[西魏:大統四年 東魏:天平五年→元象元年 梁:大同四年]


●元象改元
 春、正月、辛酉朔(1日)、日食があった。
 この月魏112霊徴志では「去年の8月」)、東魏民の陳天愛が南兗州碭(トウ)郡【孝昌二年(526)に徐州の下邑城に碭郡が置かれた(陳留の北東、彭城の西にある】の陂(池?)中にて巨象を発見した《魏112霊徴志》
 巨象は捕獲されて鄴に送られた。
 丁卯(7日)、東魏は大赦を行ない、年号を天平から元象に改めた《魏孝静紀》

●東雍州・南汾州陥落

 東魏の太保の尉景高歓の姉の夫。536年12月参照)が厙狄干高歓の妹の夫。歓と共に西魏の夏州を陥とした。536年正月参照)・斛律金北斉17斛律金伝)・可朱渾元北斉27可朱渾元伝)・薛修義周34楊檦伝)・莫多婁貸文らを率いて西魏の晋州(もと東雍州)・南汾州を攻めた《北斉19莫多婁貸文伝》。西魏の晋州刺史の金祚字は神敬)と守将の皇甫智達(北斉27可朱渾元伝)は城とともに降伏した《北53金祚伝》
 己卯(19日)、東魏の大都督で善無の人の賀抜仁字は天恵。焉過児? 530年〈5〉参照)が西魏の南汾州を攻め、刺史の韋子粲字は暉茂)とその弟で鎮城都督の韋道諧を降伏させた《北26韋子粲伝》
 子粲が城に殉じなかったため、関中にいたその兄弟の大半が処刑の憂き目に遭った《北斉27韋子粲伝》。ただ洛陽にいた末弟の韋子爽だけは、西魏の員外散騎常侍の裴寛537年〈4〉参照)のもとに身を寄せて難を逃れた。のち大赦が下されると、ある者が子爽にこう言った。
「これであなたの罪も赦されるでしょう。」
 そこで子爽は裴寬の屋敷から姿を現したが、結局赦免の対象とはなっておらず処刑されてしまった。独孤如願が裴寬を呼びつけて何故匿っていたかと責めると、寬はこう答えた。
「どこにも行くあてが無く、一縷の望みを抱いて頼ってきた者を捕らえるのは不義というものでしょう。今日罪を得ることになりましても、悔いはございませぬ。」
 如願は既に大赦が下されていることを理由に、寬の罪を不問とした《周34裴寛伝》

 建州に進軍していた楊檦はこれによって孤立無援となり、腹背に敵を受けることとなった。そこで檦は撤退を考えるようになったが、義勇兵(進軍中に付き従ってきた者たち)が最後まで自分に付いてくるか心配だったため、『四方より援軍を派遣した』という泰の書を偽造し、これを偽りの使者に外から届けさせたのち、その内容をそれとなく周囲に漏らして安心させた。その上で義勇兵の頭目たちにそれぞれの配下を率いさせ、軍費を調達するという名目で四方の地を荒らしに行かせた。彼らが出発し終わったのを見ると、檦はその日の内に出発し、深夜に邵郡に帰還するを得た(原文『恐義徒背叛、遂偽為太祖書、遣人若從外送來者、云已遣軍四道赴援。因令人漏泄、使所在知之。又分土人義首、令領所部四出抄掠,擬供軍費。檦分遣訖、遂於夜中拔還邵郡。』)。西魏は檦がよく軍を全うして還ったのを評価し、檦を建州(治所 土箱)刺史とした《周34楊檦伝》

