徳村慎
本当に分かりやすい現代語訳が無料で読めるのは、本当にありがたい。興味のある人は是非検索して読んでみてもらいたい。
無常仏性とは、漢文のように読めば、「仏性に常が無い」ということになるのだが、これでは間違った読み方らしい。「無常は仏性である」と読むらしい。
無常が仏性で、空の雲のように絶え間なく刻々と変化していくものや、日々新たな細胞に生まれ変わっている身体が仏性なのだから、これは大変なことだ。
無常と空は似ている。同じことなのかも知れない。
無常観なんて中学生の頃には知識として習うが、実感が湧いたのは今年鬱になってからだ。それは諦念だ、と言われればそうかも知れないが、無常だったのだ。鬱になると言葉が頭に入らなくなる。ただ、ここを抜けてしまうと逆に言葉が胸に響くようになる。響き過ぎて、虚しくなるぐらいに。
草木国土悉皆成仏。なるほどその通り。アニミズムだね。それが悉有仏性から、悉無仏性へと変わる。しかし、本当のところ、意味は変わらないのだ。
仏性が有るのではない。無いのでもない。元々仏なのだ、という解釈で良いのだろうか。
即心即仏、非心非仏といった禅問答の言葉もそうだ。
国土が仏性なら、地球だって宇宙だって仏性なのだ。そう考えれば、奇跡によって生きる自分が、当たり前に思う(日常生活を送る)ところにも、仏性らしさみたいなものを感じる。すでに人は仏(仏性)であるのだ。人だけでなく全てのものが仏性なのだ。
うーん。ネットで読んでいるワンネス(非二元)に似ている気がする。まあ、ワンネスの考え方の方が後に出来たものだろうけど。
禅とは悟った後の日常である、という解釈は、京極夏彦の『鉄鼠の檻』(てっそのおり)に書かれていたことだ。
これから、どんなことが書かれているのか、『正法眼蔵』の現代語訳を読み続けたい。
最後まで読んでいただきまして、
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ヽ(o゚ェ゚o)ノ
