図書館読書日記2019.7.14.-1 | まことアート・夢日記

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まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

図書館読書日記2019.7.14.-1
徳村慎



*『新宿ダンボール村』

『新宿ダンボール村』は、写真家が毎日通える場所に居たからこそ、生まれた写真集かも知れない。
構図とかよりもドキュメンタリー性の高い写真として訴えかけるものがある。

**ドキュメンタリー:虚構を用いず実際のままを記録した性質を持つこと。

しかし、報道写真とも違うのだ。
報道は、事件が起きた時にしか写真を撮らない。写真を撮った迫川尚子さんは、毎日通ったという点が違うのだ。

ダンボールの家にペインティングした人が居て。ダンボールに短歌が書かれてあったり。(おそらくは捨てられていた)雑誌を100円で売ったり。猫が飼われていたり。

何かアートのようなものを感じる。生き様がアートになるのは、社会彫刻と呼ぶんだったなぁ。

ダンボールに憧れを持つのはあくまでも外部の人間であって、内部の人間は、そこから脱したいという思いでいるのだと書かれていた。なるほど。僕もストリート音楽に興味があってYouTubeで観てたりするけど。ストリートというのは、いろんな角度から見てみると奥が深いものらしい。

東京がホームレスを受け入れなかったのは行政の悪か。のちにホームレスに住居を与えたのは良かったと思う。


*『作曲上達100の裏ワザ』

楽器をすぐに弾けるように準備しておく、とか。五線紙を用意しておくとか。あとは、あえて弾きにくい楽器でやってみるとか。照明で朝の気分(さわやかな曲)、昼の気分(編集する)、夜の気分(ムーディーな曲)と変えてみるとか。意外に、そういうテクニックが役に立つ気がする。

あとは、メロディをリズムから考えるとか。3回繰り返して3回目を少し変えるとか。スケールで考える、モードで考える。ペンタトニック(5音音階)のドレミソラ(ド)、ドレファソラ(ド)、ドミファソシ(ド)で考える。別のジャンルを組み合わせてみる。音ネタを聴きやすく整理する。レコーダーを持ち歩く。
壮大な曲の場合は跳躍音程。長いフレーズが浮かばないなら短いフレーズを重ねて作る。起承転結を意識。

コード進行については別にメモった方が良いと思う。なかなか使える考え方なのが、安定(弛緩)→不安定(緊張)→安定(弛緩)というコード進行。C→G7→C。なるほどなぁ。7thは不安定なのか。
そこから複雑なコード進行を学ぶけど。難しい。


*『mizutamaさんの毎日イラストレッスン』

面白い。こんな小さなイラストが描けたら楽しいのにな、と思う。うーん。ユングが言うところの僕の中の女性性があるのだろうか。以前は、自分のことをパンダのぬいぐるみで表現してたけど、LINEでは、少女のスタンプが自分っぽくて好きだなぁ。うーん。別に、少女になりたいとか女装したいとかじゃなくて、僕(男性)の中の女性性だと思うなぁ。

僕は、自作小説で、少女に生まれ変わる物語を書いたことがある。SF小説で科学技術によって生まれ変わるのだ。僕の中に少女になりたい願望があるのだろうか?……というか、すでに僕の中には少女が居るような気がする。でも、性転換したいとか男性を好きだということではなく、上手く言い表せないけど、女性性なのだなぁ。

少女が僕の中に居るのだとすると、少女を好きなのは当たり前の話なのだ。イラストの描き方の本で、こういうことが考えられるとは思っていなかった。



*天童荒太『永遠の仔』

次第にかつての仲間のような大人が集まっていく。かつての仲間たちは虐待されていて動物の名前で呼ばれていたらしいことが分かる。一体どういった虐待だったのか。

看護士の女性、法律事務所を立ち上げた男性、警官の男性。それぞれの人生が再び交わる。

子供の頃のこと。世界が終わると考えているジラフとモウル。2人と海で出会う少女。

少女の父親が死んだのは事故だったのか?
なぜ少女は入院していたのか?

小児精神科のようなところへ入院する少女。
退院の時には山登りをする。霊山だから願い事を叶えてくれると信じている。

2019.7.11.
『永遠の仔』目分量で上巻の3/5を読んだ。
やはり3人が殺したのは父親ではないか?……と思えてしまうのだが。
主人公の弟が過去を探ろうと思いつく。

上巻の2/3。
3人の共通した思い出したくない過去。
そして今起きている事件。

上巻の3/4。
ひょっとして連続殺人魔は、昔、虐待されていたとかか?
動物園の子供たちは自分を守るために症状がある。
症状が人を守っているのだ。
読んでいて、いろんな人のことを思い出した。ある人は、父親にお風呂を覗かれるのが嫌だったと言っていた。また別の人は兄弟が目の前で交通事故にあったと言っていた。また別の人は性的な虐待をされたと言っていた。

僕自身は、子供の頃の憧れで音楽を続けているのだと思う。兄の持っている楽器に憧れていた。でも、使うと兄が怒ったのだ。美術ばかりやるようになった。しかし、今考えると、美術も才能が無かったんだなぁ、と思う。

才能が無いと思うけれども、それを詳しく書くべきかも知れない。続ける才能は、あったのだ、と。上手くはないけれど。子供の頃の強烈な体験がコンプレックスとなって僕の芸術を支えている気がする。つまりは、続ける才能とは、病気のようなものではないか、とも思う。病気と紙一重の部分で芸術は生まれているのだとすれば、なんと哀れなものか。人間は哀れで、芸術は崇高で。不思議と笑えてくる。

ノンデュアリティの動画を観ると、面白いことに気づく。子供の頃の洗脳が今の人格(ダメだ、と思ってること)を作ってるのだ、と。洗脳だと気づいていない洗脳があって。親とかテレビとかから得た「そうだよなぁ」という情報が信念となり洗脳されているのだと。面白い考えだ。

僕は、絵が下手だと気づいた。
親や先生なんかが上手いと持ち上げてくれていたのだと思う。一種の洗脳かも知れない。逆に下手だと思い込んだものがあるのかも知れない。見つかっていない得意分野のようなものが、あるのかも知れない。。。って自分探しで40歳って痛いなぁ。(笑)

音楽も、それほど才能は無いのかも知れない。
結局、からっぽな自分しか居ないような気もする。
続いてることが才能だとしたら、音楽は才能あるけど、レベルの高い心を打つ演奏が才能だとしたら、才能は無いような気もする。

読書は、続いている。けれど、正確に読めているかどうかは自信が無い。まあ、小説というのは、そもそも正確に読まなくても良いんだと思うけど。

ダメだと思ってるから悟りを得たいのだ、とノンデュアリティの動画の人が言っていた。確かにその通りだ。『永遠の仔』の主人公の少女時代の山での神秘体験(ブロッケン現象)も、何かを得たいと思った時に現れた。

『mizutamaさんの毎日イラストレッスン』のところでも書いたけど、主人公の少女に思いを重ねることが出来る。それは特殊な能力ではない。小説を読むという行為は、そういうものなのだろう。自分の女性性にスポットを当てた場合、新たな人生が開ける気がする。慈愛とか。占いのような。良くは分からないけど。男性の中の女性性をアニマと呼ぶらしい。ユング心理学の本を読んでも、イマイチ分からないのだが、、、。アニマは理想の恋人像なのだと思っていた。若い頃は男性から見た女性像は、肉体的な恋だ。しかし、歳を取ると精神的な恋に変わる、という。


読書日記2019.7.14.-2につづく。
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