随想「歩み」2 | まことアート・夢日記

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まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。



随想「歩み」2
徳村慎


誰が読んでも良い。読まれなくても良い。そんな気分で、むしろ自分が後で読み返すために随想を書ければと思う。そんな思いで散歩に来た。

海の青さ。何より朝日が眩しい。人は眩し過ぎる存在からは目を反らす。似たような言葉を辻村深月『ロードムービー』で読んだ。輝きを持つ者に対しての憧れが変形して虐めになるのだと書いてあったと思う。

恨まれる事も恨む事も、もう直ぐ37歳の僕は経験済みだ。いや、そんな事は小学生ぐらいで誰もが経験してしまうのだろう。こうして波音を聴きながら随想を書いていると全てが馬鹿馬鹿しいのだが、人間の世界は馬鹿馬鹿しい事に満ちているのだ。そして一喜一憂する事が幸せなんだとも思う。

笑い話に近いが、感情の無い人間だと思われていた事があったと思う。高校時代の恩師に会いに行く度に数度言われたと記憶する。「感情の無い人間は詰まらんやろ」と。

僕の事を言っているのだと最初は気付かなかった。僕が「完成形を思い描いてから描くと絵は早いし、一番最初に思い描いた絵が最も洗練されて完成されている」と話したからだろう。

今でも、それは大体は間違っていないと思うし、過程を楽しむ絵と完成を見せる絵は違うと思う。もちろん過程を楽しみながら完成度が高い絵もあるが、その過程は大抵は短時間で全てが終わる場合のみだろう。やはり完成度の高さが在るのは一気に集中して短時間で完成させた絵の方だ。密度と呼んでも良い。途中で集中力の切れた作品にはバラバラの時間を内在させてしまい、作品の方向性が見えにくいのだ。

ところで僕は完成形を思い描く事で感情を殺したか?……むしろ逆である。感情というものは単純であれば強さを増す。ただ、単純である事が淡白である事とは異なる。単純と同時に、しつこい感情が求められる。徹底して追及する感情である。例えば「父への怒り」をテーマにした絵が描きたい場合には「父への怒り」に含まれる全てを求めるべきだろう。「漠然とした【怒り】を表現しました」では何に対する怒りなのか、誰が怒るのか、などのいわゆる5W1Hに近い部分が見落とされがちだ。そして「父への怒り」を徹底して追及した後に残るのは「許し」の感情なのだ。これは絵だけじゃないかも知れない。芸術全般にそうなのだろう。マイナスの感情を描く事でプラスに変える事が出来る。少なくとも描き上げた瞬間はプラスなのだ。

良く「芸術は心を癒し育みます」と言う。しかし、それは単なる癒しの優しさに包まれればマイナスの感情が消えるものという意味では無いと思う。音楽療法では太鼓のような楽器でガンガンにリズムを生み出す。そこで内面の吐露が始まり、最後にリラックス出来るのだ。

ここで何故、不協和音の音楽が存在するのかも説明がつくと思う。内面の吐露の疑似体験や共有体験なのだろう。

ただ、僕の言っている事が「1点物の量産と完成度を持つ作品をいかに素早く仕上げるか」に重きを置いた話になってしまっている事であるのも分かって頂きたい。趣味で芸術をやる場合には当てはまらないだろう。そして長編小説を書く場合には当てはまらないようにも思えるからだ。……しかし、考えてみると幾ら長編小説であってもテーマは存在する。『指輪物語』にもスティーヴン・キング『IT』にもメルヴィル『白鯨』にも。喜怒哀楽が変化に富んだ作品であればある程、テーマが求められる。バッハなどのバロック音楽に見られる通奏低音がそれだ。逆にベースラインが変化に富んだ楽曲ならばコードやメロディに繰り返しが多くする必要がある。そうでないとバラバラな感じの楽曲になってしまうだろう。

結論……完成度は、しつこく短時間集中で生み出せ!

……と、ここまで書いて来たが、書いている内に分かる事も多いと感じた。随想は頭の体操だ。眼前の海から思い付くままに書くのも楽しい。散歩と随想は相性が良いらしいと独り頷く。(微笑)







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