先日、大学の論文として提出した文章です。
リチャード・フライシャーというアメリカの職人監督の作品『見えない恐怖』について論じたものです。何冊か参考文献挙げさせてもらっていますが、その中に、つい先日出版された『B級ノワール論』(吉田広明 著)があります。フライシャーについて的確な指摘がなされていたと思います。文章も一部引用させていただき、未熟ながら反論もさせていただきました。
日本ではDVD化されていない作品です。なかなか観ることができないと思うので、あらすじを書いておきます。
あらすじ
【☆マークのついた茶色のブーツの男が映画館から意気揚々と出てくる。彼の右手には銀のブレスレットがはめられている。一台の車が通った瞬間、男のブーツに泥水がかかる。気付かず通り過ぎていった車は近くの家の前に止まり、1人の少女を乗せるが、Uターンして来たところをブーツの男に止められる。通行の邪魔だと訴えられたブーツの男は、黙って運転手の顔を確認すると、車を通らせる。
車が大きな邸宅の前に止まる。運転手はこの邸宅の主人である。先程乗せた少女が運転手の妻と娘に出迎えられる。彼女はどうやら目が見えないようだ。
盲目の少女の名前はサラといい、昔なじみのイトコの家に遊びに来ているらしい。
翌日、サラが近くの牧場の経営主である恋人のもとに出かけている間に、ブーツの男が邸宅に訪れる。数時間後サラが恋人の車で戻ると、邸宅の前でジプシーの男が家の様子を伺っている。2人はその男に気付かず、恋人は仕事へ行ってしまう。サラが家の中に入ると、玄関に銀のブレスレットが落ちている。その他、カメラは邸宅内の異常な様子を捉えていくが、盲目であるサラにはそれらが見えない。さらに、イトコ家族の帰宅が深夜になると聞いていたサラは、静まり返った家に何の疑念も抱かない。いるはずの庭師の返事も聞こえないが、とくに気にも留めない。そのままサラが眠りに着いたとき、カメラは、サラの隣のベッドで横になったイトコの死体を捉える。
翌朝、早くに目を覚ましたサラはバスルームへ向かう。手探りでお風呂の準備をしていると、たまったお湯が赤く染まっていく。バスタブには血まみれの伯父の死体がある。しかし、盲目であるサラは気がつかない。お風呂の準備が終わりかけた頃、恋人が朝の乗馬に誘いに来る。やむなくサラはお風呂を諦め、乗馬へ向かう。彼女が通り過ぎたリビングには胸から血を流した叔母の死体が見える。
乗馬から帰ったサラは再びバスルームへ向かう。ついにサラは家の中の異常さに気付く。
助けを求めて邸宅の外へ出ようとしたサラは、致命傷を負った庭師の声に立ち止まる。彼は犯人の姿を目撃しており、犯人がブレスレットを取りに戻ってくるであろうことを告げる。サラに指示してブレスレットを拾わせた庭師はそのまま息絶えてしまう。そのとき、
ブレスレッドを失くしたことに気付いたブーツの男が、サラの住む邸宅にやってくる・・・。】
『見えても見えなくても恐怖』
※カブ※
リチャード・フライシャー『見えない恐怖』を、観客に“犯人がわかるまで”と“犯人がわかってから”の2つに分類して考察する。
“犯人がわかるまで”の約80分においては、「目」の存在しない空間における語りが映画の多くの部分を占めており、観客が視線を同一化できる人物が「盲人」であるため、知覚する情報量に次第に差が開き、その同一化は中断させられ、観客は感情移入するというよりはむしろ、観察者の位置に立って展開を眺めているような心地にさせられる。そして生まれた「我々(観客)とサラ(主人公)との間の視線の不均衡」が本作のサスペンスの原動力となっていることは既に指摘されている。(『B級ノワール論 ハリウッド転換期の巨匠たち』吉田広明、作品社、P275-276)
それと同時に、カメラはその存在を意識させるほどに、意思を持ち、よく動き、観客に何を見るべきなのかを指示する。ところがその指示は、ときにミス・リーディングを誘う、観客の視線(解釈)を操作するものである。
物語の冒頭から、白い星マークのついたブーツと銀のブレスレットが繰り返しクロースアップで強調され、それらのアイテムが今後の物語展開の鍵となることが暗示される。その後、サラの住む屋敷の前で中の様子をうかがうジプシーの男、屋敷内の数々の異変に続き、庭師の不在、といったような事柄が、観客にのみ提示される。ところが、終盤に近づくにつれ、その観客にのみ与えられたあらゆる情報が、観客を惑わすための罠でしかなく、真犯人は観客の疑念とは全く別のところに存在していたことがわかる。
観客が屋敷内の異変を徐々に認識していく中で、繰り返し提示される庭師の不在(、また、彼の仕事着である黒いブーツが脱ぎ去られていること)により、まず我々は庭師に対して疑念を抱く。次に、ジプシーの男・ジャックであるが、この人物の場合は服装まで犯人の断片的な映像と似通っているばかりではなく、銀のブレスレットという共通点を持っており、それを隠そうとする父親・トムの行動によって更に疑念が深まってしまう。さらにその他の登場人物も、犯人と同じようにブルーのジーンズ、茶色のブーツという格好であるがために、観客は同時に複数の疑念をかきたてられる。ところが真犯人は、その疑念の対象となるべく存在している彼らのうちの誰でもなく、「犯人の特徴は青いジーンズに茶色のブーツである」とインプットされてきた観客にとって、全く疑念の外の人物であった。真犯人は犯行時の衣服と普段着を使い分けた上で、カメラの前に姿を現していたのである。ここで観客は、それまであらゆる情報を与えられてきたことによって想像力を狭められ、またその情報量と相反して、フレーム外の出来事に対して「盲目」であったことを知らされる。つまり、「観客という一見客観的で全能であるかに見える存在が、フレーム設定によって、話者に対して視線の劣者になっている」(同著、p276)といえる。
