小説『教育』
徳村慎
*注意!
あまり真剣に読まないでね♡
1.教育について
こんな人間に育てたい、という思いで育てても案外子育てなり教育なりが上手くいった試しがない。だいたい、自分を育てられなかった人間が何を言うのだ、と呆れられるだろう。
これは古今東西の教育論が机上の空論とまでは言わないにしろ理想論であり教育者である先生が立派であっても教育に向いていなかったりするのだから仕方がない話だ。
「いやぁ、立派な先生ですねぇ。○○っちゅう賞も取っとるそうで。すごいですなぁ」でも教え方が上手いなんて聞いたことがないな、なんてね。
ましてや現在は非常勤講師の数が多いのだ。いわゆるアルバイトの先生である。昔と違うのだ。親のクレーム対応に体罰が出来ないことでの生徒からのイジメもある。しかもバイトで身が入らないこともあろう。教師に教育をさせるという方法自体に無理がある時代なのかもしれない。
では、どうやって教育すべきか。
とりあえず本屋にでも行っとけ。
本屋でビジネスマン向けのコーナーに行けばスティーブ・ジョブズが禅の考えを持っていただの、朝勉強すれば人生がひらけるだのの本がたくさんある。
ミュージシャンになりたければシンセはこんな機材を使えと言わんばかりの雑誌もある。まあ、雑誌のスポンサーがその機材のメーカーであったり小売の楽器店であったりするので、そんな雑誌を読んでもみんなの使っている機材しか書かれていないのだが。かく言う僕もプロがどんな機材を使っているのか楽しみに立ち読みをしていたりする。
今売れてる家電も雑誌に載っている。ライターの責任で評価しているものもあるにはあるが、これも大抵スポンサーがついているのだ。
たとえばルンバという円形のロボット掃除機がある。これを作っている会社はオリジナル商品として販売する。しかし、何年かすれば後発の類似商品が出回っている。開発費がかさまないぶん後発の家電メーカーの方が儲かっている可能性さえある。
そういう大人の事情を子供はいち早く察知して創造よりも模倣で生きるほうが楽だと思い込むかもしれない。
確かに模倣は楽だ。聴いてるJ-POPの元ネタが海外アーティストがすでにやっていることであると気づいたときの衝撃。そして音楽のルーツをさかのぼりダンス系からロックへジャズへクラシックへエスニックへと聴きあさったりする。
しかし思うのだよ。音楽史をあさって新たな音楽を作る場合はマイルス・デイビスの提唱したフュージョンしか作れないと。今の音楽産業はリミックスに近い。ループ素材を用意して貼りあわせれば誰でもそれなりの曲が作れてしまうのだ。コピー&ペーストだから模倣ですらないのかもしれない。
自分の売れたスタイルがひとつあれば、そのマイナーチェンジだけで芸術家は食っていく。新たな実験や冒険で何かを生み出す時代は終わったのだろうか。
こういう時代なのに親たちは勝ち組だの負け組だのと言いはやす。勝負に乗っかる気力をなくした大人たちは物欲を強引にねじふせて断捨離だの田舎暮らしだのと言って心の豊かさを求める。
ここまで書いてくると教育は荒廃しきった世界のようにも思えるが、逆に言えばチャンスだろう。本物の教育を持った教育機関なり先生は支持される土壌が出来ている。
では言おう。今こそ本物の教育が必要なのだと。子供たちもそれを望んでいるのだと。教育自体やこの社会に疑問を感じた子供たちが保健室登校や不登校になってしまうのではないかと。
本物の教育とは何か。労働者として社会の歯車になるのはカッコ悪くないよ、と教えることだ。地域社会に生きて各種サービスに支えられてその社会をほんの少し支える当たり前の存在。これこそカッコ良いのだよ、と言おう。
それでも「俺って役に立たないし」とひがむ子もいるだろう。役割に気づかず高望みをしてしまっているのだ。ミュージシャンや詩人になって人に夢を与えることばかり考えて今の自分をカッコ悪いと感じてしまうのだ。
ああ、何を隠そう、僕にもそういうところがあるのだ。自分をカッコ悪いと感じる瞬間があるのだ。だからこそ言おう。僕は子供の気持ちが分かるのだと。教育を受けて何になる、社会に出て何になる?……そう考えてしまう気持ちが痛いほど分かるのだ。
「かつての僕のようになるな」と僕なら教える。どう苦労をしたのか。どう失敗してきたのかを語るだろう。今、時代が求めているのは失敗を語れる人物であるのだ。
「いやあ、失敗、失敗。何がって?……人生だよ」何を言ってるんだ、この人は。でも、本当に失敗したんだろうなぁ、と周りは納得。
「ええか、本物の教育とはやな、自発的に学んでいくもんなんやで。僕の失敗から学ばなアカンで」
