ひさしぶりに鑑賞。

公開劇場があまりに少ないので、わざわざ高槻まで行った。



クロースアップが、俳優の顔を分解してしまう。
難しいこと考えたい人も、考えたくない人も、
この映画を見て損はない。

観客のための映画であり、映画のための映画でもある。
そんな作品ひさしぶりに見た。

いいっす。

ああ、角川よ。

映画館で新作を、2月に入ってようやく鑑賞。

シネマート心斎橋にて。



『EXILED/絆』(2006) ※日本では2008年末から公開中

監督:ジョニー・トー

出演:アンソニー・ウォン、フランシス・ンほか



これだけ時間のながれを丁寧に、しかも堂々と練りこんだ映画は最近珍しいような気がする。女がドアを開ける2人の男がいる、「ウーはいるか?」女が応える「誰よそれ」「いないわ」、この反復によって2種類の2人組の関係性を簡潔に描き出し、ウーが現れてからの5人の関係性を美的なアクションを交えて描き出す。冒頭から展開のねちっこさを見せられたにもかかわらずそれがラストまで続くので、展開の早い映画に慣れてしまった観客は飽きてしまうかもしれないが、ユーモアとアクションによって注意をそらさないサービスもきちんと行っている。そして、かなり意識的に任侠アクション映画というジャンルの古めかしいやり口を踏襲しまくっているからには、どこかでその踏襲を逸脱してやろうという若々しさを見たい、と期待してみたのだが、特にそういった危なっかしいことはしないまま、現代に不似合いな形式を堂々とやってのけたように思う。そういった意味で「優等生」の映画という言い方もできるかもしれない。

上記の「古めかしい」という言葉がどこまで的を得ているのかについては恐る恐るなのだが、人物らの誰もが「かっこ悪い」ことを美徳として捉えている点は今の日本の風潮に合っているのかもしれない。(客席の多くが心地よく笑っていたし。)冒頭シーンの一連のアクションによって「カッコイイ」印象を作り上げた後、(今どきこんな映画をくそまじめに作っている作者の自己言及ともとれるように、)彼らの「ダサさ」は露呈していく。「俺たちはプロだぜ」と高報酬の殺しに手を出した5人は、彼らよりはるかに大きな組織の親玉にまんまと見破られ、しかもリーダーのウーが深手を負った状態でこそこそと逃げ出した挙句、車はガス欠で走らず、盗んだ車は防犯ベルを鳴らしまくる。ウーの治療のため闇医者のもとに出向き、買春した直後の医者に真っ先に値段交渉され、値切った挙句に全額払うことさえできない彼らの情けなさは、同じようにケガをして運ばれた組織の親玉が値段交渉を軽々とはらいのけてしまうことによって強調される。治療中に襲撃を受けたウーを救う手段ですら、なんとも情けない。仲間内という小さな集団の中だけで「プロ」と自称できていた5人は、大きな組織を前にして無力でしかない。途端に、彼らはプロである前に5人の男たちなのだと、哀愁があふれだす。そうして、ウーを失った4人は、それぞれにサングラスで自分たちの情けない素顔を隠しながら、行く当てもなくただコインが指し示す方角へと放浪する。そんな彼らの目の前に、かつて取り止めた“金塊運搬トラックの襲撃”という新たな「目的」が現れる。目を輝かしたのもつかの間、運まかせに進んできた彼らには最早その気力は無い。ところが運よく目の前でトラックを襲撃したグループに横槍を入れる形で金塊を手に入れた彼らは、そのリーダー格の男を仲間に引き入れ、「5人」というかりそめの姿を取り戻す。金塊を山分けし、将来について語り、自分たちの失態、ウーの死、残されたウーの妻子という悲しみから目をそむけ続ける情けない彼らには、その踏襲されたジャンルゆえに、組織を潰すと同時に死ぬ、というラストによって「カッコよさ」を取り戻す責任が待ち構えている。

M:I:2』(ジョン・ウー)で長引かせるだけで全く無意味なスローモーションの腹立たしさを痛感していたので、本作に対しても実は恐れを感じていたのだが、“やっぱり”とばかりにラストで見せつけられたスローモーションも「なぜレッドブル!?」という可笑しさを含め邪魔臭くは感じられなかったので、全体通して好印象な映画だった。ただ、ケチをつけるとすれば、観客の意識を繋ぎとめておく為の手段として選んだのだろうが、上映時間の8割以上を占めるほど雰囲気演出の音楽を聴かされ続けたところが唯一不快だった。もちろん大衆ウケをねらう手段としては決して失敗ではないのだが、(個人的に)ねちっこい視覚的演出によって、十分すぎるほど場面ごとの雰囲気を楽しむことができたので、少し邪魔臭く思えた。あと、ユーモア要素を含んだ退職寸前の老刑事の出現によって、映画内の時間をたった3日間と設定してみせたのは、少しやりすぎた感が否めない。おそらくあれだけ執拗に描き続けた「時間の流れ」を強調したかったのだろうが、あまり活かされていないような気がする。

