小説『薬と仮面』3
徳村慎
目が覚めた。「アンタがやった事の仕返しだよ」違う。元は女が仕組んだ事なのだ。ちゃんと思い出せないが、女が悪いのだ。ふとMR2が脳裏に浮かぶ。何故だろう?……誰かが乗っているのか。乗り物。乗り手は車を操る。操る人。仮面の女は僕を操ろうとしている。僕が女に利用されているのは何かの記憶を無くしたからだ。それは恐らく薬の大量摂取による健忘というヤツだ。薬を飲んでからの記憶が飛ぶ事が時々有る。しかし、女は人工的に健忘を起こさせようと仕組んだのだ。何故だか理由は分からない。しかし、この女は殺されなきゃ分からないらしい。……いつか。アイドルの曲で激しいものが頭の中で歪んで再生される。全てが黒く染まってアイドルたちが殺戮(さつりく)を繰り広げるのだ。アイドルたちは僕たちと寝ようとしていた。淫欲が彼女たちを支配していた。そして寝た後で殺すのだ。アイドルたちが気持ち良い歌を歌うのは僕たちを素直に従わせる目的だ。アイドルたちに取り囲まれて木造の工場へと入って行く。暗闇の中で僕は倒れ、気づくと布団
に横たわっていた。薄明かりの中で目覚める。まだ夜なのか。何故か9歳ぐらいの少女と一緒に眠っていたらしい。少女は、すやすやと寝息を立てる。まだ心臓が少し痛む。手を目の前で動かす。痺(しび)れていて、ゆっくりとしか動かない。光が脳内で生まれて映像が生まれる。ヘッドライトがバックミラーに見えた。そして強い衝撃。MR2が後ろからぶつかり、僕のaltoは谷底へと落ちたのだ。もう助からないと考えていた。仮面の女は助手席に乗っていた。白衣の男が運転席でニタリと笑う。僕は何故、谷底に居るのに男の表情が見えるのだろう。仮面の女は不安がった様子で男を見た。白衣の男は女の胸を服の上から揉みしだく。何かの触れる気配で目が覚めた。9歳の女の子が寝返りを打って僕の胸に手を触れたのだ。部屋の奥から声が聞こえて、脳内の映像は消えた。「利用し尽くして捨てたろ、おもて(思って、の関西弁)なァ」黒い布をすっぽり被った女の声だ。以前に見た姿は中身が人間なのかと疑う動きをしていた。芋虫のような
動物が中に入っているようだった。女は「思って」を縮めて「おもて」と話す。関西弁だ。僕は女も関西からこの辺りに土地勘があるのだと気づく。しかし、利用出来るような力や才能が僕には無い。利用って何だ?……映像が戻る。MR2の濃い青を塗り替えて銀色の車にしていた。何故か車体の形まで変わっていく。別の車に成っていく。メタモルフォーゼ。冬虫夏草か。一緒に眠る9歳ぐらい少女から幼児の匂いと体温が伝わる。映像は切れぎれになり白衣の男の声がした。「速いみたいな噂立てといて勝てるんかよ?……そっか、速さは求めてないわけね」馬鹿にした白衣の男はせせら笑って嫌がる仮面の女の服を剥ぎ取っていく。どういう事だ?……9歳の女の子が僕の胸に顔を埋(うず)める。ふと気が遠くなり、カツカツと靴が鳴ったので意識が戻った。近づく足音に視線を上げる。緑の肌の女性だった。人間じゃないのか。蛇のような肌だ。少し視界がぼやけてから元に戻る。肌の色が日本人の色になった。赤い仮面を付けている。「おう。起きたか。気分
ええんやったら、もう帰ろか」目を細めて優しさを取り繕う女性。僕は決めた。殺される前に復讐してやる。「ああ……ちょっと気分が悪いもんで、もう10分だけ寝かせて」僕は頭痛がするのだ、と言わんばかりに拳を眉間に当てる。この拳を叩き込んでやるからな。また色彩が変化した。緑の肌になった女性は「ほんなら、10分だけな。それ以上は待たへんで」と言葉を掛けて腕組みをして立ち去ろうとする。女性の顔は整っているのだが、緑色の粘液がべっとりと滲(にじ)み出ている。爬虫類のような鱗(うろこ)も見えている。これは幻視か?……それとも異世界へと辿(たど)り着(つ)いたのだろうか。僕は2つの人間に分かれていく。布団で横たわる僕と、車で走っている僕に。「あの……」布団で横たわる僕は震えて手が動かない事をアピールして縮こまる。「この子、お姉さんの娘さん?」9歳の女の子は、化け物の娘か。都合が良い。殺してしまえ。お前だって虫に全身を喰われた姿なんだ。いや、僕も、そ
うかも知れない。皆んな虫に内臓を喰われてしまったのだ。禿げの薬剤師が幽霊となって虫をゾロゾロと袖口(そでぐち)から出した。ムカデ、ヤスデ、ダンゴムシ、クモ、サソリ、ハサミムシ、シデムシ、ゴキブリなどが大量に床に溢れる。床は埋め尽くされた。幽霊が消えても床の虫たちが蠢(うごめ)く。布団へと這い上って来る。虫の1つを掴んで食べている赤い仮面の女は緑の皮膚をモゴモゴと動かしながら言った。「まあな。私の子ぉみたいなモンや」緑色の女性は笑った。赤い仮面から血のような液体が滴り落ちていく。「まだ痺れとるみたいやな。ゆっくりお休み」そう語る口の中からゴキブリが3匹次々に這い出て来た。僕は布団で横たわる僕から意識を飛ばして、車に乗る僕に乗り移る。銀色に生まれ変わったMR2が僕のaltoの後ろをピッタリと付けて走っている。僕はホームセンターの前で急停車させた。重い衝撃音で後ろを走っていたMR2が軽く空に浮かんで地面に叩き付けられた。僕の車を避(さ)けようとして歩
