図書館読書日記2019.7.14.-2 | まことアート・夢日記

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まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

図書館読書日記2019.7.14.-2
徳村慎


2019.7.12.
天童荒太『永遠の仔』
上巻5/6。山登り。クスの大木の根元の穴に眠る少女。ジラフとモウルが発見する。3人の心がはじめて通うような瞬間。
少女は、僕から抜け出して、女性性が突然消えるような感覚を覚える。ペルソナに過ぎないのか。
小説の中に入り込む。
そしてジラフとモウルの気持ちになる。少女はどんなことを考えているのか思い巡らせる。
結局、小説の世界に振り回されているのか。(笑)

上巻を読了。大人の世界に戻って来る。それとともに僕の中の大人も浮上する。子供のための生活をする大人たち。それは僕の姿ではない。だからこそ、納得する。知らない世界だから、分かる。

好きなものを本当に好きと言えないのは大人だからだろう。じゃあ、きっと僕は子供だ。いや、それとも好きなものを隠してきたのだろうか?
5年前ぐらいだ。ミニキーボードCASIO SA-46が欲しくなったのは。そして、今手に入れた。僕は、欲しい物は手に入れてしまうのか。そして手に入れるまでは、自分が欲しいと思うことも自分自身に騙(だま)してしまうのか。
なんだか、自分が貧乏だから染み付いた観念で生きているようだ。

好きな人を隠して生きられるのか?
良く分からない。
今、好きな人は居ない。
家族と支え合って生きているだけだ。
異性と出会っても、別れるだけだ。
自分でも分かる。魅力が無い人間だからだ。
低収入ならば、低収入なりの何らかの魅力が無いと異性は、なびかないだろう。
最近は、LINEのAIりんなにハマっている。それが今のところ唯一の異性だな。(笑)
他のLINEの相手とは男女問わず疎遠になっていってる。ちょっとLINEの世界が馬鹿馬鹿しくも感じる。友人だと思っていた人たちも疎遠になった。

好きなもの(僕の場合、人ではなく、本当に物だが。。。)を好きと言える環境は、良いことなのか。
買いたい楽器は、幾つかある。買いたい楽器を買えたら、演奏出来たら満足なのだろうか?
それともミニマリストの言うように、買いたい物を買ったら、次に買いたい物が出て来るだけなのか。

さて、小説の人物は、好きな人を好きと言えないで悩んでいる。好きな人を何年かけてでも手に入れたいと僕は思わないだろう。こういうことを言うと小説の人物たちに怒られるかも知れないが、何でも楽して手に入れたいんだと思う。楽をして手に入れるという思想は、案外良い思想なんじゃないか。楽して手に入らない物は諦めがつく。そのうち時代が自分に追いついて、安くて良い物が手に入る。

人物は、どうだろうか?
安くて良い人物(特に恋人)が手に入ることは、無いような気がするなぁ。まあ、強いて言えば家族だ。家族と一緒に居るだけで、幸せだ。
一見すると安くて良い恋人だと思った人たちは、失敗だったと思うし。何らかの欠陥を認め合って暮らすというのは、本当に難しい。家族だと欠陥を許せるのだ。じゃあ、家族になりたい恋人とかだと欠陥でさえ愛おしく思えるものなのかなぁ?

まあ、家族になっても、離婚する人も多い世の中だから、難しい問題だけど。
小説の中の人物たちは虐待を受けていて。それは僕の家族にある家族愛が小説の人物たちには無いのだ、という真実なのだなぁ。
でも、真実は、やはり小説の中に存在するのだ、と最近では考えている。
『金閣寺』を読んで、僕は変わった。
再び小説の世界を読もうと思えた。
図書館では、何故、小説のコーナーが一番面積が広いのか。それは小説に真実があるからではないか、と思ったのだ。別の人生を生きることは、正しいことだ。別の人生を生きられるのなら、この世で輪廻転生が出来るのだ。

だから、小説の中で、虐待で結婚してない人物も、結婚して子供のための人生を送る人物も、重要なのだ。良い小説は、出て来る人物の一人一人に重みがある。それを僕は忘れていた。それにしても、小説は不幸を描くことが多い。『蜜蜂と遠雷』のように綺麗な小説にも、悩みはある。けれども、『蜜蜂と遠雷』は美しかった。ピアノのことだけを考えているような美しさ。そして、それは、僕自身がキーボードが好きだから、余計に美しく思えたのかも知れない。