「自発的行動育成プログラム」なんてものを書けたらどんなに良いだろう。でも、それは頭の良い人にお任せして、僕は自発的行動につながる教育への想いなどからプログラムを想起出来るように書いていこうと思ったりもする。
親御さんはきくだろう。「先生。失敗から学べるのでしょうか?」
「うん。発明王エジソンは、このやり方をしてダメだとわかったのだから失敗ではない、と話していたそうですねぇ。いや、漢字の失敗という文字を見てるとなんだか敗(ま)けることを失うかのようにも受け取れますな。これは強引すぎますか。強引矢のごとしなんちゃって」
「それは光陰ではないんですか?」
「ええ。そうですそうです。昔、生徒にイタズラする先生がいて、淫行矢のごとしなんちゃって」
「先生エッチですね」
「私のはエッチ(H)が進化した愛(I)なんです。Hの次にはIがあるでしょ。ただのエッチではないんです」
「でもエッチじゃないですか」
「ムッツリスケベはいけない。ガッツリスケベじゃないと」
「先生、子供を預けるのは、やめときます。さようなら」
愛を伝えるのは難しい。
2.ガラクタドラム教室
これは小説である。だから、まず教育を受けさせるべく子供を調達しなければならない。こんなときに偉大な小説家ならば他人の子供を盗む。すなわち誘拐するのだが、僕は単純に子供を作ろうと思う。しかし、愛に満ちた描写をするのには経験が不足しているので、ここは兄の子供でいいだろう。つまり甥っ子や姪っ子が出来た、と考えるのだ。
甥っ子が音楽をやりたいと言い出すところからはじめよう。これは、掴みの大切さ、と呼びたい。
「あんな、俺な、音楽やりたいんやけど」
僕は答える。「じゃあ、楽器を使うか身体で音楽を奏でなアカンなぁ」そして読んでいる雑誌に視線を戻す。
「楽器はないから、身体でやるってどなしてやるん?」
「ヒューマンビートボックスはな、口で楽器をやるし、歌をうたうんなら今でも出来るやろ。まあ、楽器を自分で作ってみるっちゅうんも手やな。それか楽器になりそうなモンを探すかな」
「ヒューマンなんとかって僕でも出来るん?」
「おじさんは、1時間ぶっ続けで出来るぞ。ただ、これは大人の肺活量があったほうが楽やけどな。腹筋もあったほうがええし。そうなるとトレーニングに軽く走ったりするのがええかもな」
「俺、音楽やりたいんや。走りたいんちゃうわ」
「じゃあ、歌はどう?」
「歌を普通に歌うんは面白ないやん」
「楽器を作るか」
「俺、すぐに出来るのがええ」
「じゃあ、YouTubeでこんなんあったぞ。バケツドラム」
「じゃあ、俺もバケツ叩いてみるわ」
しばらく甥っ子はバケツを叩いていたが、同じリズムしか叩けなくて飽きてきたらしい。
「アカンわ。こんなんじゃ練習にならんわ。ちゃんとした楽器じゃないとアカン」などと楽器をねだろうと言う甥っ子。
「ちゃうやろ。リズムにバリエーションが無いから飽きるんやろ。お前、ツツタツ、ツツタツの8ビートしか叩いてないやないかよ。今から楽譜に書いたるから、このリズムをやれ」
「楽譜らゆうて、そんなん学校みたいで面白ないわ」
「じゃあ、ガラクタドラムは、もうやらへんのやな?」
「うん。諦める」
と、ここで諦められては教育の話が続かない。コッチも必死になって面白いリズムをアピールする。僕がバケツを叩く。ツッツタ、ツッツタ、ツッツタ、ツッツタ。「どうや。和太鼓みたいなリズムやろ」
「やるー。ちょっとスティック貸して」
そういえば、スティックがある設定なのだが、菜箸でも棒切れでも見つけてきたということにしとこう。あるいは隣のお兄さんからもらったとか。
そして、ある程度出来たところで、また、僕が叩く。ツツタツ、ツツタツ、ツッツタ、ツッツタ、タカタカタカタカ。8分音符の8ビートから和太鼓のようなリズムに移り、最後は16分音符でタカタカ叩く。これで3つのリズムの組み合わせが出来た。
必死にやって上達していく自分に興奮して気持ち良く叩く甥っ子。
「次はコレやな」
僕は8ビートのスネア(左手)の位置が変わるものを教える。ここからが、ようやくドラムの基本に入るのだ。この時期を、粘り強く教えていく飴と鞭、と呼びたい。10ある内の7~9は褒める。褒めまくる。そして間違ったリズムを叩いたときは叱るのではなく「こうした方が良い」と具体例を示して指導する。
ただ、厳しい指導者の場合は最初から叱るらしい。スパルタ指導である。もしも、「ガラクタドラムを叩きたい」という話ではなく、「世界的に活躍するドラマーになりたい」という夢を子供が抱くならその方が効果があるかもしれないが、つぶれてしまう可能性も高いのではないか?……スパルタはハイリスクハイリターンだろう。
(0)ツツツツ、ツツツツ。これは右手だけ。
(1)タツツツ、タツツツ。「タ」が右手のアクセント。
