小説『夫』
徳村慎
床から夫を取り出す。冷たくて硬い彼。でも愛おしい。彼が「愛してるよ」と喋ると口や喉の穴から虫が溢(こぼ)れ落ちた。
2人で眠る子供たちを見た。可愛い我が子の姿に夫も満足そうに頷(うなず)いた。部屋の天井には大きな蜘蛛(くも)が居る。蜘蛛が喋った。「なべてあせ、なべてあせ」どういう意味かは分からない。多分蜘蛛が子供たちを食べようとしているのだ。
私が駆け寄ると「詐病で逃げんな」と蜘蛛が言った。余りにも酷い言葉に私は泣き崩れる。私は本当に病気だ。夫も黙って私の肩を抱いた。
私たちの下の部屋で水道を使う音がする。「どびとさん、どびとさん」と呟(つぶや)きながら走り行く水の小人。蜘蛛は子供たちを齧(かじ)っている。子供たちは死んだように動かない。
私は、この嫌な夢から目が覚めた。夫が私を床から取り出す。私が「愛してるわよ」と言うと、口や頬に開いた穴から虫が溢れ落ちる。
2人で子供部屋を覗くと2匹の蠍(サソリ)がきちんと眠っていた。髪が真っ赤に燃えている男の子が天井に逆向きの重力で座っていた。長い舌をベロンと出して舐めているのは怖い顔をした丸い頭部だ。
夫が床の収納に私をしまった。次に出られるのは何ヶ月も先なのだろうか?
私は思い出した。私も昔は狭い箱に入れて育てられていたのだと。黴(カビ)のような埃(ほこり)のような匂いがした。結構私はこの匂いが好きだ。必死に息を吸った。そして吐き出す。床で私の足指を鼠(ネズミ)が齧る。どうぞ。私は鼠に微笑む。
「サマンサ、馬鹿じゃないの?……理想の結婚なんて無いのよ。みんな、何かしらの小さな楽しみを見つけて生きているのよ。わたしんちなんか、あの婆ぁ早く死ねっ、そればっかりよ。心の中じゃね。でも、そう思うと私の方が心労で死にそうだわ」
美しいカフェにそぐわない地獄のような話に私は顔を背ける。サマンサは、涙目で頷く。馬っ鹿みたい。そんな風にカフェでの私は思っていた。今では死ぬ前の人生全てが馬鹿に見える。
「チカコも、そう思わない?」バリーは私に話を振った。「まあね」と私は話を合わせる。みんなの服装を見て無駄な出費だと思ってしまう嫌悪感が湧いてくるのを抑えながら。蜘蛛が言った言葉は夢だった。ほんの悪夢。けど蜘蛛は詐病だと思い込んでいるらしい。蜘蛛は悪くない。そう思うのも病気の一種なのだ。あの蜘蛛はこの中の誰かの生まれ変わりなのか。
シミーが「私も好きに生きるつもりなの」と笑った。「だって、1人の人だけで満足出来ないでしょ?……セッ○スだけじゃなくさ。頭の中も」彼女の言いたい事は分かる。夫の頭の中に最近飽きて来た自分が居て、自己嫌悪に陥(おちい)る。私も彼女たちと、そう変わらない妻なのだ、と。
カフェから立ち上がり大きな鴉(カラス)に両肩を掴み上げられて空高く飛んだ。街がどんどん小さくなる。大きな街だったのが掌に乗るぐらい。腕時計に青空が映る。白い雲に飲まれていく。
出会えた幸福なんて小さ過ぎる。出会わなければ良かったといつも思う。鼠が「ありがと。これで、今日も生きられたわ。ホンマありがとぅな」と言った。鼠に感謝されて私は哀しく笑う。あなたを助けるために私が居るんじゃない。単にすれ違っただけなの。床下の収納の中で、鼠が去った後の孤独の中で、静かに泣いた。誰も分かってくれない。
雨の夜だった。夫が私を床下から抱き上げた。「綺麗(きれい)だ。そんなに傷(いた)んでいないよ」夫が嬉しそうに言った。その後ろからバリーがひょっこり現れた。「あらあら、涙のご対面。私たち結婚するのよねぇ。チカコ、あんたは邪魔だから、捨てるのよ。お気の毒にね。でも恨まないでよ。あんたの夫が私を選んだんだから。だって、生きてる人間が死体なんか愛せるわけないじゃない?」
私は海へと沈んでいく。夫とバリーが笑っている。全てが終わったから安心して笑うのだろう。ひょっとしてバリーが薬か何かを私に飲ませたんだっけ?……遠い記憶は上手く再生されない。海の波の中で大きな魚が私を突(つ)つく。沈んで沈んで、海底で泥が私を覆っていく。夫は幸せになれるのかな?……なれれば良いな。いや、なれないか。バリーが相手じゃね。私は笑いを噛み殺す。それでも、偶(たま)には海から上がって街を歩こうと思った。海藻の服を身に付けて、頭には珊瑚の飾りを付けて。
(了)
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