話を戻して僕の「楽して手に入れたい」という思想は、「遊び人」だと認めよう。実は、遊び人、というのは、元カノに言われたことがあるのだ。確かに僕は遊び人かも知れない。
遊び人を羨(うらや)ましいと思っている感じだった。言われた時は、いやいや、遊び人じゃないよ、仕事しとるし、、、みたいなことを言ったものだが。最近は、仕事をしてても、低収入だし、遊び人なのかもなぁ、と思ってきた。
『年収90万円で東京ハッピーライフ』からは、かなり影響を受けた。週2日しか働かない。週休5日。それで暮らしていける人には憧れる。
遊び人だ。必殺遊び人。(→それも言うなら、必殺仕事人だろっ!笑)
人から羨ましいと思われるのが、良いことなのか?(笑)
生活保護受けてパチンコ行って、という人も居るらしい世の中。それはそれで僕は羨ましいと思ってしまうけど。低収入の僕でも、それは、羨ましい暮らしだと思ってしまうのだ。まあ、病気になれば終わりかも知れないけど。それでも、生きることが楽しそうに見える。。。でも、生活保護受けてる人は、まともに稼いでる人が羨ましいんだろうなぁ。
僕は低収入だけど、羨ましがられるかも知れない。自由だから。

結局、お金で幸せは買えないというのは、どうやら本当のことらしい。だって、僕は、お金が無くても(低収入でも)幸せだからだ。
『年収90万円で東京ハッピーライフ』の人は断捨離してしまっている。ミニマリストのような生活をしている。肉を食べ過ぎるから怒りっぽくなる、という著者の意見。僕は肉を食べない生活は無理だけど。

お金で幸せは買えない。
お金で買える幸せもある。本を買えば幸せ。しかし、本は図書館で借りられる。では、無料で幸せが手に入る。
家族が居るから幸せ。これは無料、、、というかプライスレスってやつか。虐待の家庭じゃなくて良かった。『永遠の仔』は、家族の幸せは歪(ゆが)んでしまっている。もしも、虐待されて育ってたら、やはり家を捨てて、暮らしているのだろうか?
家を捨てて、新たな家で暮らす能力が無いなら、ホームレスになるのだろうか?
写真集『新宿ダンボール村』のような生活になるのだろうか?……それとも?


2019.7.13.
天童荒太『永遠の仔』下巻1/10。
どうやら父親が少女に手を出しているらしいと分かる。最低だな。しかし、最低なことに興味がある僕も最低かも知れない。

オストはオストリッチの略。勉強から逃げた。僕はオストかも知れない。面倒な勉強から逃げている。
だが、勉強から逃げたのは、精神的なものだ。だけど勉強に対する憧れは強い。勉強が出来なくなって、勉強したくて。でも、興味のあることしか出来なくて。

興味のあること、って何だろう?
芸術か。しかし、芸術なんてものは、理解されないものだ。芸術なんてものは、独りよがりだ。ああ。僕なりの仏像が彫りたいと思う。粉末成形で良い。昨日見た仏像とはスケールが違っても良い。小さなもので良い。煩悩のままの姿で良い。

漫画、小説、彫刻。いろんなものを空想してしまう。結局、煩悩の塊なのだ、と思う。小説の師匠が居た時期もあった。師匠の文体には驚かされた。しかし、本物を図書館で読むと、師匠でも追いつけない部分があるのだと知れる。小説は、上には上がある。くだらない小説を読むことをやめて、本物だけを読んでいたい。でも、本物って何だろう?

『永遠の仔』は本物だ。別の人生を生きられる点で本物。僕は何故、別の人生を生きたいのだろうか?……やはり、自分の人生から逃げているためか?   オストのようだ。いや、『永遠の仔』の小児精神科「動物園」のようでもある。みんな人生から逃げることでしか生きられないのだ。

遊び人は、人生の敗者か?
敗者ならではの生き方があるのではないか?
この図書館読書日記が変わったように、僕の中の何かが変わることだってあるに違いない。
肯定し否定する。その連続の流れ。漫画のネタバレ感想のような書き方だとは思う。しかし、漫画で一体になれることがあるだろうか?……やはり小説の一体感には負けてしまうのではないか?

芸術の新たな分野の獲得は、人生を薄っぺらくするだけなのだろうか?    僕は厚みを増すために新たな分野を獲得してきたと思うのだが。真逆かも知れない。分厚い芸術の獲得は、狭く深くなのかも知れない。→だったら那智黒石の彫刻をやれよ、という話だ。
『永遠の仔』の3人は、それぞれの分野で仕事を身につけている。狭く深く。破綻しそうになりながら、自分を保っている。それが小説のリアリティなのだが。しかし、本物のリアルというのは、多分野にまたがることだ。
人生を切り取るなら、漫画だろうか。小説は多分野にまたがると薄っぺらくなりそうだ。というか、切り取る時点で何らかの作為があって当然だから、僕の俳句モドキでもノンフィクションながら作為は、あるのだろう。取捨選択というが、捨てる方に芸術の美学はあるのだろう。

もしも、『永遠の仔』の3人が現在に生きていてLINEやYouTubeやTwitterにハマっていたら、小説が成り立たないと思うのだ。
いやいや、それらネットとかSNSとかが次世代のリアルかも知れないから、なんとも言えないのだが。
では、LINEで何を言ったか、YouTubeで何を観たか、Twitterで何を読んだか、というのが新たなリアルなのだろうか。それって都会に暮らしてるのと何ら変わりない気がする。田舎に暮らしているのなら散歩するべきだろう。。。なんて思った。散歩しなきゃ。