(2)ツタツツ、ツタツツ。アクセントが変わった。
(3)ツツタツ、ツツタツ。これは普通の8ビート。
(4)ツツツタ、ツツツタ。
これら(0)と(1)~(4)を練習することでかなりリズムの幅が広がる。はじめにやっていた(a)16分音符のスネアロール(タカタカタカタカ)や(b)和太鼓のようなリズム(ツッツタ、ツッツタ)も組み合わせれば7種類のリズムだ。
しかし、いきなりの高度なテクニックに挫折しそうにもなる。「こんなん出来へんわ」とか「やっとってもおもんない」とか「こんなリズム役に立たへんやん」とか言い出してくる。
ここは飴と鞭の教育でご褒美をあげることにしよう。点数カードはどうだろう?ひとつのリズムが出来れば10点与える。しかし、子供もなかなか賢い。「そのカードあったら、何になるん?」別に景品と交換するわけでもないのだ。う~ん。なかなか鋭いな。「よし、じゃあ、100点でお菓子と交換やで」と答えるべきか迷う。実際70点までしかもらえないのだから。これはカードが何の役に立つのかを考えられる子供の時点で気づくだろう。ヤバい。
ここで「お前はドラマーとして将来大成するんだよ!」というような嘘は言えない。「0点よりは、ええやんか?……10点、20点と上達していくんやから。0点よりはええやん?」とごまかす。
子供も大人の苦しみながらの答えに笑いながら「……うん」としか言えない。なかなか空気を読める甥っ子だ。
70点が取れたところで「お前はレベル2に上がった!」と宣言してやる。ドラクエのつもり。ここまで来るのに何日かかかっているだろう。雨の日も風の日もやり続けたかいがありました。金属のボウルか100円均一のフライパンを右手のハイハット用に買い与える。
なんなら、バケツドラムを作ってもいい。100円均一のゴミバケツにガムテープを張って打面を作るだけ。ちょっと昔のNHK教育的なノッポさん的なすんばらしいDIY。今はEテレって名前なんだよなぁ。くぅ~。おじさん、時代を感じるぜ。
そして次のステップだ。
(5)タツタツ、タツタツ。
(6)ツタツタ、ツタツタ。
(7)ツツタタ、ツツタタ。ロックンロールっぽいね。
(8)ツタタツ、ツタタツ。
(9)タツツタ、タツツタ。
(10)タツツ、タツツ、タツ。最後はシンコペーション。タツツタ、ツツタツ。ととらえずに3.3.2.でのっちゃう。
(11)タタタタ、タタタタ。右手と左手を完全に同じで。
ここまで出来て甥っ子はレベル3に昇格!……これで右手8分音符刻みでの左手アクセントは全て叩けるだろう。レベル3の110点にもなれば、ボサノバっぽいのも叩けちゃうぞ!
そしてレベル4に行くにはツッツッタツタ、ツタツッタ。を教える。それと右手8分刻みで左手のアクセントが16分でズレるもの全てをやるのだ。この辺りまで来ると自分が上達していくこと自体が面白いからやり続ける。言葉で褒めるだけでも持続する効果があるはずだ。
それにここまで来れば自分でリズムを考えてアドリブで叩けてしまうはずだ。これを発展への足がかりと呼びたい。
右手は100円均一のフライパン、左手をガムテープを張ったバケツドラムのバスとバケツをひっくり返しただけのスネアをドツタツ、ドツタツと叩けば上半身だけでドラムセットが完成する。これはタツタツ、タツタツ。と叩いているだけでバスとスネアを交互に左手を動かせば出来る。
この教育シミュレーションで分かった大事なことは、はじめてやる時にどれだけ興味を持たせられるかだろう。音楽の授業が嫌いでも出来る、と思い込ませなければならないし、かといって音楽理論は8分音符、8分休、16分音符、16分休符ぐらいは知っておかねばならないし。
ここまでのガラクタドラム教室の小説シミュレーションは、掴みの大切さ、粘り強く教えていく飴と鞭、発展への足がかり、という3つで構成される。これらは那智黒石体験講師をやっていて大切だと感じるところでもある。もちろんこの3つ全てが出来ているとは限らない。旅行者に向けた1時間の体験で出来るのむしろはマレだ。毎回出来るわけではない。
特に3番目の発展への足がかりは難しい。幼い子供であれば美術を好きになってくれるというので良いだろう。しかし中学生以上であれば美術の理論やテクニックに結びつく話が出来なければならない。こういう話はとかく才能のある子供だけに教えがちなのも事実だ。才能があるのはイコール美術が好きであることだ。好きだから努力もするし、美術の話も聞く。そこまで好きでない子供の場合は好きになってもらうところを考えなければならない。僕自身は美術の理論やテクニックを話したくてたまらないのだが、生徒のレベルなり目的なりに合わせる必要があるのだと思う。その方が生徒の満足度も高いだろう。
