小説『薬と仮面』5
徳村慎
「ああああああぁッ。ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんッ
」黄色の瞳の赤い仮面の女が、仮面を剥ぎ取って謝る。「君がそんなんやって知らなんだんやッ。演技なんやと思ってたわぁあああああァ。ごめん」赤い仮面は床に落ちて乾いた音を立てる。仮面を取ると深い傷が顔面にある。こんな傷がついてるなんて可哀想だ。「なんで……怪我したん?……女の子やのに可哀想や」僕が言うと黄色の瞳が悲しげに見つめる。「それもか。それも覚えてないんやな。君に傷つけられたんや。包丁でな」女は僕をギュッと抱き寄せた。良い香りに包まれて僕の唇が震えた。良い香りに包まれると震えるのか、と一瞬考えた。しかし、直ぐに全身に震えが広がっていく。心臓が痛い。僕は死ぬのだろうか?「死ぬなよ。なっ。死んだらアカンよ!……気をしっかり持って。君は死なんからッ。死なへんからッ」体温が低下し続けた。僕の記憶は途切れた。黄色の瞳が頭の中で拡大して黄色い波紋が黒の地に広がる。中心から外へと次々に波紋は広がった。いつまでも中心には新たな円が生まれた。黄泉(よみ)の国は何故か黄色の泉と書く。僕は泡を吹いた。横を向いて涎で窒息しないように頑張る。黄色い鳥たちが羽ばたく。そんなに羽ばたくから羽が黄色の水面に落ちた。また波紋が生まれる。波紋が3次元のコンピューターグラフィックスアニメーションのように回転した。その波紋が複雑に重なって女の姿になったり抽象画になったりした。そしてまた、単なる波紋へと変わる。「ごめんごめんごめんごめん」遠くで鳴り止まない音楽は女性の声だと気付いた。もう、謝るな。僕を安らかに死なせてくれ。……薬か。飲み過ぎたのか。どうせ死ぬんだ。恨んだりしないからさ。安らかに眠らせてよ。ね。ごめん、なんてどうでも良いからさ。何かを知らされる事は重要ではない。言葉で「アンタが必要だ」と言われるのも「必要ない」と言われるのも変わりは無いんだ。必要ならば態度で分かる。言葉は嘘に近い。どうとでも言える。しかし、僕は赤い仮面の女に嘘を吐いた覚えなど無い。無いのだ。黄色い波紋に赤い仮面が落ちる。そして赤い仮面が割れると黄色の血飛沫(ちしぶき)が視界を黄色に染めて、僕は黄色の波の中にプカプカ浮かんだ。黄色の世界の中に薄っすらとシャボン玉が生まれた。そのシャボン玉は黄色の世界から己の陣地を広げ続けた。ICレコーダーが僕を襲う。音だけが黄色い。「ごめんごめん」と繰り返す声が音楽になってうねる。弦楽器の音に変わっていく。夕暮れのように不安定で心を傾(かたむ)かせる黄色。目の前は暗いのに黄色の音が満ちていく。赤い仮面の女が黒い色で再現される。仮面は深く暗い緑色をしていてそれも消えると、やはり弦楽器が高く低く「ごめんごめん」と歌っていた。死の恐怖は無い。僕が停止していくだけ。たぶん、死が怖いのは生きる事が嫌いだから。いや、生きる事は好きだ。好きなように生きられたと、いつも思っているから死が怖くないのかも知れない。それとも独身のままだから、なのか?……Sorry , But I love you. Crazy for you. 黄色の花が咲いた。向日葵(ヒマワリ)だった。花言葉は、ずっとあなたを愛する、だったかな?……たくさん、たくさん植えていく。心の向日葵畑。死ぬんなら、この花を赤い仮面の女にあげなきゃ。あげなきゃ。「ごめん」音楽は言葉を失って人の声では出来ない高さに昇っていく。黄色の花が開いていく。太陽がひとつひとつの花に宿っている。何千万本もの太陽系を僕は育てた。黄色い太陽系。僕は死の眠りにつく。「ごめん。無理や。君と一緒には、おれへんねん」駅前のベンチで眠っていたらしい。暗い青色の髪をした赤い仮面を被った美人が言った。「もう、おやすみ。君と会う事は、二度と無いから安心して」僕は美人の膝枕から身を起こす。顔面が急に胸に抱きしめられた。「じゃあな。楽しかったわ。世界が変わった。色んな事が知れた。君も頑張りぃや」美人は駅のホームへと向かった。僕は美人が誰なのかをぼんやりと考えた。小さな子供が美人に駆け寄り2人は改札を抜けて姿を消した。頭の中にノイズが生まれた。白くチラチラと光るノイズ。それが次第に視界の大半を占めた。白いノイズは数字だった。015326497852346512421547856839088241688098658075466325145780900650942721340758073103738056410427530960854075690096065123425134521667895648720089657421
