図書館読書日記2018.11.18. | まことアート・夢日記

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まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。


図書館読書日記2018.11.18.
徳村慎

☆再び借りた本

『面白いほどよくわかる!   哲学の本』

『インド哲学10講』

☆新たに借りた本

『わが家の母はビョーキです』

『わが家の母はビョーキです2』

『はじめての「禅問答」    自分を打ち破るために読め!』

『人生最期のことば   時代をつくった83人』

『邪馬台国への旅    日本全国・比定地トラベルガイド50』

『奇形全書』


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僕も、夏には鬱になってたのだが、今度は家族がどうも鬱らしい。抗鬱剤を処方されているらしいのだが。「なんのために生きてるのか分からない」とLINEで言ってきた。

「なんのために生きるのか」これは重要な問いだ。十人十色。100人居れば100もの答えがあるだろう。ある人は自分の仕事について言うだろうし、またある人は趣味について言うかも知れない。衣食住さえあれば、あとはどうでも良いという人もいるだろうし、たっぷり眠ることが幸せだという人も居るだろう。

キルケゴールは「死に至る病」という言葉を使った。つまり、なんのために生きるのか、を解決できないのは、やがて死に至る病気だと言うのだ。

『哲学の本』は考えるきっかけを与えてくれた良書だった。ほぼ、読み終えている。あとは重要な点を写すだけ。

僕は何のために生きているんだろう?
趣味は色々あるけど一言で言うならブログだ。ブログに俳句モドキ、夢日記、絵画、書、写真、図書館読書日記、音楽日記などを載せるのが楽しいのだ。

今、ネットで見つけた『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の現代語訳を読んでいる。まあ、若者ことばで言うと「『正法眼蔵』ヤベぇ」って感じだ。(笑)
般若心経の解釈を映画『マトリックス』を見て考えてた頃から比べると、その般若心経をも取り込んだ、『正法眼蔵』は凄い書物なのだ。

今日は、図書館で、あれもこれも読みたいと欲が出て、色々借りてしまった。それに加えてネットでは『正法眼蔵』とかマンガアプリGANMAとかもあって、楽しんでいる。GANMAの中で好きな作品は『連弾ノオト』『腸よ鼻よ』『丼とこい!』などである。他にも面白いマンガが多数あるけど。

最近見てあまりにも影響を受けたドキュメンタリー映画はRyuichi Sakamoto:codaだ。
Eテレで深夜に放送されていて、これぞ、目指す音楽だな、と思った。というか、これは、乗り越えるべき目標としては、あまりにも大きいので、同じようなことをやれれば、それでいいか、と思ったのだ。あとは小室等のアルバムNO GOOD WITHOUT YOUをラジオで聴いたのが大きい。ギターボーカルとピアノ。ボーカルは時折口笛に変わる。坂本龍一は、60の時に死ぬまでのあと20年で読みたい本リストを作ったという。死ぬまで新しい本を読みつつ、古い本も読み返していたら、僕も40歳だから、あと40年しかないのか、と思う。

『わが家の母はビョーキです』1、2を借りたのは、僕も統合失調症だからだ。最近は妄想で大学時代もライブをやってた、ような気がしてたまらない。実際はやってなかったと思うのだが、あまりにもリアルな過去の妄想に、ひょっとしたら、ライブをやってたのが本当の過去なのではないか?……などと考えてしまうのだ。でも、まだ、迷惑をかけない妄想なので良かったと思う。こういう、ありもしない成功体験を誇大妄想と呼ぶのだろうか?

自分が好きなことをトコトンやれるのが、生きている証だと思う。今も、この文章を書いて、休む時にギターを弾いた。「若い頃のように指が動かない、ピアノがどんどん下手になっている」というのは坂本龍一の言葉だ。ギターだって同じだ。押尾コータローも確かに凄いし憧れたけど、Li-sa-Xの登場は決定的だ。単音弾きでもレベルが違いすぎて再現は不可能なのだ。けれども弾けないから、そこでギターをやめるという選択肢は無かった。ああ、僕ってギターが好きなんだなぁ、と思う。

『はじめての「禅問答」』は『正法眼蔵』や禅を理解したいから借りた。

『人生最期のことば』は、坂本龍一が死に対して考えていることから無意識に借りたのかも知れない。

『邪馬台国への旅』はネットで畿内説と九州説があるけど、どちらにも国があって、合併したのだとか、あるいは、九州の国だったのが、畿内に首都移転したのだ、とか。そういうのが面白かったので借りてみた。

『奇形全書』は、人間の奇形について扱っている本だ。タイトルに惹かれて借りた。乳房の多い女性とか、顔の皮膚が垂れ下がった人とか。これらも、南方熊楠の『十二支考』の影響だろう。

まだまだ書きたいことはあるが、結論。生きる目的は、足元に落ちていることが多いのだろう。その足元に落ちているものに気づき拾うことが出来るかどうか、で鬱から脱出出来るかどうかが決まるのだと僕は思う。

けれども、鬱は簡単には脱出出来るものではない。生きる目的を拾うには、どうすれば、いいのだろうか?……たぶん、生きてる実感を分かりやすく求めるのが必要なのだろう。たとえば汗をかくとかが、良いのだと思う。


最後まで読んでいただきまして、
ありがとうございます。
(≧з≦)