実際にも僕には甥っ子がいるが、現実には、ガラクタドラムをこんなに上手く教えられた試しはない。遊びとしてガラクタを叩いてみたいのと上達したいというのは違いがあるのだ。現実問題としては遊びから上達への移行が一番難しいだろう。中学生や高校生ともなれば、上達の味をしめてグングン伸びるだろうが、小学生以下だと興味の持たせ方が難しい。しかし、小学生だから幼稚園児だから集中力が無いというわけではない。何か集中力を身につけるための秘策があるに違いない。この集中力について次の項で述べたい。
甥っ子が言う。
「おじさん、ガラクタドラム叩いとったら、ドラム叩けるようになるん?」
「まあ、リズムは叩けるけど、手首の返しとかもちゃんとせなキレイな音は出やんし、腕の筋肉とかを痛めたるなぁ。YMOの高橋幸宏はデデデデッてスティックをドラムの打面に押し付けるように叩きやるらしいけどな。本当はスティックをタタタタッて叩いた瞬間に上げることが必要なんよ」
「でも、プロでも、そんな人おるんやろ?」
「いや、今からプロになるんやったら、その叩き方は、ちょっと……アカンな」
「どうせプロにならんし」
「そやな」
親心(先生の心)としては真剣にやってほしいのだが、貧乏なプロを目指させたくはなかったりする。(笑)
3.集中力と情報選択
実は僕は那智黒石の体験講師をしていて、色んな年齢の子供から大人まで教えている。しかし、ほとんどが旅行者で1時間ほどという制約もあり、「またこの子に教えたいな」と思っても生徒には会えないのだ。
それでも、いろいろな人を見てきた。集中力の高い子は6歳ぐらいで中学生並みの集中力を持っていたりする。大人のような発想力の中学生もいる。子供だけではない。美術的な趣味を持たない主婦が美しい磨き上げを行ったりもする。逆に美術を知っている人はこれまで作ってきた作品にとらわれて那智黒石の黒い色を上手く取り入れられずに作品が負けてしまうこともある。
しかし、上手いか下手かは、あまり集中力には関係ないだろう。もちろん将来的には集中力のある子供が伸びるに決まっている。それは「好きこそものの上手なれ」で練習量の多い者の方が伸びるに決まっているからだ。
「スポーツが出来る」というのも、幼い頃から外遊びをしている子供の方が基礎体力があって集中力が持続するから出来るのだとも言える。これが中学生のスポーツのクラブ活動までの決定的な差となっているにすぎない。天恵の才能という意味では人は大した差はないと言えるだろう。つまり遺伝要因よりも環境要因のほうがウェイトが大きい場合が多い。
3歳までに絶対音感を身につける方が良いという考えの教育者ならば遺伝に限りなく近い環境を設定していることになる。しかし、3歳では親が音楽家でない限り音楽家というものが把握できないし、自分の夢が周りから与えられたものだと知った時の10代半ばから後半での衝撃も大きいだろう。
その衝撃はそのままモラトリアム(準備期間)へと繋がる気がする。今や多くの人間が大学に行くが「大学で好きなことを見つければ良い」という安易な考えに染まっているように思える。
昔の多くの人にとっての大学はモラトリアムの場所ではなく就きたい仕事の資格を取得する場であったろう。太宰治の小説のような学問が出来ても仕事が無いような人間が溢れるのは、ソフトコンテンツを追い求めた現在の社会であるからだとも言える。
人はスマートフォンで情報が手に入る時代になるとスマートフォンの世界が、世界の全てだと認識するに至る。韓流や嫌韓だの福島原発だのISだの9条だの薬物所持や不倫のタレントだの、それが世界の全てではないし取るに足りない出来事ばかり。
例えば韓流も嫌韓も流行なのだし、原発の知識は必要だが風評被害は必要ないし、テロが正しいと思う人間に加わろうとすることも必要ないし、9条は確かに理想論としては出来ているが平和ボケた考えとも感じられるし、タレントが悪さをして叩いて儲かるのは結局メディア(主にTV局)だし。
それらの情報に踊らされているのは正直分からない世界だ。しかし子供にとっては確かに情報選択は必要だろう。
自分なりに世界をとらえることにスマートフォンを使う。しかし、その世界をとらえる過程で間違いが生じたらどうなる?……これが難しいのだ。
今年(2016年)に入ってからTV番組でヒッグス粒子について研究している外国の科学者たちのドキュメンタリーを観た。その後、ネットで調べていろいろと分かったことがある。
我々の宇宙自体が物凄い確率の低い可能性のひとつなのだという。偶然も偶然。当たり前だが、この偶然はロト6で当たるよりも遥かにはるかに、すんごく難しい確率に違いない。
