絵画『鳥』
徳村慎
仕事と趣味というのは分離している。
しかし、分離しているようで、同じものかも知れないとも思う。うーむ。難しい。
僕にとって仕事とは何か?
僕にとって趣味とは何か?
うーむ。難しい。
仕事でやっている那智黒石の彫刻や磨きの完成度と、趣味の完成度を求めないものも、実は同じなのだとも思う。
仕事だから頑張れる、趣味だから頑張れるというのは、それぞれに正解であって。うーむ。難しい。僕はこんな書き方の文章で言いたいことにたどり着けるのだろうか?
アール・ブリュットが好きで。アウトサイダー・アートとか児童画とか落書きとか、その辺りとシュールレアリスムが結びついていて。絵画の無意識の表出とか、無意識の意識とか、逆に意識の無意識とか、そんなことが気になっていて。
アール・ブリュットの真似からはじまってもいいのかな、ということだったり。
いや、全ての絵画(などの芸術表現)はアール・ブリュットだ、とも言えるわけで。
絵が下手な人は、絵が下手なことによって個性が際立つのならば、絵が下手なままで良いのではないか?……と思う。
そうなると、教育というのは邪魔なものでしかないのかも知れない。
うーむ。これも僕の言いたいことのようでいて核心に迫れていないなぁ。
アール・ブリュットの真似がしたい、という思いと、絵が上手くなりたいというのは、本当に真逆なのだろうか?
絵の全てをものにしたいという考えから生まれるのが、全てを真似たいという思いではないか?
例えば、芸術系の大学を卒業して、全く絵を描かなくなった人と、僕のように中退して絵を描いているのはどちらが幸福なのか?
いや、これも少し違うなぁ。
絵の代わりになるものが見つからないと言う点では、絵を描いてる方が不幸かも知れないしなぁ。
ただ、クリエイティブな人は幸せだとは思う。じゃあ、やっぱり絵を描いてる方が幸せなんだろうなぁ。絵が写真になってる人だって幸福だし、小説になってても幸福なんだろう。でも、クリエイティブなことが何もない人は不幸なのだろうか?
うーむ。難しい。
アール・ブリュットをやってる人って、自分は幸福だと感じているのだろうか?
たぶん感じているんだろうけど、もっと生きることに芸術が接近しているんだろうなぁ。
じゃあ、納豆卵かけご飯を食べて幸せってのと変わりないのか?
と言えば、何かが変わってる(違っている)気がする。
鳥は飛べないのか、飛べるのか、分からない。分からないような鳥なのだ。
うーむ。今回は結論が出ないまま、文章は終わるのだ。これで、いいのか?
最後まで
読んでいただきまして、
ありがとうございます。
ヽ(≧▽≦)ノ
