感想『正法眼蔵』「仏性」巻、現代語訳 | まことアート・夢日記

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夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。


感想『正法眼蔵』「仏性」巻、現代語訳
徳村慎


本当に分かりやすい現代語訳が無料で読めるのは、本当にありがたい。興味のある人は是非検索して読んでみてもらいたい。


無常仏性とは、漢文のように読めば、「仏性に常が無い」ということになるのだが、これでは間違った読み方らしい。「無常は仏性である」と読むらしい。

無常が仏性で、空の雲のように絶え間なく刻々と変化していくものや、日々新たな細胞に生まれ変わっている身体が仏性なのだから、これは大変なことだ。

無常と空は似ている。同じことなのかも知れない。

無常観なんて中学生の頃には知識として習うが、実感が湧いたのは今年鬱になってからだ。それは諦念だ、と言われればそうかも知れないが、無常だったのだ。鬱になると言葉が頭に入らなくなる。ただ、ここを抜けてしまうと逆に言葉が胸に響くようになる。響き過ぎて、虚しくなるぐらいに。

草木国土悉皆成仏。なるほどその通り。アニミズムだね。それが悉有仏性から、悉無仏性へと変わる。しかし、本当のところ、意味は変わらないのだ。

仏性が有るのではない。無いのでもない。元々仏なのだ、という解釈で良いのだろうか。

即心即仏、非心非仏といった禅問答の言葉もそうだ。

国土が仏性なら、地球だって宇宙だって仏性なのだ。そう考えれば、奇跡によって生きる自分が、当たり前に思う(日常生活を送る)ところにも、仏性らしさみたいなものを感じる。すでに人は仏(仏性)であるのだ。人だけでなく全てのものが仏性なのだ。

うーん。ネットで読んでいるワンネス(非二元)に似ている気がする。まあ、ワンネスの考え方の方が後に出来たものだろうけど。

禅とは悟った後の日常である、という解釈は、京極夏彦の『鉄鼠の檻』(てっそのおり)に書かれていたことだ。

これから、どんなことが書かれているのか、『正法眼蔵』の現代語訳を読み続けたい。


最後まで読んでいただきまして、
ありがとうございます。
ヽ(o゚ェ゚o)ノ