その難しい確率の中でアミノ酸だのDNAだのは化学的に結びつくのだ。(イオン結合)
だとすると進化も結構な偶然で偶然人間が生まれて宇宙だの世界だのを認識するようになったんだと。
特に宗教は心の安らぎを得るには便利なのだが、科学的な根拠としての神は存在しない。というとオカルトマニアな僕としては物足りないのだが、科学的事実は事実として認めよう。
そんな奇跡の末に生み出されたのが奇跡的でもなんでもない社会の歯車の僕なのかい?……と考えて少し違うことに気づく。偶然で生まれたんだから天才なわけがない、という紛れもない事実。そして両親だって天才じゃないし、当たり前の教育しか受けていないのだから天才になれるわけない。と考えると笑いたくなる。
(1)日々のちょっとしたことに楽しみを見出して生きるのが人生なんだよ、と哲学的にはそこに落ち着く。
(2)アドラー心理学では幸せとは、自己を認め、他者を認め、人の役に立っていると思うこと、と定義する。
これら(1)と(2)の何行かの真理を求めて僕は四苦八苦して仏教経典や哲学書を読んでいたのかと自分を馬鹿にして大笑いしたい気分でもある。でも、そんな馬鹿な自分が好きだったりする。
物凄い集中力で役にも立たない情報の本を読んでいたのかもしれない。これも集中力と情報選択か。人は自分の間違いを言わねばならない。これこそが人に伝えて役に立つんだと信じたい。
今度は姪っ子を描こう。メガネをかけた漫画好きなオタク少女なんてどうだろう。それともメガネは無しが良いのか。まあ、そこはどうでもいい。
「明日地球が滅んでも私を愛してくれるの?……なんてきゃあっ♡」
「姪っ子よ。そんな漫画があるのかい?」
「おじさん、冷たい言い方ぁ。ひどーい。そんな漫画は知らんけど、明日地球がこなごなになったらって歌があるの」
「ほおー。おじさんも昔ノストラダムスの大予言って本を読んだわ」
「いや、そんなんじゃないって」
「そんなんにどっぷりつかるとカルト教団に入ることになるんやぞ」
「だから、でんぱ組.incの歌はそんなんちゃうからっ」
「なるほど。情報選択は出来とるんやな」
「おじさんこそ、柳田國男の『妖怪談義』ってヤバい本読んどるやん」
「民俗学はヤバないわ」
「ヤバいよ。山人ってのが出てくるんやろ。国内異文化交流。それってイエティとかサスカッチとかヒバゴンとかと同じやろ。妖怪とかUMAの存在ってヤバいやん」
「じゃあ、何か?……おじさんはヤバい人なんか?……こんなに純粋な目をしてるのにっっ」
「人の中身は目じゃ分からんやんか」
意外と今の子には情報選択の必要性などとかなくてもいいのかも。
「おじさんさぁ、恐怖映像の時にワア、とかデッカい声出すよね」
「出すよ?……悪い?」
「うん。まあ、悪い。近所迷惑。ってかあの場面絶対来るって分かるやん。幽霊出てくるTVの演出がさぁ」
「分からんし。わかっとっても叫んだるし。怖いし。あんなん観たあとは、いまだにトイレ行きずらいしさぁ」
「行けるやろ」
「だって、お化けがいるんだもんっ」
「いや、おじさんが言うてもかわいないからっ。で、見たん?」
「頭の中にイメージが浮かぶ」
「見たんじゃないやん。イメージやん。絵ぇ描く時も完成図がイメージできるのとおんなじやんか」
「お前、なかなか頭ええな。じゃ、じゃあ、神様はおるんか?」
「そんなん、おらんわ」
「わっからんぞお。神様おるかもよぉ」
「幼稚やわ」
ここで甥っ子登場。
「でもUFOはあるんやろ」
「アダムスキー型とかな」と答える僕。
「馬鹿2人おるー」
こうして馬鹿を演じて姪っ子に指導させるのもひとつの教育であるのだ。他人を指導することで自らを指導することが出来る。これぞ自発的行動の育成であるし、冷静に自分が他人に教えていることで、集中力と情報選択を身につけることを可能にすると思う。
4.周りまわった絵画の話
絵とは何か?
すごく難しい問いだ。……原始的な洞窟壁画が描かれたという。ラスコーの壁画とかそのあたりの話だ。原始人たちは動物を描く。描くことで狩猟が成功するようにと念じたとか、色んな意見があるが、とにかく絵が描かれたのだ。
しかし記号論の先生が言っていたのだが、言語があって記号があるのだ、という。
これは脳内の認識を言語と呼んでいる状態である。牛なら牛、犬なら犬と分けて認識している時点で言語であるとする意見だ。
そして同じ猫でもミケ猫とトラ猫とクロ猫は違うと認識する。似ているがうちで飼ってる「ミーちゃんというミケ猫」は近所で見かけるミケ猫とも違うとも考える。
そして自分が他人とは違う存在だと認識しているが毎秒ごとに変わりゆく自分を自分だと認識し続ける。
認識が絵であるならば、認識出来ないものは絵にならないのか?
