ドローイング2019.3.22.-2
徳村慎
これぐらいシンプルな方が良い。
結局、太陽なのか。
太陽と樹木。
回転運動は、パウル・クレーっぽい。
クレーっぽいんだけど。円相でもあって。
樹木は、円相に近づこうとしているんだけど、永遠に円相には、なれない。
永遠に円相には成れない樹木は、僕自身だ。
などと物語を作ってみるのは、人間の性(さが)かとも思う。
じゃあ、物語を消して絵だけを見てみるというのか?
樹木は貝のようにも見える。動物と植物、死物と生物が共存した地球なのかも知れない。
いいや、これも解釈だ。言葉なのだ。
円が美しいのは、中心から等距離にあって、しかも中心が無いところにあるのか。
中心が無い円は、もはや、宇宙空間のようなものだろう。梵我一如。これも、言葉だな。インナー・スペースとアウター・スペースが一体になるのも言葉だ。
いや、一体感は、言葉ではなく、身体か。
太陽は、無限に思えて有限だ。しかし、僕が生きている限りの話で言えば永遠性を持っているとも言える。
宇宙と自分であるのか。そこには隔たりがあるものなのか。2つ描いているから、非二元になりたくて、なれない自分のようにも思える。円相に、おいでおいで、されてるんだけど、円相に近づけない樹木が自分で。
1というのは、すごく絵画にとっては、難しい問題なのだ。1という絵画を描くには、まだ、修行が必要で。修行というのは、、、何だろう?
悟りたいけど、悟りたいと思うのも欲望であって。すでに、手に入っているものを捨てて進化するというのは、あまりにも西洋絵画(などの芸術や哲学や諸科学などなどの西洋的な進化論)ではないか。
そこで、お茶やお花といった、日本の芸術が日本の身体性にあっていると考えると、僕が捨てたのは、西洋なのか。それとも、日本であるのか。
日本の美は、西洋絵画の歴史と違い、元から完成しているのだ。
とすれば、僕は、僕独自の間(ま)だと思ってるものも、すでにDNAとかに組み込まれている美だったりする気がする。
最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます。
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