わたしに戻る | _ a o _

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life is, beautiful


海に行ってきました。


とてもとても気持ちよくて
入らなかったこの数年
人生損してたな!と思いました。

でもきっと、
今だから、

気持ちよさが
わかるんだと思う。



最初は海水、
わたしと海水、

という感じで

抵抗というか
隔たりを感じましたが

だんだん

海水が水になって、
肌にとけあうような

まろやかでやわらかで
一体になった感覚。

とてもとても気持ちよかった。




この感覚を持てたことが
財産になりました。


この感覚は、
わたしの感覚。

今までは
感覚でしかなかったけど

今回は体感できた。
一体になる気持ちよさ。

その時の
水の音、水面に差す光、波
ぷかぷか浮かんで
見上げた空、山、飛んでたトンビ?
砂浜の感触。

しあわせ。




海の後日、
長崎市内を歩きました。

長崎市内を歩いてるとき
このメロディが流れてました。

宇多田ヒカルさんの「人魚」

(これで聴けるのかな?)


たまのをで聞いたら
この曲はじぶんに戻ってるね、と。

ハープの柔らかな旋律が
波で水面が
やさしく揺れているような。

その感覚に包まれながら
街を歩いていたと思います。




ご縁あって
今回初めて長崎に来ました。

ちょうど潜伏キリシタン関連が
世界遺産登録をされて
目を向ける機会になりました。

そしてわたしは
こころが潜伏しているので
どこか惹かれるところがありました。


そして
信仰、いのり、って何だろう?
と思いました。

いのちをかけてまで
なぜ信仰を貫いたのだろう?

あたまで
いろいろ考えてましたが

いまいちしっくりくる
答えがないまま
昨日はたまのをの日でした。
(じぶん解きをサポートしてくれます)


上の↑写真を
撮ったときの感覚が

開けてきてるよ、
と教えてもらいました。

海水と一体
境目のないひとつのつながり
じぶんを感じてる実感
肉体をはるかに超えていく領域
これが存在っていう感覚
その感覚の中そのものでいる
状態そのものが祈りでもある

本当に神が喜ぶのは
無心、無私、何もないいのり
存在そのものでいる、ある
その状態でその場に行くことが
ある意味本当の祈り

そして
わたしのなかに
本来あるものは
いのりなんじゃないか

海のなかに入って何もない状態
あれがいのりそのもの〜

など、いろいろ
お話しているうちに、

ああ、、、
この感覚を奪われるとしたら

こころを奪われるような
略奪されるような

とても不快だな、
と思いました。


この感覚はいのり、
信仰はいのり、
それはわたしのこころ。

隠れキリシタンの方々は
じぶんのこころを
守り通したんじゃないか、と思いました。



信仰、いのりは
時に争いをつくります。

それはきっと
形、あたまに
囚われていってしまったから。

それが
これまでの
信仰だけでなく

いろんな時代、ところで
起こってきたことの
元かなと思います。



戦争とは、、、
と悶々と考えていたら
とても美しい
メッセージを見つけました。

(あったまりんちゃい〜陽の光を浴びた言葉たち さんのブログです)

以下抜粋
人々よ…… 
あなたたちは 目に見えるものだけにとらわれすぎたのです〜
この連鎖を 
心の力で断ち切らないかぎり
この世から戦争がなくなることはない
決して平和が訪れることはないのです〜

浦上天主堂で

被曝マリアさまにお会いしました。


目がとても深い

空洞になっていました。




戦争がいいわるい

この信仰がいいわるい

そういう時は終わって


問われるのは

じぶんにいつわりのないこころ。

本来のじぶんの感覚。


それが

いのりであったり

真実であったり。


表現はあるけど同じもの。




また、世界遺産展に展示してあった

一文に惹かれました


〜戦争は人の心の中で

生まれるものであるから

人の心の中に平和のとりでを

きづかなければばらばい〜


UNESCO 憲章の前文の一文。

この前文に象徴されるように


〜平和を守るのは

他のなにものでもなく

人間の精神のあり方である。


とするUNESCOの考え方は

武力や条約による平和とは異なり

人種や国家を超えた

人間一人ひとりへの信頼と、、、



 

この一週間、数週間が

いろいろつながってる感じがします。


でもうまくことばにできない。

答えもわからない。


キーワードをぽんぽん

もらって拾ってる感じです。




今のところ、

一体になる喜びと、


わたしにとって

いのりは身近なものだということ。

それが少しわかった気がします。


わたしに戻っていくような。