実は違う。モチーフ(図)の周りに背景として描かれた色面(地)こそが認識出来なかったものであったりする。これが地と図の関係である。
そうであれば認識出来なかった地こそ大事なのだと考えることも出来る。だから抽象画家は全てを地と考えたりもする。
しかし、全てを地ととらえても図が追いかけてきて「俺がいるぜ」と主張するのだ。そこで境界線をなくそうと試みる。ラグビーでは試合が終われば敵味方が無いことをノーボーダーと言うらしい。しかし、境界を消してもこちらは何となく別の物であると認識すれば、それは図だ。全てを混ぜてしまえ、と画家は色を混ぜて色面を広げる。油絵の具を塗りたくる。
そして高校の美術教師あたりが何かをちゃんと描きなさいなどと言うものだから、せっかくのノーボーダーな遊びは終わる。
具象絵画になる。図が完全に決まると面白くない。写真の発明される前の絵じゃないか、と思ってため息をつく。
ため息を勘違いした高校の美術教師が「絵画は体力が必要なのだ」などと美術の身体性について述べたりするが、大して意味が無かったりする。
再び塗りつぶす。絵の具と戯れる快感にひたる。出来たものが具象であるとか抽象であるとかの概念を超えて絵の具と格闘をする。キャンバスはドロドロに汚れる。油絵の具は盛り上がり、立体へと変わりはじめる。マチエールだ。絵画のデコボコが固まってくる。この状態は美術室にあまり来ない子の方がキャンバスの上をいじくらないから出来上がりやすい。
砂利を入れてみようか、とか、新聞紙や色紙を貼り付けてみようか、とか色んな作戦が思い浮かび実行するのだが、どれもマチエールの域を出ることはない。時にパステルを固まった油絵の具の上に塗るのだが、それもマチエールの範囲内だ。
格闘に疲れて絵筆やペインティングナイフを置いてみてキャンバスから離れると、やはり絵画なのである。マチエールとはわずかなデコボコなんだな、と認識する。
粘土を取り出す。立体の造形だ。ぐにぐにと丸い形を作ったりする。抽象的なボール状のものから次第にコテコテの皮膚を持つ生命へと変貌する。
次にそのワケのわからん生命をデッサンしてみる。立体が絵画となり絵画の奥行きはどうしたら出るのか、などと考えて黒く塗りつぶしたりする。
しかし、空気遠近法では奥行きは明るい色だったりする。迷いの中で格闘がはじまる。平面を描きたくなって幾何学模様を描いたりする。
幾何学模様から何かの形が見えると具象を描きだす。シュールレアリスムのような不思議な世界に行く。あるいは具象の静物から抽象を取り出してみたりもする。そしてその抽象からまた具象を取り出す。レオナルド・ダ・ヴィンチは言った。「壁のシミも見とるとオモロイで。あれから怪物とか思い浮かぶねん」と。→なぜ、関西弁?(笑)
浜で拾った流木を彫刻刀で彫っていく。何かの形が見える。女性の身体だったりもする。彫り続ける。別の曲線が生まれる。また彫り続けると一応の形にまとまる。しかし、女性の身体のような流曲線が忘れられない。デッサンする。花びらのようだとも思う。動物と植物は流曲線で同じものだと認識する。
面を塗りつぶさず流曲線の線にも飽きて点々で描いてみる。点で構成されるのが、また面になったりする。線を重ねても面になる。面を壊そうと線や点を描く。繰り返すとノーボーダーの面が画面上に広がる。鉛筆画のマーク・ロスコ。そうか、やはり絵画の歴史が必要なのかと気づく。
絵画の歴史か。では新しいものは?
スーパーフラットは漫画を取り入れている。漫画の大元は日本画だ。急に線に目覚めて漫画と具象の中間をいってみる。
漫画は具象を飲み尽くして、飲み尽くし切れぬ部分が具象として残り、具象と抽象がせめぎあってクリムト状態になる。
そして花瓶のような曲線で小さなクロッキーを何枚も描き、自分なりに地と図の平面構成へと戻る。戻っては具象で埋め尽くしてみたりする。生と死こそ絵画の現場だ。生まれて死んで死んだところからまた生まれてせめぎ合う。
絵画は地球の歴史を歩みはじめる。植物としての線と動物としての面。そして建造物は幾何学模様。面の中に線が現れ、幾何学模様は面へと崩壊する。鉱物としての鉛筆画的なマチエールが出現してやはり混沌におちいる。
消しゴムで線を描いたりする。白い面が現れる。その面で色々やるのだが、遠く離れると生きていた白い面は実は死んでいたりする。
絵画が冒険である、などと言うが、絵画の行為や出来上がる過程が冒険なのである。出来上がった絵画が冒険であることよりも過程が生命である。宇宙の創造主となって冒険している。別の絵から別の絵へと宇宙から宇宙へと旅を続ける。そして宇宙誕生は巡ってくる。具象から抽象へまた具象へ。テーマが見つかると何度も宇宙は生まれて死ぬ。そしてテーマが枯渇するまで宇宙の進化を見届ける。枯渇した時は次のテーマを求めてあがく。