総じて、よい作品であったように思う。かなり完成度は高かったし、久しぶりに純粋な映画の時間が楽しめた。そして出演者の誰しもが日本人の俳優に似ている・・・!劇場での鑑賞をオススメします。

目『見知らぬ乗客』(1951) STRANGERS ON A TRAIN
監督: アルフレッド・ヒッチコック
原作: パトリシア・ハイスミス
脚本: レイモンド・チャンドラー、チェンツイ・オルモンド
出演: ファーリー・グレンジャー、ロバート・ウォーカー

本文の中であらすじを追っているので、割愛します。


「ブラック・ユーモアとして読む『見知らぬ乗客』」

本作では、他の作品に比べて、キャラクターの心理描写の面でヒッチコックの演出はあまり冴えていないし、そもそも、なぜ主人公・ガイは警察に助けを求めないのか?を観客に説得することに失敗している。しかし、そのことが、この映画の魅力のひとつとして最終的には実を結んでいる。いや、冴えさせなかったこと、説得しなかったことが、ヒッチコックの意図によるものだと深読みすることもできるかもしれない。


殊に、冒頭の15分のシークェンスは完璧である。見知らぬ2人の男が出会い、彼らがどんな性格の人物で互いをどのように捉えているのか、そして映画が今後どのように展開していくのか、そのすべてを語り得ている。心理描写の演出に関して言えば、敵役・ブルーノ(ロバート・ウォーカー)は素晴らしい。意味深な笑みと立ち振る舞いによって病的な不気味さをかもし出し、冒頭部において彼の性格を知った観客は、彼のどんな奇抜な行動にも疑問を持ちはしないだろう。一方の主人公・ガイ(ファーリー・グレンジャー)は、何を考えているのか読めない「表情のなさ」が、ヒッチコックが述べる「失敗」のゆえんなのかもしれないが、彼の表情を含めた、言葉や、態度が一貫して「はっきりしない」様子を逆手に取り、ガイのキャラクターを、「観客を引っ張る確固とした意志を持たない不安定な主人公」としてみれば、この映画をブラック・ユーモアとして読み解くことが可能なのである。

精神病の予兆のある男・ブルーノに交換殺人を持ちかけられたガイは、その「はっきりしない性格」ゆえに、はっきりと断ることができない。その場を逃れようと「いいアイデアだ」と言ってしまったばっかりに、ブルーノは「約束をした」と思いこみ、ガイの妻を絞殺してしまう。それを知ったガイは警察にも愛人にも誰にも相談しない。ブルーノに呼び出されるとノコノコと会いに行っては「目の前に現れるな」と説得するばかりである。ガイは自分の弱みにつけこんでくるブルーノをつっぱねる「強い意志」を持たないのだ。

ガイは自分の無実を訴えないばかりか、自分の妻が死んだ悲しみにひたる姿をアピールすらしない。愛人の父親に「不自然な振る舞いをしないように」と忠告を受けると、ただその言葉のいいなりになり、何事もなかったようにテニスの試合に登場し続ける。そのこと自体が「不自然」ではないのか?そんな問いは登場人物の誰からも発されることはない。

そして、当然のように彼には「妻殺し」の容疑がかけられ、監視がつけられてしまう。そうこうしているうちに、唯一自分の欲望に正直なブルーノから、「交換条件として父親を殺しに来い」という文面の手紙、拳銃、地図が送られる。監視係の刑事と仲良くなったにもかかわらず、銃を戸棚に隠し、目の前の事実から逃げるばかりのガイはふと思いつく。拳銃を持ってブルーノの家に侵入する、が、ここでも彼は自分の行動がどうなるのか、という想像力をまったく働かせない。侵入するやいなや大型の犬に出くわした彼は、その犬が吠える・噛み付くという可能性を無視して犬に近づく。(トリュフォーによるとこの緊張感こそが物語を語る上での重要な前フリとなっているらしいが、それにしてはあまりにも不自然だ。)そして父親の部屋に侵入したガイはブルーノの父親に相談することで罪を逃れようとするが、その計画はすでにブルーノに先読みされており、ベッドの中で待っていたのは父親ではなくブルーノであった。そもそも敵であるブルーノに「今から行く」と電話をかけて自分の行動を知らせておきながら逆手を読んで・・・と考えていること自体が、彼の闇討ちが失敗する甘さであったのだ。(それはブルーノによっても語られる。)ここでガイは何を思ったのか、拳銃をブルーノに返却する。当たり前のようにブルーノは拳銃をガイに向ける。そもそもガイは何のために拳銃を持って来たのか?父親に相談するためならば拳銃はいらないし、殺人の容疑がかけられている自分の立場を悪くするばかりであることは容易に予想できる。さらには拳銃をブルーノに渡し、自分の命まで危険にさらしてしまう始末だ。挙句の果てに屋敷から脱出したガイが帰路に着くころ、ガイの部屋の電話が鳴りっぱなしであったことから彼が部屋から抜け出したことが監視員にばれ、ますます彼の容疑は深まってしまう・・・。この一連によって、ガイには想像力が決定的に欠如していることが知らされる。

