さかさうろこ | かや

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『逆鱗に触れる』という言葉は、本来は「君主の怒りに触れる」という意味だ。
「逆鱗」はさかさうろこ、何の鱗かといえば、魚の鱗ではなく、龍の鱗だ。龍は架空の動物で、その龍の喉にまた逆鱗があるというのだから、お伽噺に等しい。
猫ならば喉を撫でれば喜ぶが、龍はそうはいかない、その逆鱗に触れると怒って人を殺すという。
その話は『韓非子』(説難<ぜいなん>篇)に出てくると飯塚朗氏の「中国故事」に解説されている。

人を説服するということは大変に難しいことで、相手が君主であれ、貴人であれ、その相手が自分を愛しているか憎んでいるかよく察してから話を持ち出さなければいけない。
あの龍という動物は、機嫌の良い時は馴れて、乗っても平気だが、しかしその喉元に一尺にも渡って逆鱗(さかさうろこ)が生えていて、もし人がそれに触れようものなら、必ず人を殺す。君主もまたこの逆鱗があるから、それを心して触れないようにすれば、成功が期待出来よう、というのである。
従って、『逆鱗』は、「急所」か「虫の居どころ」か、この話は戦国のことで、君主諸侯の中を遊説しているから、対象は目上の者になっていなるようだが、今では誰でも相手には「逆鱗」があるものと心得れば処世術の一端にはなるかも知れない、と飯塚氏は記している。
      

逆鱗に触れるとは、ずいぶんと激しい表現に思うが、ごくごく稀に、何故怒り出したのか分からない、周囲が戸惑うような怒りを表す人が居る。
その人にとっての怒りのポイントが正に「逆鱗」で、会話、或いはこちらの対応や反応が、その逆鱗に触れてしまい、その人は猛烈な勢いで怒り出す。
大抵の場合、何故それほどにまでその人が怒ったのかは殆んど全く理解し難かったりする。
そして、理由を聞いてもそれほど怒ることなのかは、とんと理解出来ない場合が殆んどだ。
しかし、そのような意味不明な逆鱗を持つ人だということは分かるので、当たらず障らずで接するようになる。
気を遣うのとはまた別で、勝手に感情を拗らせ、得体の知れない不穏な怒りを発露させる相手を宥めるのは実に馬鹿馬鹿しいし面倒なので、正面から相手にしなくなる。対峙せず、ひどく適当にあしらうことになる。適当にあしらわれていても、自分に甘言ならば当人は得心するので扱いは楽といえば楽だ。


怒りの沸点が低い人も面倒だが、謎の逆鱗を持つ人もまた面倒だ。
怒りの正当性がその人の個人的なウィークポイントであるが故に、なかなか常人には理解し難い場合がある。
ましてや、「私の逆鱗に触れた」などと平気で自分に使う場合は、かなり目線は上ということになる。
本来は君主の怒りに触れるという意味だし、使い方としても、「社長の逆鱗に触れた」などと使っているのは社長を君主に見立てて、非常に怒られたことを大袈裟に表現しているのだろう、だから本来の意味では天皇には使っておらず、あくまで比喩の、また比喩で生き延びている言葉といえる、と飯塚氏は記す通りで、比喩のまた比喩としても、あまり相応しい比喩では無いが、私の逆鱗に触れたとあからさまに怒る人は既にその逆鱗自体が怒りとして相応しくないと言うか、通用しない怒りでしかないのかなと思ったりするし、本来の君主の怒りに触れるという意味の逆鱗を知ってしまうと、私の逆鱗に触れたとは、なかなか言えないので、少々恥ずかしい。


thursday morning白湯を飲みつつ、窓越しの空を眺める。

本日も。変わらず。