●潁・豫・揚・義・広州陥落
 2月、己亥(10日)、梁の武帝時に75歳)が藉田を耕す儀式を行なった《梁武帝紀》
 
 東魏の大行台の侯景・司徒の高敖曹・大都督の万俟受洛干・索盧県侯の慕容紹宗もと爾朱兆の腹心。歓に降ると高隆之と共に鄴の朝政を任され、のち韓雄の挙兵を平定した。535年〈2〉参照)らが虎牢(北豫州の治所)に兵を進めて任祥去年、宇文貴らの軍に敗れて北豫州に逃げこんでいた)・堯雄大梁に逃げこんでいた)らの軍と会し、再び潁州を攻めた。守将の梁回らは城を棄てて遁走した《魏孝静紀》。堯雄は侯景らと別れて楽口を攻め、潁川太守の郭丞伯もと堯雄配下)を虜とした。
 雄は更に懸瓠(豫州の治所)を攻めて西魏刺史の趙継宗趙剛?)と都督の韋孝寬らを追い払った。ここに雄は再び行豫州事とされた。
 西魏はこのとき是云宝を揚州刺史として項城に拠らせ、韓顕を義州刺史として南頓に拠らせていた。雄はこれも攻めて一日にその二城を陥とし、宝は逃がしたが、その妻妾や将吏二千人と韓顕・揚州(魏孝静紀)長史の丘岳を虜として鄴に送った。この功を以て雄は驃騎大将軍を加えられた。
 のち雄は侯景に従って魯陽(広州の治所)を攻めた《北斉20堯雄伝》が、数十日をかけてもなかなか陥とすことができなかった。そのうち西魏の援軍が近づき、侯景が諸将を集めて善後策を講じると、行洛州事の盧勇字は季礼)が敵援の様子を探りに行くことを求めた。侯景がこれを許すと、勇は百人の騎兵にめいめい一頭の換え馬(急行する際、乗馬が疲労するとこれに乗り換える)を持たせて(原文『各籠一匹馬。』)出陣した。そして大隗山まで到ったとき、勇は西魏の李景和(李弼)の援軍部隊がすぐそこにいるのを知った(『資治通鑑』ではこの時夕方だったとある)。すると勇は多くののぼり旗を樹上に縛りつけて敵の注意をそこに引き付けたのち、夜間に騎兵を十隊に分け、角笛の鳴るのと同時に敵陣に突っ込ませた。奇襲は成功し、勇軍は西魏の儀同の程華を捕らえ、同じく儀同の王征蛮を斬り、三百頭の馬を駆り立てて夜明けに帰還した。救援の望みを失った広州刺史の毛鴻顕北49毛鴻顕伝)と守将の駱超孝武帝が歓と対峙した際、宇文泰が援軍として派遣した。534年〈3〉参照)は城と共に降り、東魏の丞相の高歓時に43歳)は勇を行広州事とした【考異曰く、『典略には侯景が広州を陥としたのは11月とあるが、北史魏文帝紀には2月に東魏が南汾・潁・豫・広四州を陥としたとある。今は後者の記述に従った。』《北斉22盧勇伝》
 盧勇は、盧弁孝武帝が都落ちした時、家族を捨ててこれに従った。534年〈4〉参照)の従弟である。
 堯雄も豫州刺史に任じられた《北斉20堯雄伝》
 丙辰(27日)、東魏は兼散騎常侍の鄭伯猷を正使、兼通直散騎常侍の宇文忠之を副使として(魏81宇文忠之伝)梁に派遣した《魏孝静紀》

○北斉17斛律平伝
 行肆州刺史。周文帝遣其右將軍李小光據梁州,平以偏師討擒之。

 李弼...字は景和。生年494、時に45歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。のち小関の戦いでは竇泰を討つ大功を立て、沙苑の戦いでは僅かな手勢で東魏軍の横腹に突っ込み、前後に二分する大功を立てた。537年(4)参照。

●文帝、可汗の娘を后とす
 柔然の頭兵可汗は、北魏に護送されて帰国を果たした頃(521年正月参照)は北魏に恭しく接していたが、北魏が乱れている内に北方に勢力を拡大してからは、次第に態度が驕慢となり、使者を送ることはしても臣と称することは無くなった。また、秦州刺史の汝陽王暹がその典籤で斉人の淳于覃を使者として派遣してくると、これを抑留して重用し、秘書監・黄門郎として事務のことを司らせた。頭兵は洛陽に滞在した時から中国の文化を敬慕するようになっており、中国でいう王のように振る舞い、侍中・黄門などの諸官を設けていた。
 のち北魏が東西に分裂すると、頭兵はますます中国に不遜な態度を取るようになり、度々その国境を侵犯するようになった。西魏はこのとき東魏と戦うのに手一杯で北辺に兵を送る余裕が無かったため、婚姻をしてこれを懐柔しようとした。そこで舍人の元翌の娘を化政公主として頭兵の弟の塔寒に嫁がせ、更に頭兵の娘を文帝(時に32歳)の后とすることを申し出た。
 甲辰(15日)《出典?》文帝は皇后の文后535年〈1〉参照)を出家させて尼とし、司空の王盟と(周20王盟伝)、頭兵と面識のある扶風王孚523年参照)、楊寛楊荐に頭兵の娘を迎えに行かせた。頭兵は孚に会うと非常に喜び、約束通り娘の郁久閭氏時に14歳)を西魏に送ることにした《北16元孚伝》