その一方で、唯一想像力を働かせていたのはガイの愛人であった。彼女はガイとブルーノの不可思議な行動とガイの妻の死を結びつけ、ガイを問い詰める。(ここでようやくガイは彼女に一部始終を告白するわけであるが、この話し方も「自分を疑ってください」とばかりの下手な説明である。)ところがそんな彼女は何を思ったのか、たった一人でブルーノの家を訪ね、ブルーノの母親に相談する。「息子さんをどうにかしてくれ」と。もちろん息子がかわいくてたまらない母親は息子の行動を信じることなく笑うばかりである。そしてブルーノの家なのだから当たり前なのだが、彼女はブルーノに脅迫される。「ガイのライターを殺人現場に置いてきて、彼に罪をかぶせてやる」と。ついに映画の中で観客が願うべく賢明な行動をとる人物は、姿を消してしまうのである。

愛人から一部始終を知らされたガイは、ブルーノのその行動を自分で阻止するのだと言って聞かない。しかし、彼にはテニスの試合が待っている。忠告を忠実に守る彼には試合を棄権することなんてできない。試合に3連勝し、ブルーノを追いかける、という計画を練るのである。もちろん上手くいくわけがなく、彼はなかなか試合に勝てず、コートから出ることができない。時間はどんどんすぎていく。そのころブルーノはドジを踏んでライターを下水道の中に落としてしまう。慌てて「何とかしてくれ」と周囲の人間に懇願するが、周りは動いてくれない。仕方なく、彼は自分で下水道に手をつっこんで、なんとかライターを取り出す。この、テニスの様子と下水道の様子とがカット・バックで見せられる。なんとも緊張感の高まる演出のはずが、その裏にひそむばかばかしさゆえに笑いがこみ上げてくる。

ライターを何とか取り戻したブルーノと、試合に何とか勝利したガイは遊園地のメリーゴーランドの上で決闘する。そしてそのメリーゴーランドは、技師が流れ弾をくらってしまったせいで、超高速で回転を始める。超高速で回転するメリーゴーランドを「危ないから」と言って止められない警察官、愛しい我が子が乗っているからと泣き叫ぶ母親、「俺が止める」とメリーゴーランドの下にもぐりこみ、命がけで止めようとがんばるおじさん。渦中の木馬に乗って「面白い」とはしゃいでいる子供は、バカまるだしの映画の登場人物らを素直に笑っているように見える。そんな中、足元のおぼつかない舞台をあえて選んで、ガイとブルーノは対決する。対決、といっても「ライターを返せ」と追いかけっこするだけで、そのライターが決定的な証拠にはならない、という事実をすでに見落としている。がんばりやのおじさんのおかげでメリーゴーランドは急停止するが、あれだけ高速だったものが急に止められれば、誰でも予想がつくように、メリーゴーランドは崩壊してしまう。そして、下敷きになり死にそうなブルーノに対してガイは「ライターを持っているだろう」と問い詰める。ブルーノは「そんなもの持っていない」と言い、かけつけた警察は「持っていないと言ってるぞ」と、彼の持ち物を調べもせずにつっぱねる。ブルーノが息絶えると彼の手からライターがのぞく。ようやく警察は「これは証拠になる」とガイの容疑を晴らし、ハッピーエンドとなる。ところが、大切なことを見落としたままである。なぜなら、ガイが「交換殺人を持ちかけた」という容疑については解決されないままなのだから。

この映画は何も成立していないし、何も解決していない。ただ2人の人間が死に、平凡な技師が流れ弾をくらっただけだ。超高速でその場をぐるぐると回るだけで決して前に進もうとしないメリーゴーランドが、2時間の映画の中で全く進歩しなかった彼らを乗せて回転し続ける・・・この壮大なアクションシーンがクライマックスにおかれ、まさに崩壊してしまう。これを本作に対する痛烈な自己言及的な皮肉と取るか否かは、もはや見る人の自由である。