感想
京極夏彦『魍魎の匣』
本当に読んで良かった。実は図書館で1度は読んでいるんだけど。ストーリーはまるっきり忘れていて。こんなに面白い本だったか、と。
SFなんだよなぁ。戦後を舞台にしたSF推理小説といったところか。映画『マトリックス』的な発想とか。
僕がこの本の登場人物で誰が一番自分に似ているかを考えると、どうにも関口なんだよね。巻き込まれて巻き込まれて他人に影響されまくって。(笑)
作中の魍魎についての解説も凄くて。これだけ人文科学で攻め込む小説も中々無いんじゃ無いかな。
最後に関口が想像する雨宮が良いんだよね。雨宮は好きな女の子が上半身だけの存在となっても愛していて。ここも僕の感情が揺さぶられた。
実は以前Amebaブログで僕が書いた小説に両腕の無い少女が出て来るんだけど。実はTV(たぶん、世界まる見え、だったと記憶する)で見た少女がモデルで。両腕が先天的に無いのに凄く明るくて前向きで。で両腕の無いギタリスト(男の人)の真似をして足でギターを弾いたりしてて。んで、ここも重要なんだけど顔がめっちゃ可愛くて。だからこんな少女を生き生きと小説に描きたい、と書いた。(その頃観たエヴァンゲリオンの映画とも自分なりに絡めたやつ。)
んで、雨宮の気持ちね。ああ、分かる。何かが欠けた存在であっても好きなものは好きだし、可愛いものは可愛いのだ。まあ、極論を言ってしまえば、僕らは皆んな欠けた存在だと思うし。
その意味では関口、雨宮、久保なんかにも自分(の分身)が居て。科学的な視点である美馬坂とかも自分だなぁ、と。
だってレオナルド・ダ・ヴィンチが人体解剖をしたのは科学的な視点でしょ。慣れの問題はあるけど、科学的な冷徹さも僕には持ち合わせている気がする。
……こうして考えると、この小説が多視点で描かれることに意味があるのだと思う。誰の気持ちも正解というか。(もちろん社会的というか法的にダメな気持ちも含めての話。)
だからリアルなのだろう。誰の気持ちも自分がこの立場ならこうしてるよ、という意味で。
京極堂が喋るのには、あんまり自分を重ねてないけど。強いて言えば、こうして感想とか日記を書いてる時の饒舌な自分に近い。
幸せを手に入れるのは、現状に満足することだ。雨宮はそういう意味では悟っているとも言える。父性愛か少女愛かは分からぬとは書いてあるが。この際どちらでも良い。読者の好きな方を選べば良い。少女が死んでしまっても、ずっと手放せない存在だったんだ。干物のようになってしまっても。それは僕の持っているぬいぐるみとも同じではないか?
僕が死ねば全ては焼かれてしまうのかも知れない。僕の持っている全てはゴミとなるのかも知れない。那智黒石は残るだろうか?……それもハッキリとは分からない。もしインターネット上のデータが死後も残る可能性あるなら、それも面白いとも思う。僕という存在が地球上から消えても写真や言葉が残るなら僕の存在の証明になる気がする。考古学者みたいなのが那智黒石を掘り当ててくれるのも面白いが。まあ、実際には10年ほど更新が無ければブログの中身なんて削除されてしまうだろうけど。
そうなると都市伝説を作って投稿した方が生き残るかも知れない。その都市伝説を読んだ誰かが似たような都市伝説を作り伝えていく。それがずっとつながるのだ。それも面白い。
永遠の命とはそういったものかも知れない。芸術の永遠性に想いを託す。
雨宮の幸せは一瞬の中の永遠だったのだろうか?……少女が干物になれば永遠の物となったのだろうか?……やたらと幸せそうな姿の雨宮の想像で小説は終わる。僕は今、湯上り気分のような気持ち良さに包まれている。
徳村慎
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