小説『薬と仮面』6
徳村慎
ざあああっ。
雨が降り出した。その音に目が覚めて身を素早く起こして窓を閉めた。僕は深夜だと携帯電話で確認して壁にもたれた。パンダのぬいぐるみが笑った。「覚えてないんだな」僕は答える。「うん」何を覚えていないのか問われたのかが分からないのだが、とりあえず答えたのだ。深夜の雨は僕の肌に触れるように感じる。そして雨が皮膚を離れて遠くなっていく。雨との一体感が消えていく。さらに雨は遠くなった。もっと遠くなるのだろう。いつの間にか雨音が消えていた。意識の外に追い出したのだ。パンダのぬいぐるみが笑い続ける。雨の音がパンダの笑いに混じっていく。深夜か。眠さが薄れて文庫本を取り出す。『パンセ』だ。パラパラと捲(めく)って読むが中々頭に入らない。パンを焼いて食べた。口の中の雨でパンが溶かされていく。静かに笛を吹く牧神パーンが胃で居るのだ。笛は嫁姑のいざこざへと変わる。パーンは、ただ受け流して見ている。詰まらぬ話だし、面白くもある。「婆さんはホンマにワザとやっとるんや!……包丁もまな板も隠しさがす」笛の音が風を作り出す。パンダたちが踊る。笛の中に住んでいる嫁と姑が喧嘩して小姑までが加わり嵐になる。笛を吹くパーンは、どこ吹く風。知らぬ存ぜぬを通すだけ。笛はパンフルートと呼ばれる。パーンが吹くからだそうだ。何本もの竹の筒を並べて音階を作り、唇の下に当てて吹き鳴らす。パンダたちが踊っていた。フランスパンを齧(かじ)りながら。嫁と姑の喧嘩が続く。自分を良く見せようと虐めに耐え抜く嫁が居た。どの家でもそんなものだ。「覚えてないんだな」パンダが問いかける。いや、答えなど始めから分かっていた。「うん」と僕は答える。雨が降り止(や)まぬ。このまま雨が続けば良いと願ったりする。何故願うのか。雨は止むと知っているからだ。雨が降るだけで心が踊るのは止むと知っての事。永遠に止まない雨に出会った事の無い民族ならではの発想だろう。雨季と乾季がハッキリと分かれた熱帯ならば。或いは雨しかない天気の世界ならば。僕は嬉しがったりしないだろう。人はハレ(お祭りなどの特別な日)とマレ(たまにしか起こらない出来事)を喜ぶ。ケ(日常)を大切にしない。しかしケの積み重ねこそが大事なのかも知れないとも思う。ケの中のマレを探して生きる人の素晴らしさ。パンダのぬいぐるみが笑う。僕も笑う。深夜なのだ。眠れないのだ。パンダが僕を起こすから僕もパンダと笑う。だからパンダは眠れない。眠れない夜は孤独を噛みしめて眠るべきか。そうすれば早く眠れるだろう。プラスチックのストローで作ったパンフルートをそっと吹いてみる。音の風が雨の隙間を走る。パーンも真似して吹いている。森の中で居るパーンが頭脳という森を築き上げる。森が森を生み出して小さな森が増えていく。パンダのぬいぐるみたちが森に増えていく。パンダの眼に映る緑の森が揺れている。まるでパンダの眼が揺れているようだ。世界をパンダの眼に限定すれば、世界が揺れている事になるだろう。アンパンを食べた。甘みが口の中に広がってふわりとした心地良さ。これが美味しいという事なのだ。パーンの1人は大きなパンフルートを奏でる。豊かな美しい音色に僕は酔いしれる。緑の中で雨を見つめた。雨が次第に大きくなって僕の部屋を作り出す。ぱきっ。錠剤を押してパッケージから取り出す。そして今夜も水で流し込む。また忘れてしまうのか。忘れてはいけないことも。全ては幻か。悪夢と現実は、どちらが美味だろう。飲んだ覚えのないお酒の缶が机の上にある。僕はタバコを吸わないのに缶には潰された吸い殻。口紅が少しついている。仮面の女が、ぼんやりと脳裏に浮かぶ。