随想「歩み」5
徳村慎
オカリナは誰かに息を吹き込んで貰わねば音を奏でる事は無い。
時代であれ、経済的な理由であれ、足枷(あしかせ)は誰にでも有る。真っ直ぐに音を奏でるだけなのに、時代が息を吹き込まぬ場合や、経済が息を吹き込まぬ場合があるだろう。
人生において生き様を遺(のこ)したいと考えるならば、何を生き様とするべきかは悩み所か。
多くの生き様の見出せない者たちは他人の生き様を邪魔しようと目論む。多くの生き様を見出せない者たちは自分の夢を探している途中だと話したがる。
そして生き様を見出せた人間は(……多くないのだろうか?……数が良く分からないのだが……)自分だけを見つめる事が出来る。
人との距離ばかり探す場合、自然体でなくなり、自分を見失う。そう思うのは僕が世間知らずでナルシストで自分が一番大切だと思うエゴで生きているからかも知れない。こんな無責任な言葉は、もう直ぐ37歳の言葉とは思えないだろうか。やはり人の親となって得る部分が人生は多いのだろうか。僕には子供が居ないのでエゴの塊なのだろうか。しかし、僕は、もう自分以外を欲しがらないと決めた。
エゴで自分を磨き上げる。そんな人ばかりが集まる場所も有るだろう。エゴを失くして自分を見失う。そんな人も居るのだろう。自分を愛するエゴを失くして他人を愛するエゴに走ったら見失うのは当然か。
枯れたくはない。しかし、枯れが一番幸せだとも思う。自分と他人を比べて自分を愛するならば他人を捨てなければならない。それでも、やはり自分の子供が出来れば自己犠牲の精神が生まれるのだと思う。自己犠牲の精神を身に付けるには、男性であれ女性であれ母性が必要なのだと思う。
オカリナが自らを例えエゴで磨き上げたとしても磨き上がって魅力が高いオカリナであれば吹いて貰えるとも思う。魅力が高ければ時代や経済が手に取りオカリナを吹くのではないかと思うのだ。そして少しずつ吹かれる度に更に自分を磨き抜き、美しいオカリナに変わる。その時にはエゴが消えているかも知れない。それが子供を得ずに母性を得る方法だと思う。
そうであれば、時代や経済に手に取って貰えずとも磨き続ける事が必要だ。いや、手に取って貰えない時こそ磨かねばならない。そう自戒して少しでも僕は様々な事を磨いていきたい。少し休んだら、また、歩こうと思う。そして休みたい時に、また休めば、また歩きたくなるさ。特に、那智黒石の作品に関しては磨き抜いた向き合い方が必要だと感じる。もっともっと磨きたい。
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