サラが初めて殺人を知覚するシーンの演出について、「盲目の視覚そのものが我々に(映画に)「見え」ないのと同様、「見える」ことそのものは我々に(映画に)は「見え」ない。たとえサラが死体に触れ、驚愕した場面を見せたとしても、その「見え」た感覚を心理的に納得するばかりで、世界の変化そのものを我々は「見る」ことはできない。・・・ここで彼は、さりげなく映画の限界に触れている」(同著p276)との指摘がある。しかし、この指摘に対しては、いささか疑問を抱かずにはおれない。指摘されたシーンでは、それまでサラのあらゆる知覚を執拗に見届けたカメラが、このバスルームのドアの前にいたっては立ち止まり、見届けることを拒否した。確かに、「世界の変化そのものを・・・」という指摘に対しては多少納得するが、その一連の指摘は本作のラストシーンにおいては必ずしも言い切ることはできない。ラストシーンにおける「サラが犯人の手をつかむ」「驚愕したサラの表情のクロースアップ」という連鎖により、フライシャーは盲人の知覚をあっさりと描いてしまっているからである。では、なぜカメラはドアの前で立ち止まるのか。それはこの時点において、観客はまだ「話者に対して視線の劣者」であること、つまりフレーム外の出来事に対してはどう頑張っても「盲目」でしかいられないということの暗示と考えられないだろうか。
そして、“犯人がわかってから”のラスト5分において、スティーブの家で保護され安心したサラはまたもやバスルームに向かう。しかし、このときはカメラも彼女と共に中に入り、いち早く犯人の全体像を捉える。ここで、犯人の姿を捉えるや否やカメラは犯人の視線と重なりながら、サラからブレスレットを奪う機会をうかがう。犯人がサラの脱いだズボンのポケットを探り続けていると、ふとしたきっかけでその手をサラがつかんでしまう。そして驚愕したサラの表情のクロースアップ、である。そして続くシーンにおいて、バスタブに沈められようとするサラを見つめる犯人の視線に切り返して、サラの視点にカメラが置かれ、今にもおぼれそうなサラの視線を映像化したような描写がみられる。ここで、それまで「カメラの視点にすぎなかったものが登場人物の視線に読みかえられ、それがさらに観客の視線に重ねられることで、観客は登場人物が見たものを見るという特権的なポジションを獲得する」(『ヒッチコック「裏窓」ミステリの映画学』p45)のである。(これを、話者と同等の視線であると言い切るのは難しい。)ここでやはり奇妙なことに気付く。その視線の持ち主は「盲人」なのである。「登場人物が見た」であろう視線を獲得したにもかかわらず、その視線は登場人物には本来見えていないものなのである。
もちろん、盲人の視線への切り返しの例は珍しいわけではない。例えばサシャ・ギトリ『あなたの目になりたい』のラストシーンにおいても、盲人である男性を見つめる女性の視線ショットの切り返しに、明らかに男性の視点にカメラを置いて撮影されたショットがつなぎ合わされている。しかし、この場合は、盲人である男性の想像が視覚化されたショットであるとも考えられる。では、『見えない恐怖』の場合もサラの想像の視覚化であるということはできるだろうか。否、ブレスレットに刻まれた名前すら知ることを許されなかったサラの場合は、犯人の顔や服装まで想像することはできない。フライシャーはこの場面において不可視なものの可視化、という面で「さりげなく映画の限界に」というよりも「映画の可能性に」触れた、のではないだろうか。
一見想像力を引き立てる効果的な情報を盛り込んだ画面、さらには登場人物の動きを先取りしたカメラワークは観客に、自分は観察者で、「全知覚者」であるとの錯覚を与える。ところが、それは巧妙にコントロールされた知覚でしかなく、与えられた情報の中で犯人を特定することなどできない。その一方で、主人公が「盲人」であることによって、観客は視線の同一化の対象を失う。つまり上述したものと合わせて、見ている映像は「カメラの視線にすぎないこと」を常に意識した鑑賞をさせる演出が行われているといえる。そしてラストシーンにおいても、一見登場人物の視線と観客の視線を重ね合わせるような演出をとりながら、その視線の持ち主が「盲人」である事実により、それがやはり「カメラの視点」にすぎないことを再確認させる。思い起こせば、一番最初のショットが映画館の入り口であったことや、エンディングテーマを劇中で主人公が聴く、といった事柄を含めて、この映画はまぎれもなく「フィクション」なのだということにフライシャーが自覚的である、と考えることもできるのではないだろうか。そして、同監督のもたらす物語展開の巧妙さが観客を魅了し、それらの目配せに対し「盲目」にさせている、というのもまた事実なのである。
参考文献
『B級ノワール論 ハリウッド転換期の巨匠たち』(吉田広明、作品社)
『ヒッチコック「裏窓」ミステリの映画学』(加藤幹郎、みすず書房)
参考映画
『あなたの目になりたい』(サシャ・ギトリ、1943年、フランス、90分)