男女を神とするギリシャ神話であり、仏教のマンダラであり、慈愛の聖母マリアであり、妖怪の戦争する世界であり、全てのあらゆる造形を図として描き続ける。そして近所や地元の図像を求めて散歩したりする。森や畑の野菜や新鮮な魚などの生きた図像を求める。時には石ころを拾ってその自然の抽象絵画に感嘆してみる。
老いてもなお、絵とは何か?……と問い続けても分からない。分からないが、どうやら描き続けることが僕は好きなんだと再発見する。そして老いては子に従え。子供の絵画のように上手さを競うでなく無心になって描くのだ。
絵画は人生である。そして絵画行為よりも原始的なものを求めて俳句モドキの詩を作り、缶コーラに棒を突き刺し1本の弦を張り渡して1弦琴を作り奏でてみたりもする。
弦を増やしてギターになったり鍵盤になったりサンプラーパッドに変わったり歌やヒューマンビートボックスをやったりMTRに多重録音したりもするが全ては1弦琴と同じである。究極は雨の音や波の音が良い音楽として認識出来たりする。
雨の音などから俳句の世界がますます広がる。言葉と戯れて小説になったりもする。小説は日常的なものからファンタジーやSFに移りちょっとした推理やホラーにも感銘を受けるのだが詩や俳句的な世界へと戻ったりもする。
写真を撮って絵画とは別のリアリティを求めたりもするが、また絵画に戻ったりスマートフォンのアプリで加工したりする。そしてまた写真に戻るのだ。
グルグルと周りまわって鉛筆1本が好きになったりもする。老いた身体が若返る。芸術が芸となり術となり単なる行為となり食事をし排便するように、息を吸って吐くような行いとなる。結局は何だったのかと自問することもたまにはある。しかし、それさえも、どうでも良くなって落書きを芸術として認めてしまう。と同時に芸術という言葉に支配されるのをやめる。
絵とは何か?……もはや絵画ではない。絵は絵となる。油画だとか水彩だとか鉛筆画だとか静物画、人物画、動物画、植物画、シュールレアリスムなどの空想画、日本画的な水墨画の世界や漫画、それらをまとめた具象画やそれに対する抽象画という概念は無意味となり、単なる「絵(を描く)」という行為へと変わる。
絵とは何か?……すなわち自分を教育することである。いや、教育とは生きることだ。であるなら、絵とは生きることになるのだ。鉛筆を握ること。そんなものかもしれない。
姪っ子が言う。
「ねぇ。おじさん。絵ぇ描こ」
「おう。ヒマワリやねぇ。ヒマワリは太陽に向かって咲くのだと考えられたから向日葵と漢字で書くんやで」
「へぇー」とスルーする姪っ子。
甥っ子がやってきて「俺も描く」と言って絵を描く。
「これは恐竜だな。昔、恐竜というのがいたんやけど滅んでしもた。巨大隕石が落ちて空は厚い雲に覆われて寒くなったりして滅んだんやという説がある」
「恐竜って火ぃ吹く?」
「ふかんよ。火を吹くのは怪獣やな」
「じゃあ、俺、恐竜ちゃって怪獣にしとく」
「ちなみにゴジラは地上で強くて大きいゴリラと海で大きいクジラを合わせた言葉なんやという話を読んだことがあるわ」
「へぇー」スルーする甥っ子。
「さて、じゃあ、おじさんも絵ぇ描こっかな」
僕は静かに涙を流した。
5.英語と「3の法則」
現在、僕のAmebaブログでは写真やドローイングに英語の題名をつけるようにしている。あわよくば、それで英語が勉強出来るのではないか、英語が身につくのではないかとの気持ちである。が、英語はちっとも身につかない。翻訳アプリをスマートフォンに入れていて、題名を考えて日本語入力して変換しているだけだから、まあ、身につかないのは当たり前だろう。英語の題名をつければ国際的な気分にひたれる、という非常に幼稚な考えで、中身はバリバリの日本語で書いてある。
まあ、しかし、ロシアの美術館でも英語のキャプションがついていた、と一時期の情報があったので、英語イコール国際的というのは、あながち間違いではないだろう。
しかし、国際意識というのは英語を読まなくても身につくのが考えてみれば当たり前だ。別に英語で読まなくても日本語でも良いから国際社会についてのニュースを調べれば良いだけの話だ。
それなのに僕は英語イコール国際的イコールカッコいいという概念にとらわれているのだ。(汗)
ところで、皆さんは「3の法則」というのをご存知だろうか?
恋人が別れるのは、どうも3の法則で成り立つらしい。この恋人が別れる時期というのは物事に飽きる時期としてもとらえられる。これは『ホンマでっか?!TV』で武田先生が言っていたことだ。
え?
