感想
『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』
マザー・テレサ[ホセ・ルイス・ゴンザレス・バラド編]
渡辺和子[訳]
キリスト教の世界観は深い。この薄い本に詰まる少ない言葉の量でも、理解するには難しい。マザー・テレサはカルカッタで貧しい人たちを救った。
私たちは、人々と出合うために、自分から出かけて行かねばなりません。遠くに住む人にも、近くにいる人にも、物質的に悩む人々のところにも、精神的貧しさを味わっている人のところにも。
この言葉の重み。凄み。これに出会ってマザー・テレサを尊敬している人が僕に会いに来た理由が分かった気がした。その人は会う(接近する)ことで救いになると考えていて、僕は遠ざかることが僕の救いだと判断していた違いがあるのだろう。僕も悪かったと思う。理解が出来なかった。今でも理解出来るかは分からない。ただ、理解しようとすることは出来る。……この一文が書けたら目的のほとんどは達してしまったのだ。あとはダラダラ感想を書くだけだ。
他の人間からすると可哀想な人間なのかも知れない。そんな人間の愛憎をコントロールすることは果たして救いであったのか、という問題も、もうどうでも良い。僕を羨ましいとも思われると感じるからだ。何も考えずに生きてるのは僕だけかも知れない。それなりに考えるが、考えを述べる頃には理解されないだろう時間のズレがあるし、やってることを全て理解してくれる人間なんてこの世に居るわけがない。どうせ嫌われて死ぬんだから、僕を好きな人間なんて無理に作る必要もない。それが僕の作る仏。僕だけの仏になっていくだろう。こんな僕が他人に与えられるとしたら那智黒石だけなのだ。
与えること。愚かな人間である僕が愚かな人間の代表のようにして伝えるには那智黒石しかないだろう。リューターを握ればスーパーマンに成れるというわけではない。誰もが成れるが誰もがあえて成らないような人間かも知れない。だからオンリーワンである可能性もある。技術ではない。哲学でもない。ただ、なんとなくそう思うのだ。
貧しい人々の中でも最も貧しい人々は、私たちにとってキリストご自身、人間の苦しみを負ったキリストに他なりません。
精神的に僕は貧しいだろうか?……と考える。しかし、キリストではないのだから最も貧しい人々ではないのだろう。分け与えることが大事なのだろう。難しい。そう考えていると次の言葉が書かれていた。
貧困を創り出したのは神ではありません。私たちこそ、その張本人なのです。神の前に、私たちは皆、貧しい者なのです。
じゃあ、貧しい者同士が助け合おうという話になるのか?……確かにその理想は美しい。貧しい者たちが手に手を取って笑いあう。
真の愛は痛みを生む原因となります。イエスは十字架上で死なれました。母親も、一人の子どもを生むためには、苦しまねばなりません。もしあなた方が本当に互いに愛し合っているなら、犠牲を厭(いと)うことはできないはずです。
これは凄い言葉だ。これを実行出来る人はキリストなのかも知れない。キリスト教の凄さなのかマザー・テレサの凄さなのかは分からない。しかし、愛は痛みであると考えて愛を与えることは苦しみにつながらないのか?……僕だと苦しむだろう。マザー・テレサの言葉を読んでいると聖書をもう一度読み返したくなる。
貧しい人々は、私たちのお情けを必要としていません。彼らが求めているのは、私たちの愛と優しさなのです。
確かにそうだ。中途半端なお情けでは人は救えない。僕は自分自身を救って来たけど人に救われたことは少ないと感じている。そしてその中で身につけた思いといえば家族が大事という基本だ。何があっても裏切ることがない気がする。どこまでを家族として考えるかが難しいのだが。兄と父と母は確実に家族なのだろう。こんなちっぽけなコミュニティしか持っていないが、このコミュニティだけが信じられる。僕は僕らしく生きられればそれでいい。
私は親切にしすぎて間違いを犯すことの方が、親切と無関係に奇跡を行うことより、好きです。
次第に心のもやが晴れて来た。『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』を少し読んでは感想を書くことを繰り返す。だからこの感想は僕の心が救われていく体験談でもある。僕の無知が引き起こすのかも知れないが、読んでいるとマザー・テレサの言葉の中に仏を感じるのだ。ああ、自分は狭い考えで生きているのだな、と感じる。キリストの中にも仏があり、仏の中にもキリストがいるのだと思う。こんな無知がまかり通って良いのか、と自戒しようとするのだが、どうしても仏を感じるのだ。
神はその力を現し、思いあがる者を打ち砕き、権力をふるう者をその座からおろし、見捨てられた人を高められる。
これは聖書からの引用らしい。全く僕は思い上がった人間だったし、周りに愛をもたらさなかった。僕が苦労しているところは神からの試練、つまり贈り物なのかも知れない。
貧しい人の中にもキリストがいるのである。とすれば貧しい人の中にも仏がいる、という言葉に言い換えられる。僕の中にはどんな仏が宿る時があるのか?……みんなの中にはどんな仏が宿るのか?
「お互いにほほえみ合いましょう。奥さんにほほえみかけてください」
(中略)
すると一人が言いました。「マザー、あなたは結婚していらっしゃらないから、おわかりになっていないのです」。
「いいえ、私も結婚しているのですよ」と私は言い返しました。「イエスさまが私の手に余るたくさんのことをおさせになる時には、私もイエスさまにほほえむのがむずかしく思える時があるのですよ」。
僕はもう結婚出来ないと考えているが、マザー・テレサは神と結婚していたから、人と結婚しなかっただけなんだなァ。僕も女神と結婚することを夢想してみるか。そうすると幸せになれるかも知れない。(笑)
執着心から、捨てられないものの何と多いことでしょう。すべてをイエスに差し出すためには、所有物は少ない方がよいのです。
捨てられない楽器類。本。昔描いた絵とか。僕は何にこだわっているのか?……執着心が僕を貧しくしているのだろう。
パンを一切れ差し出したところ、少女はパンを細かく、かけらにちぎり、小さく小さくして食べ始めるのです。
「そのままお食べなさい。遠慮せずに。お腹が空いているのでしょう」と私は言いました。すると少女は私を見つめて、「でも、このパンを食べてしまった時、まだ、ひもじいに決まっているんだもの」と答えるのでした。
恋愛でもなんでもそうだ。いずれ消えるのならいっそ経験しない方が良いと考えてしまう。僕は確かに貧しい心を持っているのではないか。僕は心の中に仏やキリストを持つことが出来るだろうか?
読了して心がスッと軽くなった。こんなに凄い人が世の中には居るのだ。同じ人間として存在するのだ。本当に大切なことは何か?……分からないがスッとしている。瞑想をした直後のように。キリスト教は言葉の祈りを大事にする。そして言葉を行動にまで高めた人がマザー・テレサなのだ。心がスッとしたい人にはちょうど良い本なのだと思った。
徳村慎
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