少女のようにも僕より歳上の女性のようにも感じたが浮かんだ影は、すぐに消えた。部屋のベッドに転がるパンダのぬいぐるみ。何も喋らない。雨が降り始めた。雨が僕の感情をも流していく。パンダがベッドの上で起き上がる。笑っていた。深夜か。時計を見て眠りに落ちる。しかし、それは束(つか)の間の眠りだった。カチッ。ちゃらちゃんちゃっちゃっ。ラジオのスイッチが何もしないのに、ひとりでに入り演歌が流れた。深夜だ。老人向けのラジオ番組だ。僕は飛び起きる。部屋には誰も居ない。窓の外からアスファルトの道路を走っていく足音とワハハと笑う声がする。1人の声だと気付きゾッとする。あの人間は、こんな深夜に1人きりで笑っているのだ。誰だ。ラジオのスイッチが入ったのと関係あるのだろうか。気味が悪い。リューズが勝手に動いてラジオ番組はノイズに変わる。パンダのぬいぐるみをギュッと抱いた。ガタガタガタッ。地震が来た。弱震なので心配ない。しかし不気味さは増していく。雷のような光が窓を照らす。見た瞬間に長い髪で顔の隠れた女の姿が映った。腰を抜かして動けない。女は外からドンッと窓を叩く。すると右側のロックが外れた。「ああああ」僕は言葉にならない悲鳴を上げる。パンダのぬいぐるみを握りしめた。女は、またドンッと窓を叩く。左側のロックが外れる。そして女は闇夜に白い肌の手で窓を左右に開けた。女は身体を部屋に入れる。助けて。言葉にならない悲鳴が息となって漏れる。髪が分かれて女の顔が見えた。目の下側は肉の塊だった。鼻は無く口の中まで繋がっている。下顎の乱杭歯(らんぐいば)が見えた。女は近寄り、僕は後ずさって本棚に背中をぶつける。もう逃げられない。雷がまた光った。女の姿は消えていた。雨が風とともに部屋に入って来る。僕は立ち上がるのに暫(しばら)くの時間が必要だった。トイレで震えながら小用を足(た)す。パンダのぬいぐるみを額に付けて祈る。ありがとうございます。大難は小難に。眼を閉じて開くと別の部屋に居た。裸の女たちが僕を取り囲む。乳首を吸いながらズボンを脱いだ。女たちがキャッキャとはしゃぐ。上になり下になり踊り踊らされて揉みくちゃにされて眠りに近いのだがもっと迫り来る快楽に酔った。裸で皆んなで踊って僕を誘う。誘いに乗って代わるがわるに抱く。精を出し尽くして舐め尽くしてしゃぶられて時間の経つのも忘れて夢現(うつ)つの状態で寝まくる。ドロドロに溶けて繋がって柔らかな肌を楽しんだ。腰が勝手にゆっくりと動き続ける。スローな中にも長く尾を引く快楽。気持ちいい。抱きしめたままで眠る。女たちが僕を撫で続ける。朝だった。夢の中で馬に乗った西部劇の映画で観たような男たちが走って行く。ライフルで川の泥水に撃ち落とされた。目覚めると目の前に女性が眠っていた。どんな顔だろう。髪を掻(か)き分けると美しい額が見えた。けれど頬には刃物で切った痕がある。ため息が出た。誰が、こんな事をしたんだろう?「引っかかったなァ?」女は目を見開き僕の首を絞める。苦しいのだが、美人に殺されるのも悪くないと思い、無抵抗で死ぬ事にした。動かずにいると「どうした?……大人しいやないか」と手を離す。「いつもと、ちゃうやん。何があったんや?」女はシャツの中に手を突っ込むと、ブラジャーの中から薬を取り出した。「さぁ、お薬の時間ですよぉ」僕たちは仲直りした。彼女は久しぶりに赤い仮面を外した。彼女の振舞う手料理には自信が溢れていて、夢に爆進中なのだと気付いて、僕は笑って目尻に涙が出て来るのを誤魔化した。窓の外は晴れ渡る青空。パンダのぬいぐるみがベッドの上に転がっていた。
(了)
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