じゃあ、恋人って物事だったの?……というズバリ大正解はひとまず置いておこう。人間何にでも飽きるものだから、仕方がない。
「3の法則」とは3の倍数で物事に飽きるという話。3日、その倍である6日。この6日がだいたい1週間。そして3週間。この3週間はだいたい1ヶ月。3ヶ月、6ヶ月(約半年)、9ヶ月、12ヶ月(これで1年)。そして1年、3年、6年、9年、12年。
これは、一時期流行った細木和子の大殺界などと通じるだろう。TVで「占いは統計学だよ」と言い切っていた細木先生。まさしく「3の法則」と宿星占術の共通点だろう。さらに私見を述べれば心理学と統計学で占いは成立すると思われる。
心理学は(人間の心理に限定して言えば)あらゆる「依存」について述べられたものだとも感じる。
両親、恋人、子供、友人。いや、喧嘩相手でさえ嫌いという感覚を持ち続ける一種の依存だ。
万引き、ギャンブル、暴力、ドラッグ、痴漢。全ての犯罪も依存だと言える。いや、お酒やコーヒーや甘いケーキやお菓子にさえ我々は心の不安定を解消しようと求めるものだ。
食べることで心の不安定を解消出来る人もいれば、食べないことで心の不安定を解消しようとする人もいる。それで病気になれば過食症や拒食症だ。
僕の部屋にある、ぬいぐるみ、楽器、本、DVD、などは全て依存によって集められた物であると断定出来てしまうのだ。これが度を越すと買物依存症になる。
昔の出来事にとらわれているのも依存だし、今の現状に満足しているのも依存だ。逆に、未来は作り上げなければならないのだと無茶苦茶に働いて身体を壊すのも未来への依存だとも言える。
統計学に関して言えば、まず現象を数字としてとらえ直すこと、と言える。その数字をどう扱うかで現象をどうとらえているのかが分かれる。
10人中3人が○○しました。(例えば、家電製品を買いました、とか。)という話を聴いて3人もいる、ととらえるのか、3人しかいないのかととらえるのかの違いだ。
しかし、統計にはサンプルの抽出が必要で、全数を確認(検査)しているのか、部分数をチェックしているのかで、かなりの違いが生まれる。
僕が占いは心理学と統計学だ、と言うのは実に簡単な話で、その人の過去の傾向から未来を予測するということだ。
喧嘩っぱやい性格の人が、過去に何度も喧嘩をしていれば、未来にも喧嘩をする確率が高いという話。
ノンフィクションが好きで買い揃えている人は、やはり本屋で他のジャンルの本よりもノンフィクションをチェックする確率が高い。
コーヒーが好きな人は喫茶店に入ってコーヒーを注文する確率が高い。
そうなれば、人生のほとんどが予定調和で動いているのだ。予定調和であれば予測は可能であり、占いは成り立つ。
主婦が「そろそろトイレットペーパーを買っておこうかしら」と考えるのもやんわりとした統計だとも言える。
話は戻って英語。僕は3ヶ月でやめてしまった。うん。3の法則だね。習慣化は21日間で出来たが飽きる3の法則にはさからえなかった。毎朝、少しずつ読んでいたネット上の英語の本。なんとも無意味な時間だった。むしろ英語は翻訳ソフトだ、などと思うのだ。ちゃんちゃん。まあ、これも、どうかと思うのだが。(汗)
姪っ子が言うのだ。
「おじさん。肩揉んであげよっか?」
「いらん。おこずかいは、やらん」
「大きくなったら結婚してあげるから」
「じゃ、あげちゃう。……いやいやいや、いかん。それはいかん。3親等離れてないといかんのだ……残念だがな」
「おじさんのこと、大好き」
「僕、姪っ子ちゃんのこと、嫌い」
「なんでよー?……好きやで」
「嫌いなんだよ。お前の行動はだな、頭の中に記憶している、これまでの統計データと心理的な分析を踏まえると、欲しいものがあると、すぐに親切にしてお金を欲しがるのだ。そして、しょーもないものを買って、2~3日で飽きるんやろが」
「でも、おじさんのこと好きやで」
「あっ。そんなっ。抱きつくな。それは、ダメッ。う~ん。わかったわかった。こずかいをやろう。おじさんが鼻血を出したことは内緒やぞ」
教育者は生徒に好かれる存在でなければならないのだ。
6.猫の世界は波の音
猫は音楽を聴けるのか?
僕的には答えはNOだ。
たぶんメロディラインが主体になることもなくノイズのように聴こえてるんじゃないだろうか?
アナログシンセのノイズのツマミで音量をいじる。すると波の音のようなものができる。
猫にとって人間の音楽は、そんな感じに聴こえているのだと僕は考える。
自閉症なんかで人の話し声に集中できないのは全ての音を等価であつかうからだという。それに近いのかもしれない。
波を聴きに海辺にでかける。波は近い波と、少し遠い波と、もっと遠い波と、……としだいに遠い波の音を聴いている。しかもリズムに一定の拍がなくランダムに押し寄せる。それでも全体としては、まとまった波の音となるのだ。
この波を見ていると人間の世界だって波なのだとも思う。
流行や経済や事件や天災など。多くの物事が起きては消えていくのだ。
そう。ザボテンが枯れたり、アプリのクラゲが死んだり。これも波。……僕のせいじゃないもーん。
波の面白いところは見ていると複雑な立体でもあるところ。だからいろんなパラメーターを感じさせる。見ていてあきない。
甥っ子が浜辺を駆ける。姪っ子がそれを追いかける。ビール片手に見ているとなんだか泣けてきた。
僕が子供の頃に感じていたことを僕は忘れていたのではない。単に忘れたフリをしていたのだ、と。砂利浜はザクザクと音を立てて風にまじっていく。いや、僕の視界が涙で曇っただけだ。
「ありがとう」と、つぶやいてみる。
僕は、これから僕自身を教育できるだろうか?
甥っ子と姪っ子のように純粋な気持ちで何かを見つめられるだろうか?
猫がはじめて音楽を理解したら、どんな気持ちになって音楽を聴くんだろう?
僕はビールを飲み干して波打ち際へと駆けた。甥っ子や姪っ子も一緒に駆けていく。青い空に青い海。何もかもが新鮮な気持ちの中にとけていく。世界を見つめることや探すことだけじゃないんだ。世界の中で生きることも大事なんだと感じて両手に小さな手をつないで潮風を思いきり吸い込んで大海原と対峙してみた。海は僕らを見て微笑んでいるかのように波を繰り返し僕らにおくった。
(了)