絵画『オロチ』
徳村慎
大切な人に何も与えてあげられない無力感を受け流すのは、瞑想的な絵画ならでは、といえる。
絵画をなぜ描くのか?
なぜ下手クソな絵画を描くことに意味があるのか?
なぜ、小説でも音楽でもなく絵画なのか?
"「いまなぜ絵画なのか」の言い訳めいた論点をクリアにせねば「新しさ」の意味がつかめないといった風なのだ。"とは2003年の美術手帖に書いてある言葉なのだ。
もっとも原始的な絵画を描いている。線描。水墨画で身につけた技術を発展させれば、シンプルな線になったのかも知れぬ。
原始人になりたかった。
アボリジニの大昔の壁画をTV番組『世界の何だコレ!?ミステリー』で観た。MCの雨上がり決死隊が、宇宙人ちゃうんか?、とつぶやいていた壁画。ああいう時代に戻りたいのだ。
紙と鉛筆の時代は過ぎ去り、タブレットに描く時代なのだ。今やそんな時代なのに、僕は紙と鉛筆を選ぶ。そして、ラスコーやアルタミラの壁画のように、線描を選ぶ。
無意識のほとばしるイメージだろうか?
これは無意識なのか?……フロイトやユングの時代に戻ったのか?
デッサンは狂い、狂ってるからこそのデッサンなのだ、と開き直る。バスキアのような落書きアートをも取り込みたい。
しかし、ここでは、僕の絵画に説明がなされていて、絵画の解説は小説じみた文芸の領域であるとも思える。
抽象画とか具象だとか、そこに興味はなくて、作為や無作為だとかにも興味はない。いや、興味はあるのだが、そこに集中することはない。受け流す。絵画とは禅であることよ。受け流すから、絵画=禅なのだ。
今日は朝に散歩した。これからは定期的に散歩して身体を動かしたい。そうすれば気分がスッキリすることに気づいたのだ。身体を動かして気分が良くなるのなら、散歩=ヨガだ。
しかし、散歩しすぎている人ならばしないのがヨガになるのだろうか。身体を休めることがヨガになると思う。僕の場合は身体を動かしてないから、散歩=ヨガだ。
うーん。何が健康にとって良いんだろう?……身体も心も健康に保つには、何らかの努力が必要な年齢ということか。
じゃあ、僕の絵画が健康的か?
と問われれば、描いてる時は本人は健康的なのだ、と答えるしかない。
それにしても、オロチとは何者なのだ?
……やはり、不安とか、生きたくない気持ちを怪物で表現しているのだろうか?
……僕も時折、そんな気分になるからこそ、散歩や絵画を再開したのである。
iPhoneから送信