 3月、辛酉(2日)高歓が沙苑に敗北したことを理由に大丞相の辞職を申し出、孝静帝時に15歳)に受理された《魏孝静紀》

 柔然は西魏に娘の郁久閭氏を輿入れさせるにあたって、車七百台・馬一万頭・駱駝千頭(通鑑では二千)を伴わせて引き出物とした。その一行が黒塩池【五原付近】に到った時、西魏から派遣されてきた儀仗兵(護衛兵)が到着した。柔然は東を貴いものとしていたので、このときその天幕は出入り口や座席に至るまで全てが東に設けられていた。これを見て扶風王孚がこれを中国風に南の方に正すように求めると、郁久閭氏はこう言った。
「魏主に会うまでは、私は誓って柔然の女です。魏の儀仗兵が南にいても、私は東を向いています。」
 孚はこれに何も言い返すことができなかった。
 丙子(17日)《出典?》文帝は郁久閭氏を皇后に立てた(北13悼皇后伝では正月に長安に到着している《北史西魏文帝紀》。これが悼皇后である。頭兵可汗の長女で、容姿は整っていて威厳があり、早くから成熟した頭脳を持っていた。頭兵は東魏の使者の元整を抑留し、断交した。
 丁丑(18日)《出典?》、西魏が大赦を行なった。
 また、王盟を司徒とした(周20王盟伝では司徒とされたのち柔然に迎えに赴いている《北史西魏文帝紀》
 この月、西魏の丞相の宇文泰時に32歳)が諸将を率いて長安の朝廷に参内した(皇后の冊立式に出席するためか)のち、華州に帰還して兵を統べた《周文帝紀》

 夏、4月、庚寅(2日)高歓が鄴の朝廷に参内し、禁酒令(537年閏9月参照)を解くことと、宿衛の武官たちを救済することを求めた。
 壬辰(4日)、晋陽に帰還した《北斉神武紀》

○北13文皇后伝
 時新都關中,務欲東討,蠕蠕寇邊,未遑北伐,故帝結婚以撫之。於是更納悼后,命后遜居別宮,出家為尼。悼后猶懷猜忌,復徙后居秦州,依子秦州刺史武都王。帝雖限大計,恩好不忘,後密令養髮,有追還之意。然事祕禁,外無知者。
○北13悼皇后伝
 文帝悼皇后郁久閭氏,蠕蠕主阿那瓌之長女也。容貌端嚴,夙有成智。大統初,蠕蠕屢犯北邊,文帝乃與約,通好結婚,扶風王孚受使奉迎。蠕蠕俗以東為貴,后之來,營幕戶席,一皆東向。車七百乘,馬萬疋,駝千頭。到黑鹽池,魏朝鹵簿文物始至。孚奏請正南面,后曰:「我未見魏主,故蠕蠕女也。魏仗向南,我自東面。」孚無以辭。四年正月,至京師,立為皇后,時年十四。
○周22楊寛伝
 三年,使茹茹,迎魏文悼后。
○周33楊荐伝
 魏大統元年,蠕蠕請和親。文帝遣荐與楊寬使,并結婚而還。
○北98蠕蠕伝
 東、西魏競結阿那瓌為婚好。西魏文帝乃以孝武時舍人元翌女稱為化政公主,妻阿那瓌兄弟塔寒,又自納阿那瓌女為后,加以金帛誘之。阿那瓌遂留東魏使元整,不報信命。
 ...元象元年五月,阿那瓌掠幽州范陽,南至易水。九月,又掠肆州秀容,至於三推。又殺元整,轉謀侵害。
 …始阿那瓌初復其國,盡禮朝廷。明帝之後,中原喪亂,未能外略,阿那瓌統率北方,頗為強盛,稍敢驕大,禮敬頗闕,遣使朝貢,不復稱臣。天平以來,逾自踞慢。汝陽王暹之為秦州也,遣其典籤齊人淳于覃使於阿那瓌。遂留之,親寵任事。阿那瓌因入洛陽,心慕中國,立官號,僭擬王者,遂有侍中、黃門之屬。以覃為祕書監、黃門郎,掌其文墨。覃教阿那瓌,轉至不遜,每奉國書,隣敵抗禮。

