いやー畏れいった。
まったくもって自分の業務には関係がない方なのに。ご自身も自分の業務で飛び回ってお忙しいはずなのに。


「忙しく頑張っとるらしいな。酒も呑む暇ないんじゃないか?」


と、自身を下戸と知りながら声をかけてくれた取締役。・・・カッコよすぎてやばい。

「こなしますよ、なんとか。呑めない代わり、落ち着いたらうっめぇモン食わしてください。」って返したら笑ってたけど、いや、こーゆーオトナがいるからオトナって憧れの対象になれるんだなと思いました。

計算でやっちゃうとコレってすごく嫌らしいことになるんですよね。下手な人が口走れば、ただの茶化しに響くかもしれない。
その手の差し伸べ方とタイミングを卒なくこなせる人に限られた魅力生成術というか。。。人生経験なのかなぁ。。。すごく憧れます:)

そんな人間力で人徳を積み上げる様な卓越した魅力なんて持ち合わせてはいないけれど、評価されるべき人に評価されていると、安心してその物事に集中出来る。。。少し振り返れば、今、ちょうど必要なコトだったかもしれないな。

明日からもがんばろーと、素直にそう思わせてくれる、そんな午後でした;)
切羽詰まると、人はどうしても頭がグルグルになるものです。

でも、一晩寝て、落ち着いて対処してみれば、なんでそこまで焦っていたんだろうと思うことばかり。
頭の働きは精神に多くはたらきかけるものなので、焦り始めれば、頭がうなり出せば、まずは寝る。これが一番と教えてくれているのは、社会に出てからしばらくの自分です。

人間のキャパシティなんてたかが知れているものなので、そこを無理に負荷かけるばかりでは何の成長も期待出来ない。
展望も、視野も、まずは落ち着くことからでないと広げられることができない順番として考えれば、頭の整理の前に落ち着くことがなにより大事なのはよくわかると思います。


気持ちを落ち着かせる習慣。

コーヒーだったり、おしゃべりだったり、寄り添いだったり、睡眠だったり。
それをちゃんと離さずに置くことを捉えてる人は、やっぱステキな笑顔をもってるような、そんな経験則を捉えてます。

がんばることは間違ってない。
それでも落ち着くことはなにより重要。

そういった世の中の歯車になれることに感謝しています。
信用されたい人に信用されて、お仕事につながったり、頼られたりすると、精神的にとても救われます。僕の場合。

と言い始めると、僕個人が何をもって「信用されたい人」を選んでいるかとなるんでしょうけどね。
名声だったり、規模だったり、単なる欲だったり、その度にいろんな尺度が顔をのぞかせている様な気もし無くはないけれど、「期待値をもって接してくれる人」というのが、一番の要素に近いような気がするな。

そういった人を増やすために、丁寧なことや真摯になること。利益よりも何よりも"嘘を言わないことを心がける"、その積み重ねが必要になってきて、あとはもう受け手側の判断基準に委ねる様な、静かでありながら乱暴なアピールを続けてるわけだけど、それでもちゃんと判断いただける方に選択されると、むずがゆくも嬉しい気持ちでいっぱいになります。


なんで、こういうことを書き始めたかというと、ちょうどそういったお仕事の受け方をしたもので。
相談先からは期待を。僕自身は自分の出来ることを。経験ある方に信用を。
規模もそこまで小さくないお仕事にして、瞬間で組合わさった快感が暫くぶり過ぎて、あまりに心地よく、嬉しかったので。

能動的な行動と、培う経験と、結果の共有がスムーズにいく。

これが仕事の醍醐味ってやつだと思います。


もちろん、お仕事は終わってないのでこれからのことなのだけど、丁寧に、これまで通り。
不得手な分野にも、もっともっとこんな感覚増やさにゃね:)
必ず理由があるものだから。

偶然と思えるそれも、一見、漠然と包まれているような環境も。
その足下で見つけた小さな幸せも全て、ちゃんと理由があって、その上に気持ちがある。

人は気持ちに支えられると同時に、理由の上に座ってる。
出来ないことも、当然のことも、意識に上にあるものだから、感謝が出来て、感じあえるものなんですよね。

今の時代はその理由の片鱗だらけ。
ほつれも新しい結い方も、適応に漏れた理由の欠片、そればかり。

自分に理由を作らないことがどれだけ難しい世の中なのかを理解してはじめて、
コトバは変わるんだと思います。


そして、その運命はコトバで変わる。

粗雑にならずに、繕わずに。
伝えることを諦めなかったその先に、望まれる結果は待っているものだと思ってます。
例えば「食べる」を表すとして、「美食」というのと「食いしん坊」というのでは印象が全く違うんですよね。
言い方一つで違うのは当然として、視覚からはいる場合にはどうなんだろうと思うわけです。
その光景を「美食家」と捉える人間もいれば、ただの「大喰らい」と捉える人間も多分いそうです。

好きの表現というか、自分の思う表現とその欲望に類する行動が、必ずしも他人の視野のそれとは噛み合わないことなんて多くあるんじゃないでしょうかね。

親切をお節介としていたり、気遣いを当然のことと捉えたり、意識しないことを勘ぐった上で皮肉と悟ったり。
人間の感情は常日頃フラットであることが稀である以上は、その波長はあって然りなんですが、その波長だけで物事を捉えきろうとすると、とんでもない方向に事実は曲げられてしまいそうです。

人間は機械ではないもの。その変容を受け入れてはじめて対話の位置に立てることってよくあって、日常で「冷静」とされている人は、言語化しなくともそこへの理解をなんと無しに体得している様な気もします。ただの熱意だけでは事実からは遠のいてしまうことを、およそ理解しているんじゃないでしょうかね。

するかしないかでいえば、人にどう思われたいかを意識することは、社会に関わる身としては最低限必要なことだとは思います。
だからこそ、受ける側の変容の部分、その可能性を視野に入れてあげないことで、その判断がただのエゴに映ってしまうことは仕方の無いことなんだと思います。

黒があれば白がある世の中だから、全てを頷かせることは不可能としても、どうだろう。
面倒くさがらない、おおらかなスタンスで、人の変容を受け入れられると、自分のココロに、言葉に余裕がもてるような気がします。

理解しあいたいと思うのなら尚更。
人はえてして違うものと理解した上で対話を楽しめる様になると、今までより少し進んだ、思い描くものに近いコトが生まれそうです。お互いにね。