小説『青空の変態ピアニスト』
徳村慎
「君の指がピアノを走るとゾクゾクするよ。戦慄の旋律だね」
唇を舐め回す僕を見て、杏奈ちゃんは溜め息をついた。変ッ態。ボソリと呟いて弾き続ける。
「ああん。そこは、もっと感情的に、腰を振り乱すように弾かないと。愛を込めて!」
僕の言葉に、またか、という冷たい視線を投げてから力強く弾く杏奈ちゃん。
レッスンが終わって、僕は素面に戻る。「どうも、お疲れさまでした。全体の感じは掴めてますので、コンクールには間に合うでしょう」それだけの言葉を掛けて、さっさと、スタジオの外へと出る。
今は素面。しかし、ピアノを目の前にすると変態になってしまう奇病『クラビル・コンバテレ』に罹ってしまって42年。私がこの病気なのは周知の事実だ。世間が私を天才だの、変態だの、変態の天才だのと良く噂をする。私の変態は病気なのだ。病気の苦しみをあなたがたは知っているのか。自分でもコントロール出来ない変態性が活火山のマグマのごとくに表出し。恥も外聞も仏陀の無の境地のごとくに忘却の彼方に押しやり。ピアノとの愛の戯れは盲目のキューピッドが弓矢をマシンガンのように私の心に撃ちまくり感じまくり。人格は崩壊してチョモランマの雪崩のごとくに押し流して私はピアノと一体になる。ひとことで分かりやすく言おう。ピアノを見ると酒のように酔っ払うのだ。
スタジオからゆっくりと歩いて行くと声を掛けられた。
「先生。どうかされましたか?」
弥生ちゃんだ。最近ジャズを勉強中の25歳だ。可愛い、くりんとした瞳が少し不安げにこちらを見ている。
私はどんなジャンルの音楽でもピアノで表現出来る。クラシックならばバッハ、ショパン、ベートーヴェン、ムソルグスキー、ガーシュウィン、シェーンベルクなどありとあらゆる音楽家。ジャズならモンク、チックコリア、山下洋輔、上原ひろみの曲も当たり前。ラテンや演歌やガムランやインドのシタールの響きから津軽三味線でさえ表現出来てしまうのだ。ロックやR&Bやヒップホップもお手の物。最近ではEDMにピアノを乗せたりもしている。
「ああ。外の空気が美味しいね。夕陽を江戸切子のグラスで飲むようなものだね」
私は適当に嘘をつく。
「ピアノを離れた時の先生の方が優しいんですよね」
弥生ちゃんと一緒に空を眺めた。
果たして、この子は分かっているのか。ピアノと一体となった、ピアノに恋する私の優しさを。
恋愛といえば、彫刻でアムールとプシケという題名のものをご存知だろうか。キューピッドの別名であるアムールとは愛。プシケとは精神だ。プシケは英語でサイケ。あのアメリカでのサイケデリック・フラワー・ムーブメントですら神話の続きの舞台なのだ。ベトナム戦争に揺れたアメリカが求めた精神がドラッグであったことは少し哀しい。しかし、我々の脳内も体内で生成されるドラッグ漬けだとも言える。その最たるものが快楽物質ドーパミンだ。ピアノを見ると私の脳内にはドーパミンが溢れる。これがクラビル・コンバテレという病の極み。
弥生ちゃんは「じゃ、私はライブがあるんで、これで失礼します」とトコトコと歩き去って行く。君が神なら天地創造でジャズピアノを鳴らすのだろうか。
死にゆくアントニオ先生の部屋でピアノを奏でたのも私だ。お前に弾いてもらいたいんだ。お前ならば私のピアノを心から理解して再現出来るだろう。しわがれた声で目を瞑ったままで語る先生。随分とお爺さんになったものだ。
あの時は高揚感と共に、死神たちが大きな鎌を持ち、踊っていた。先生の部屋でダンスを踊る死神は、私の脳内のイメージであったのだろう。しかし、その踊りを感じたのか、先生は笑顔でポツリと言った。「踊る骸骨のようだな。中々宜しい。君の変態ぶりは、師匠に似て本物らしいな」
突然、風で窓が開いた。雷が近くの樹木に落ちて燃え、横殴りの雨が室内に入って来る。
私の弾くピアノも濡れた。指は私の意志通りに動く。顔は涙なのか雨なのか分からないが濡れていて、先生はピアノに合わせて低く歌っていた。
最後の一音を弾き終わると、死神たちが先生の魂を連れて窓の外へと飛んだ。死神たちは線路のように連なり、魂を運んで行く。私の見た幻は雨雲にポッカリと丸い穴まで開けていた。その穴には信じられないことに弱い光の月と太陽が浮かんでいて、夜でも昼でもない青空が見えた。次第に死神たちは青空へと吸い込まれる。消えるのか。
その時、私の身体がふわりと持ち上がった。翼の生えた女性に手を引っ張られたのだ。ひとつ翼を軽く羽ばたかせると僕の身体は青空に運ばれていた。あらゆる国のあらゆる神々が拍手で私を迎える。天上にしか無い不思議な光を放つ豪華絢爛なピアノの前へと運ばれる。僕はアドリブで美しい旋律を弾いた。いつまでも、いつまでも弾き続けて、青空と私は溶けて行く。
目覚めると私は先生の部屋でピアノにもたれて眠っていた。振り返ると、冷たくなった先生が安らかな顔で笑いかけるようにベッドで永遠の眠りに就いていた。幻はクラビル・コンバテレの仕業なのかとも考えたが、先生の引き起こした奇跡のようにも思えて、私は感謝して先生の手を握った。
真琴ちゃんが手を振って走って来る。彼女はEDMとピアノを合わせることを僕から学んでいる。確か17歳だったか。花の女子高生か。私は、スタジオから遠からぬ、公園のベンチに座り物思いに耽っていたらしい。「先生、ダブ・ステップは少し古いですけど、良いですよね。あの3連系の混ざるLFOでのリズムの、アナログシンセのベースに、3連符で、ついていきたいんですよ」と語る真琴ちゃん。君なら直ぐ出来るさ、と答えたら凄く嬉しそうに頷く。
私は地下鉄で自宅に帰ろうと立ち上がって思いつく。そうだ。杏奈ちゃんのクラシックで始まり、弥生ちゃんのジャズトリオが引き継ぎ、真琴ちゃんのEDMへと繋がるコンサートなんてどうだろうか?
3人の前座の後に奏でるピアノの調べが私の現役引退になるのだろうか。あの青空で弾いたように、変態ぶりを全て出し尽くすコンサートにしたいと、私は思って、先生の居るであろう暗くなって行く空を見上げた。
不幸にもミューズに見初められてしまったピアノの天才が私なのか。先生も、こんな不幸な目に遭って苦しんだり、或いは思いっ切り楽しんでいたのだろう。結婚しなかった先生は、私を実の息子のように可愛がったものだ。ああ。しかし、ミューズは私から人間への恋心を奪ったのだ。女は魔物、などと言うが、芸術の女神は最上級の魔物である。ピアノへの恋愛が我が人生か。「そうですよね?」と私よりも変態だったアントニオ先生に心の中で呼びかけた。君ほど変態では無い、と聴こえた気もするがその答えは風に掻き消された。
(了)
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