白いノイズの中で僕は一体誰なのかと考える。誰なのか?……記憶が戻らない。ゴキブリの唐揚げが出て来たらしい。僕は海老(えび)のようだと思って食べてしまった。吐いた。白いノイズが僕を締め付ける。苦しい。ゴキブリなんか食べていないのに。ゴキブリが黒から白へと転じる。数字で出来上がった白いゴキブリ。大量の白いゴキブリが僕の身体を覆い尽くす。僕は数字に覆われて転生する。気付くと駅前のベンチに居た。あの赤い仮面の美人は、もう居ない。暗い青色の髪が僕の背後から渦を巻いて背中を叩く。振り返っても誰も居ない事に気づいている。一緒に居られないのは縁が無かったのだ。あの人もこの人も。僕に縁が無い事が突き抜けて考えれば喜ばしく嬉しい事だとも思える。ベンチに座っていると僕の周囲を青い髪の長い女が飛び回って僕を責めようと考えているようだった。しかし、コレは妄想なのだ。一時的に見える幻覚に過ぎない。白いノイズが脳内を荒らしていく。視界に現れては消える白い粒がキラキラ光る。乾燥して僕が粉に成るような。そっか。僕は粉に成るのか。眠い。数々の間違いや勘違いに僕の人生は満ちていた。僕の周囲は僕に踊らされて来たのか。それでも僕自身が眠い病気に冒(おか)されていた。眠くて眠くて全てを忘れてしまう僕はメモを必死に取って現実に自分を繋ぎ止める。暗い青の髪が、やはり僕の背中を叩く。記憶が消えてしまうのだ。全てが作り物のように感じられて僕は沈み続ける。ノイズなんだ。僕はこの世に必要無い。死にたい。何故、僕が生きているのか。価値など無いのに。いや、神は何かの罰で僕を苦しめているのだ。神は優しい存在ではない。決して。……苦しみを与える神が本物なのか。じゃあ喜びは悪魔なり妖怪なりが与える物だろうか。動物霊に化かされて僕はベンチに座っている。全てが死んでしまえば良いと思った。僕が死ぬ前に全てが消えて欲しいと願う。暗い青の髪がふわりと空を舞う。僕は振り返った。しかし、誰も居ないのだ。見知らぬ人の中で僕は孤独に押し潰(つぶ)されそうになる。ぐらりと地面が揺れた。白いノイズが脳内で確変モードになって出て来るパチンコ玉のように溢れた。電飾が玉の表面に映り込む。無数の宇宙に成る。ああ。自分でさえ宇宙には何百と居て。自分でさえオリジナルではなく。「我思う故に我あり」は1つの宇宙でのみ通用する理論だと考えた。では自分とは誰であるのか。パチンコ玉みたいなものだ。誰かが飛ばして重力に従って落ちるだけ。そしてまた、何処かの世界に現れる。現れては消える事を輪廻転生という。その生はパチンコをやっている者にとってはある意味必要で、ある意味不必要だ。必要なのは換金のためで。不必要なのは換金すればただの玉であり、店の中でしか通用しないからだ。パチンコをやる者、すなわち神のような存在にとってはパチンコ玉は遊び道具に過ぎない。遊び道具の価値とは遊ぶ時間の中にのみ存在する。その時間が終われば用無しだ。この世界は神の遊び場である。学者もひょっとすると神に近いのだろうか。しかし学者に神の視点は永久に得られない。自身の神が司るのは自身の世界のみ。では絶対神は完全なる視点であるか。その通りだ。完全なる視点こそが数学で言う直線であり、人間界の不完全な直線はフラクタル曲線に過ぎない。しかし、考えてみれば絶対神は居ないのではないか?……神は大勢居て、神の住む世界の多くのパチンコ店に出入りしていて、遊んでいるのだ。その神もさらに上の世界ではパチンコ玉なのかも知れない。僕は跳ねて床に転げ落ちた。これが眠りだった。
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