道との境のコンクリートにぶつかったものらしい。シャーシが変形した事を確認して僕は走り去る。「速さを求めとるみたいやけど、もう、それじゃ速く走れんなぁ」と窓の外に向かって呟きながら。何故か僕の呟きが聞こえたらしい。蒼ざめた顔で白衣の男は僕の車を見つめた。ふっと車の中から意識が戻る。また布団に横たわる僕の中に入っていた。向こうでお酒を飲んで宴会でもしているのだろうか。緑の女性の声は談笑に混じっていく。きっと向こうには、こんな爬虫類みたいな人間が集まっているのだろう。僕を食べるつもりなのか。火で炙(あぶ)ってジューシーな肉をむしゃむしゃ食べるんだ。ジューシーか。この少女もエロいジュースを溢れさせられるのだろうか?……僕は少女を抱きしめてみる。少女は夢を見ているのだろうか。ふふっ、と笑った。薄明かりの中で黒髪の艶が美しい。お酒より美味しいジュースを飲んでやろう。Feel your juice.ダンサブルなビートに乗せて心臓が踊る。頭脳に流れる音楽は、16分音符で刻まれるハイハットと4つ
打ちと刻まれた地を這うシンセベースがBPM130から一気に160にまで高まっていく。どうだい?……この温(ぬく)もり。幼児は高体温だからこっちが汗ばんできそうだ。まだ柔らかい脂肪がそんなに付いていないとはいえ、体温が高いから柔らかく感じる。頭を撫でてから膝を少女の両足の間へと入れて股まで進ませる。膝を動かしながら、両手の親指で胸を擦(こす)るようにして残りの指を少女の背中側に回す。次第に少女は身体が熱くなって頬まで上気していく。少女が、さらに美しく感じる。美しい。美しいよ。世界って。ミロのビーナスじゃ、この美しさは再現出来ない。あれは石の塊(かたまり)だ。どんな美術品も女性の美しさや体温には敵わない。今抱いている9歳ぐらいの少女ならば尚更(なおさら)美は極まる。じっとりと少女の身体が湿って来た。汗と……もしかして愛液なのか?「愛とは液体なのか」僕が言うと目隠ししたキューピッドが現れて西瓜(すいか)にかぶりつく。西瓜から叫び声が出
て血が大量に飛び出す。良く見ると人間の頭部だった。キューピッドは食べながら器用に喋った。「愛は液体に決まっているだろう。そもそも君は宇宙に存在する思索が液体で繋がるとは思っていなかったのか?」そうだった。ドーパミンであったりセロトニンであったり分泌物を流すには液体である必要が有るように感じる。僕の思索は電気信号だとも思っていたのだが。「電解質も液体だよ。イオンは君の脳内にも存在するんだ」キューピッドは2つ目の頭を齧(かじ)り始めた。赤い目を爛々(らんらん)と光らせて語った。「食欲だって愛欲の1つの形じゃないか」僕にもそう思えた。だから彼は人類の頭を次々に齧っているのだ。そしてキューピッドが僕にも齧るようにと促(うなが)す。僕は9歳の少女の頭を齧る事にした。しかし、復讐を遂げる前に睡魔が襲い掛かり僕は眠ってしまった。数字が浮かぶ森の中を進み、水のようなジェルのような空間を泳いだ。魚が僕を見て逃げ回る。水から上がると身体が冷え切っていて温かな岩にしが
みついて甲羅干しをした。抱きしめていた少女は僕の身体に巻き付く。いつの間にか蛇になっていたのだ。アナコンダのような巨大な蛇は僕を絞め殺した。ぐるぐる巻いた身体を解(ほど)き時間を掛けて丸呑みにしていく。ぐるぐる巻いているのが数字の模様だと気付いた。DNAが僕の目に見えるのだ。遺伝子工学が手を伸ばせば出来る。僕は原子を入れ替えてDNAを作り変えた。言葉だってDNAなんだ。きっと。遺伝子が流れて言葉に成る瞬間を僕は見つめたいものだ。本能と学習なんて糞食らえ。遺伝子の中に虫が居て、虫が言葉を話しているんだのに。虫の言葉は闇の中で意味と結び付く。結び付く前に僕は気付いた。落ちる。暗闇の中で僕は地面を探す。ずっと落ち続けている感覚だった。地面が有った。座席だった。手を伸ばすとハンドルも有る。これは多分altoだ。座席に座り直して前を見つめるとフロントガラスに雨が当たって流れていた。そして僕はハンドルを握る手を緩めて眠りに落ちた。その瞬間、僕は下着の中に射精していた。いや、裸だ
ったのかも知れない。眠りの中で。
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