めまい』は視覚的な描写によって真実らしさを提示しながら、一方ではなんの真実も残さない。スコッティの信じた「愛」はそもそも「虚像」に対するものであり、ジュディの吐露した本音は彼女自身によって破り捨てられるからだ。


視線を重ねていた主人公が精神病にかかった挙句にフェチの世界に暴走していき、また、新たに視線を重ねるべく現れた人物はその「内面」を奪われる。視線を重ねる登場人物に同感できない居心地の悪さを抱えながらの鑑賞をみるものは強いられる、と言えばなんだかつまらない映画に聞こえるかもしれないけど、素晴らしい映画です。むしろ、「(愛した女性の)虚像」と「(愛した女性の)実像」が入れ替わってしまうという矛盾は映画の本質に触れている、ということもできるかもしれないです。

ちょっと前に書いた鑑賞記です。

このことを再考する時期がやってきた。


『ロープ』(1948)

監督: アルフレッド・ヒッチコック
原作: パトリック・ハミルトン
脚本: アーサー・ローレンツ

ロバート・ワイズ、三谷幸喜、完敗。

本作は10分間のシークエンスショットを上手くつなぎ合わせ、映画内時間と現実時間を一致させる手法をとった作品である。ロバート・ワイズが『罠』(1949)でやってみせたが、その手法に限って言えばあまりぱっとしなかった。

映画は演劇と絵画を含有している。映画とは何か、について考える為とりあえず演劇との違いについて考えてみる。それはカメラ目であると思う。それをこの映画はつきつける。

演劇について考えてみる。

観客は空間を共有した俳優が、そこに居るのを、行動を起すのを「目撃する」。舞台で起こることはすべて「事実」と背中合わせであり、幕が降りるまで、俳優と観客は時間さえも共有する。舞台上の隅々までを自分の目で見、舞台後方でリアクションしている俳優、あるいは落ちた照明の中でセットが組みかえられるシーンまでを直視してしまえる。「未完成」なものが一つ一つをクリアしながら「完成」へと向かう、一歩間違えばすべてが台無しになりかねないという緊迫感への参加意識をもつことができる。演劇の魅力とはそういう部分にあると思う。

では、映画はどうだろうか。演劇との決定的な違いといえば、モンタージュを経た「過去」の断片の集積であり、すでに完結した「完成品」であること暗黙の了解としているのはもちろんだが、ここでは「時間」のことよりも、カメラを介した「映像」であることを取り上げていいたい。「映像」にすることで、視界を区切る枠を用いて何かを「見せない」ことも、逆に何かを集中的に「見せる」ことも可能である。さらに主観ショットの存在は、本来ならば観客が見ることのできないものを可視化する以上の可能性を秘めている・・・・・・。

ここで、『ロープ』のカメラワークについて考えてみる。

本作では、一般的な作品においてはモンタージュで語る部分のほとんど全てをひとつなぎで語っている。例えば、冒頭部分で主人公らが殺人の凶器として用い捨てたはずのロープが再び主人公の前に姿を現すと、カメラは自らロープのもとに近づきその存在をアピールする。そのままカメラは後退しながら横移動しそれを見ている主人公の表情を捉える、といった具合である。

クレーン撮影によるカメラはなめらかによく動き、その一方、構図を決めるとかっちりと固定される。固定されたカメラの視点は1つに定まり、これは絵画(キュビスムらへんのやつらは除く)的である。画面内で物語を語る場合、そこに何が写っていて、何が写っていないのか、が重要になってくるわけである。


カメラワークのことで触れておくと、決定的に奇妙なものとして印象的なのが、ラストシーンにおける無人のショットである。主人公らの犯罪を暴く大学教授(ジェームズ・スチュアート)が彼の推理上の犯人の軌跡を口述すると、それに合わせて(それまで人物を追っていた)カメラはあたかも見えない人物が歩き回るのを捉えるかのごとくひとりでに動き出すのである。(この部分に関しては後々・・・・・・。)

ここまで書いて何が言いたいのか、『ロープ』がいかに素晴らしいのか、を語るために三谷幸喜を当て馬にさせてもらうが、「カメラ」ついて三谷は特に、上に書いたような「演劇ではなく映画なのだ」ということをあまり考えていないように感じる。三谷の作品において、なめらかなカメラワークが何かを「見せる」ために立ち止まったとき、その視点はカメラではなく、演劇を見ている観客のものに近いのではないか。つまり、枠で切り取り、「これを見て欲しい」という指定された「画面(構成)」になっていないということだ。例えば上述したような、その画面内に写りこんでいるものが今そのショットの継続時間に「見えている」という事実が、映画内部の何者かに与える意味や影響に関して何か考えさせるような仕掛けがあるように思えないのである。


具体例が乏しいのはかんべんしてください。

映画を「みる」ってどういうこと?

それが、うちの卒論のテーマの1つでもあるのです。

うーん、がーんばろ!

今日、テストが終わった。

だめだった。

がんばったつもりってのは、

つめが甘いものなんだな。


とにかく、「はんにゃ」は面白い。

彼らは他の若手と比べて才能あると思う。

そいうえいばこないだ大学の論文で

「バカリズム論」を提出した。

お笑い番組を一日中みていたい。



合格今日はずっと観たかったマルクス兄弟の映画をみた。


『マルクス兄弟 オペラは踊る』(1935)

【アメリカ・91分】


監督:サム・ウッド

出演:グルーチョ・マルクス、ハーポ・マルクス、チコ・マルクス


おおげさなアクションとわかりやすい表情、そして気の利いたセリフはもちろん。

しかし本作での彼らの見せ場はその音楽にある。

ロングテイクでうっとりとしてしまうほど、

チコのピアノはめまぐるしく、ハーポの即興曲は繊細だ。

彼らの周囲で背伸びしている観衆とは違う

特権的なカメラ目で鑑賞できる我々映画の観客は

なんと幸福なことか!


キートン大好き!なうちでしたが、ハーポのアクションにも思わず拍手してしまった。

彼の存在は、サイレント・スターへの皮肉なのかもしれない。