 ⑴頭兵可汗...郁久閭阿那瓌。520年に柔然の十九代可汗となったが、内乱に遭ってやむなく北魏に降り、朔方郡公・蠕蠕王に封ぜられた。523年叛乱を起こし、討伐軍を差し向けられると北方に遁走した。のち、北魏の内乱に乗じて勢力を拡大し、525年、勅連頭兵豆伐可汗を名乗った。
 ⑶王盟...字は子仵。宇文泰の母の兄。爾朱天光の関中征伐のさい賀抜岳軍の先鋒を務め、活躍して征西将軍・平秦郡守とされた。宇文泰が侯莫陳悦を討伐した際には原州の留守を任された。537年(1)6月参照。
 ⑸楊寛...字は景仁(或いは蒙仁)。生年501?、時に約38歳。名門弘農の楊氏の出身。懐朔鎮将の楊鈞の子。文才があり、武芸にも優れた。六鎮の乱中に父が死ぬと、その跡を継いで懐朔鎮を守備したが、敗れて一時柔然に亡命した。のち、太宰の元天穆に従って陳慶之と戦った。爾朱世隆や高歓が洛陽に迫ると防戦の指揮を執った。534年(4)参照。
 ⑹楊荐...字は承略。無欲で慎み深く、感情を表に出さなかった。宇文泰の譜代で、渉外を担当し、孝武帝や柔然への使者とされた。

●訓戒
 5月、甲戌(16日)、東魏の使者で兼散騎常侍の鄭伯猷が梁に到着した(2月参照)。
 これまで、梁は東魏から使者がやってくると、騎射の宴を開いて侯や王に接待をさせるのが通例だった。 しかし、伯猷の時には、領軍将軍の臧盾武帝に信任され、六軍の指揮を任された。533年参照)に接待をさせた。論者たちは冷遇された伯猷を貶した。
 伯猷は帰国すると驃騎将軍・南青州刺史とされた。伯猷は州に赴くと妻(安豊王延明の娘)と共に蓄財に励み、収賄を公然と行なって親戚たちにも恩恵を与えた。〔あまりに収奪が酷かったため、〕農民は逃散し、村落には誰もいなくなった。伯猷は州内の富豪に叛乱の罪を着せ、家財や家人を全て自分のものとし、男性は殺し、女性は奴隷とした。州民たちの怨嗟の声は州境を越えて四方に伝わった。その結果、伯猷は御史の弾劾を受け、数十の罪を列挙されて死罪の判決を受けた。しかし、のちに赦免を受けて死を免れた。高澄は朝士たちに訓戒・勉励を行なう際、常に伯猷と崔叔仁崔㥄の弟。潁州刺史となったが、私鋳を行なうなど汚職行為を繰り返し、御史中丞の高仲密の弾劾を受けて興和年間[539~542]に死を賜った)を悪い見本として引き合いに出した。

○梁武帝紀
 五月甲戌,魏遣使來聘。
○魏56鄭伯猷伝
 元象初,以本官兼散騎常侍使於蕭衍。前後使人,蕭衍令其侯王於馬射之日宴對申禮。 伯猷之行,衍令其領軍將軍臧盾與之相接。議者以此貶之。使還,除驃騎將軍、南青州刺史。在州貪惏,妻安豐王元延明女,專為聚斂,貨賄公行,潤及親戚。戶口逃散,邑落空虛。乃誣良民,云欲反叛,籍其資財,盡以入己,誅其丈夫,婦女配沒。百姓怨苦,聲聞四方。為御史糾劾,死罪數十條,遇赦免,因以頓廢。齊文襄王作相,每誡厲朝士,常以 伯猷及崔叔仁為諭。

●柔然、幽州を侵す
 この月、柔然が東魏領の幽州范陽郡に侵入して略奪を行ない、易水まで南下した所で撤退した。

○北98蠕蠕伝
 ...元象元年五月,阿那瓌掠幽州范陽,南至易水。

●段栄の死
 6月段君墓誌)、山東大行台・六州流民(北54段栄伝)大都督・儀同三司の段栄歓の妻・婁妃の姉の夫。天象に通じ、沙苑の戦いの敗北を予見した。537年〈3〉参照)が中山にて(段君墓誌)亡くなった(享年61。段栄伝では翌年の5月とある。今は段君墓誌の記述に従った)。昭景と諡された《北斉16段栄伝》

 秋、7月、東魏荊州刺史の王則537年〈4〉参照)が梁の淮南を荒らし回った《出典?》王則は去年西魏に攻められ梁に亡命し、間もなく東魏に復帰している)。

 癸亥(6日)、梁の東冶(建康東にある鉄工場)の工徒の李胤之が、空から降ってきた仏舍利を手に入れた。梁はこれをもって大赦を行なった《梁武帝紀》
 戊辰(11日)、兼散騎常侍の劉孝儀)を東魏に派遣した《南史梁武帝紀》


 538年(2)に続く