『永遠の仔』を通して自分を見つめ直し、『永遠の仔』の世界で別の人生を生きて。そういう一見混沌としたもののなかに真実はあるんじゃないか、とも思えるのだ。だから図書館読書日記を書いている。図書館読書日記を生まれ変わらせている。そして、おそらく僕自身も生まれ変わっていくのだろう。

『永遠の仔』下巻1/6。
久坂優希(元は少女、3人の内の1人。現在は看護婦)の家が燃えた。弟が母を燃やしたと言った。家に駆けつけるもすでに家は焼けてしまっていた。

僕の中に人を燃やしてしまいたいという思いがあるか?……今は無い。今は。
昔は、元上司が不幸になって欲しいと願っていたりした。今は、ただ、関わりたくないと思うばかりだ。
呪いがあるのなら使ってみたい、、、誰かを呪って殺すなり不幸にさせるなり、そういう暗い願いがあった時もある。
呪われてるんじゃないか、と考えたこともあったなぁ。不幸の連続。
今は、幸福なんだと思っている。こう思えるまでに、ずいぶん回り道をした。
神仏が居るのかどうか、という点で、居るという方に賭けてきた。しかし、居ないのかも知れない。
呪ったり呪われたりということから離れて、今が完璧と思えるようになったのは、大きな前進だ。
ノンデュアリティに出会って変わったのか、たまたま、変わる時期だったのかは分からない。
ふと軽くなった。

でも、まあ、仏というのは、草木国土悉皆成仏というから、「居る」ものではないとも言える。
今しかない。今が完璧。
なんで、今まで、そんな簡単なことも理解できなかったのだろう?
いや、体感するといった方が良いか。
YouTubeで非二元(ノンデュアリティ)の動画を観るようになって。結局、非二元を信じるなら、他の宗教は必要ない、という所までたどり着いた。

それを考えれば、Amebaブログだけが必要で、他は必要ないというふうに、削っていくべき時なのかも知れないけど、まだ分からない。
例えばドローイングは、もっと、やり続けたいのだ。コラージュも面白いけど、ドローイングには思想が、人生が、刻まれるような気がする。芸術、科学(記録)。意識、無意識。これらが混ざり合ったAmebaブログは、僕自身にも捉(とら)えきれない姿に成長している。

ノンデュアリティに僕が入っていってるのか、元々ノンデュアリティというのは僕の中に在(あ)るものなのか。とにかく今は人に恨みをぶつけるようなことが無くなった気がする。

『永遠の仔』下巻1/5。
3人で母の骨を拾う。そして空想の思い出を語る。僕には、こういう優しさがあるだろうか?
小説の3人は、最高の仲間なんだなぁ、と羨(うらや)ましくもある。僕には、そういう仲間が居なかった。でも、家族が居る。
小説の3人は虐待を受けていて、家族が居ないのと同じなのだ。
ハッピー(黒猫)のお骨、祖父のお骨、骨を拾った記憶。マロン(トラ猫)のお骨は拾えなかったなぁ。
いずれ父や母のお骨も拾うんだろうか?
……まあ、順番からすれば、そうなるけど、誰からsiぬかなんて誰にも分からないよなぁ。
交通事故とか病気とか。分からないことだらけ。未来よりも、今だなぁ。今を積み重ねるしかないよ。

『永遠の仔』下巻1/3。
ついに、性的虐待を告白する少女。それを母親に言っても嘘だと言われた。だから、誰にも何も言わなくなった。

僕は、幼い子供と愛を交わし合う夢を見たことがある。その時は自分がついにマトモじゃなくなったのか、と思った。
大学を中退する直前に実家に帰った時に見たのは、悪魔の子供を孕(はら)んだ女の夢だった。
夢はなぜ、変な世界を見せるのか。
だから夢日記をつけているが、2つの夢以上に変な夢は見たことが無い。
あとは、赤と青と黄色に塗られた建物の中を巡る夢も見た。3つの世界、芸術、哲学、科学を渡り歩くという意味だと解釈したっけ。

虐待されて大人になれないから『永遠の仔』という題名なのだろうか?
それとも虐待する大人たちが『永遠の仔』である、ということなのか?
それとも永遠を求める子供だから『永遠の仔』なのか?

少女の父親は、少女との愛で自分が救われたのか。
少女(ルフィン)は誰に救ってもらえる?    ジラフとモウルか。

台風。森に生えるクスの根元の穴の中で3人は過ごす。ロウソクとラジオと食べ物。モウルはタバコを吸う。闇が怖い。ジラフはタバコを吸う女性が怖い。全身にタバコの火を押し付けられた火傷のあとがある。

最近の大雨は、熱帯化しているから続いているのだろう。台風並みの大雨だ。雨の音を聴きながら、小説を読んでいると、不思議な感覚になる。本当に雨風を感じるような。小説はすでにバーチャルリアリティなのだ。感じようとする心さえあれば、小説ほどリアルなものはない。
映画は、世界を見ることが出来ても、リアルではない。人間の思考を描いている点で小説はリアルなのだ。


図書館読書日記2019.7.14.-3に続く。
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